白紙の本

 その日、この世界に来てから七日目の朝を迎えていた。

 昨晩に雨が降ったため、窓越しで見える道路には小さな水溜りからは、時折、ジャブンと水滴が弾ける音が響いていた。


「あっ、おはよ、アヤセくん」


 上下で統一された白無地のパジャマだったが、洒落たデザインだ。まだ眠そうに目を擦りながら挨拶をする茅乃の後頭部の髪が外にハネている。


「おはよう、茅乃」


 そんな無防備な姿を見て、どこかやましい感情を抱いてしまったことに申し訳なさを感じつつ、挨拶を返した。


「あっ、いま、朝食作ってるから、テレビでも見て待ってて」

「ああ、ありがとな」

「ん」


 そう告げてから、キッチンに隣接したリビングのソファへと座る。眼前のテーブルにはこの辺りの地図と赤のマーカーが置かれていた。

 地図には境界線の引かれている場所が事細かに記されており、それはここ数日で得た俺たちの成果でもある。


 テレビには相変わらず記憶とは違った時系列の番組が流れていた。二〇一五年のチャンネルもあれば、少し変えれば、二〇〇八年のニュースまでやっている。その不規則性は無秩序で放送性もクソもない。


 あれから、実に四日が経ち、境界線を地図に書き起こす調査を始めて、気付いたことはいくつかある。

 まず驚かされたのは、その規模感だろう。

 とりあえずはと、茅乃の家を中心に一キロ圏内の境界線を探し始めたが、その範囲は想定を凌駕して遥かに広く、東西南北を覆うように展開された透明な壁は不規則に街を貫き、施設などを囲っていた。

 調べていくうちに分かったことだが、基本的に境界線は公園や広場、商店から裏路地に至るまで様々な道筋に沿って張り巡らされていた。特に内装は見えていても、入ることのできない施設などがいくつも見られたことは興味深い。


「それに」と俺は、印のついた地図を握り、全体像が見えるように顔から離してみる。すると、境界線は茅乃の家のあるエリアを中心に蜘蛛の巣のようにマーカーが伸びているようにも見えた。

 このことに様々な疑問が湧き上がるが、この事はまだ胸の内に秘めておくことにした。


 ペンを握った手で頭を掻きながら、俺はさらに情報をまとめる。


 それともう一つ、あの宙に浮かんでいた泡沫についても分かったことがある。

 クレープ屋の前で、俺が過去の茅乃らしき人物とその父親の記憶を覗き見たときのことだ。


 まず出現場所だが、それはまさに神出鬼没。しかし、どの泡沫に限っても、茅乃の記憶・・に関係するものであった。


 ————追憶現象。


 そう名付けることにした。

 茅乃の記憶を追体験している様に感じることからそう呼んでいる。見た記憶の内容は、念のため、忘れないよう日記に書き残している。


————————————————————————————————————

 泡沫記録

 一日目……なし

 二日目……駅近くの広場で、茅乃と父がクレープを食べている記憶

 三日目……近所の公園で、幼少の茅乃が友達と遊んでいた記憶

 四日目……ファミレスで、家族とテーブルを囲んでいる茅乃の記憶

 五日目……小学生の茅乃が友人と談笑しながら帰宅する記憶

 六日目……通学路のコンビニ前で、小学生の茅乃がアイスを食べてる記憶

————————————————————————————————————


 こうして記録として、まとめてみると気づくことがある。第一に徐々に茅乃の年齢が上がっているということか。記憶の中での少女の容姿は段々と現在の茅乃に追いつき、迫っているということになる。


 また、すべての記憶に共通していることとして、泡沫のある場所と追憶の風景に結びつきがあるということが分かった。

 広場なら広場での、帰宅路なら帰宅中の記憶といったように、その場所に対応した、もしくは結びつきの強い茅乃の記憶を見ることが出来る。

 そのための条件は一つだけ、あの泡沫に触れること。


 そしてもう一つ、すべての泡沫に関して共通することがあり、それは——。


「お待たせ、朝食できたよ」


 地図と泡沫の位置を照らし合わせながら、日記の内容を斜め読みしていた、そのときだった。背後から人の気配を感じたので、ぱたっと日記を閉じる。ちょっとだけ、過剰に反応してしまったかもしれない。


