少年少女の決意

 パシャリと冷水を顔に打ちつけた水音が洗面所に響いた。

 夕食や歯磨きなどのあれこれを終わらせて、茅乃と俺はは互いの部