「それで、今日はどこに行くの?」


 鼻腔をくすぐる仄かな甘い香り。覗き込みながら身を寄せてくる茅乃に戸惑いながらも、俺は手元の地図を見せる。


「こっちの方角だな。ここに行けばこの辺りは、おおよそ終わりだ」

「あれ、そこって」

「どうかしたか?」

「ここをまっすぐ行くと、ほら。私の中学校があるんだよね」


 茅乃は指をつうと道なりに這わせて、広々とした敷地を指差す。


「ああ、そういえばそうだったか」

「あれ? 私、アヤセくんに中学校のことを話したっけ」

「そう、だったか? 前に少しだけ聞いた気がするけどな」

「ん〜。まぁ、アヤセくんが言うなら、そうなのかな」


 茅乃はそう言うと、斜め上に目線をもっていき思い出そうと首を傾げた。

 中学校の場所を知ったのは、追憶現象でのことだ。追憶の件は、茅乃には話していないので、会話に食い違いが生じてしまった。


「中学か。せっかく近くを通るわけだし、行ってみるのもいいかもしれないな」

「だね、久しぶりに行ってみよっかなぁ〜」


 話題を逸らすために立ち上がると、ダイニングテーブルに視線を向ける。


「今日も豪華だな。茅乃の負担も増えるし、たまには外食でもいいのに」

「まぁまぁ、私の料理の腕とレパートリーを自慢するという目的もあるからね。和食にフレンチに中華と、いろいろと試したから」

「確かに、茅乃の料理の腕には感心させられているけどな」


 幼い頃から家事を手伝っていたのだろうか。

 追憶現象で見ることのできる、茅乃の記憶はどれも断片的だが、大雑把な性格の割に料理が得意なのは少しだけ意外だと思っていた。


     ꕤ


 昼下がりの東京駅。俺の提案で一度だけ作業を中断して、ショッピングに出掛けることにした。境界線の都合上で入れない店もあったが、それでも駅周辺は比較的に透明な壁は少ない。


「これ、何万冊があるんだ?」


 駅近くの丸善では眼前に広がる蔵書の数々に溜め息をこぼす。この本の山が一階から三階にかけてを埋め尽くしているのだから、感嘆するのも当然だ。


「それで、本屋で何をするの?」

「少し調べてみたいことがあったんだけど」


 本屋に訪れた理由は他でもない。

 記憶に関することともう一つ、気になることを調べるためだ。ただこの世界には変な常識がある。

 そのため、俺は試しにとぱっと目に付いた山積みのビジネス本を開いてみる。


「なんだ、これ」


 異様な光景に息を呑んだ。

 ——開かれた本は、白紙だったのだ。

 真っ先に頭に浮かんだ可能性は、手に取った本がたまたま不良品であったということだろうか。だがその隣も、その隣の本も。ほとんどの本の中はすべて白紙でなにも書かれていなかった。よく見ると、表紙がない本も多く見られる。


「まぁ、残念だけど、本は見れそうにないな」

「そうだね」


 茅乃もどこか仏頂面で提案に頷いた。


     ꕤ


 その後、時間を潰すために向かった雑貨屋では、マグカップやフォトフレームなどの什器が並んでいた。

 店内の一角である装飾品コーナーに差し掛かったときだ。眼鏡物のサンプルから茅乃は何かを手に取ると、襲いかかる。


「はい、セカイくん。この眼鏡をちょっと掛けてみてよ」

「茅乃っ、何を——」


 茅乃の声色は愉快げで、デザインを確認する隙すら与えられずに指示されるがままそれを掛けた。


「変じゃないか?」

「——くふっ。うん、すごく良いと思う。似合ってるよ」

「茅乃。いま、笑っただろ」

「え? 気のせいだよ、気のせい」


 こういう時の茅乃の受け答えは実に分かりやすい。

 レンズに模様が描かれているせいで、景色の輪郭はぼんやりとしていたが、間違いなくこれはパーティーグッズの眼鏡だ。

 くすくすと笑い続ける茅乃を横目に俺は呆れながらにため息をこぼした。


「——まったく、これのどこが似合ってるだよ」


 茅乃の悪戯心には毎度のことながら困らされる。


 ここらで一つ反撃を、と周囲に置かれた商品を一瞥してみた。すると、目先にちょうどお洒落な眼鏡を見つけた。黒縁の丸っぽいレンズが特徴的で、リムと呼ばれるレンズを囲む縁の部分の絶妙な薄さがモダンな空気を醸していた。


 さっきのお返しに茅乃にあっと言わすような、そんな何かではないが、単に素直に試着した姿を見たいと思った。


「茅乃、ちょっとこの眼鏡を掛けてみないか?」

「んー? そうかな? どれどれぇ」


 茅乃は商品を手に取ると、上下左右、様々な角度からそれを見つめた。

 裏はないかと、疑っているらしいが、なにも変なところはないと信じてもらえたようだ。茅乃は意図が掴めずに困惑しながらも、それを顔へと持っていく。


「————どう、かな?」

「ああ、良いと思うぞ。似合ってるよ」

「そ、そう? って、これ普通の眼鏡じゃん」


 茅乃はすぐにそれを外してしまったが、想像の数倍は似合っていたため、むしろ命拾いしたのかもしれない。

 あと数秒遅ければ、揶揄われる種になりかねなかった。


「いや、何を期待したのかは兎も角、眼鏡姿の茅乃が見たかっただけだしな」

「ふぅん。ま、いいけど」


 茅乃は歯切れの悪い反応をして、眼鏡をそっと元の位置に戻した。だが、暫くの間、茅乃は妙にそわそわとしていてこれもある種の反撃なのだと思った。

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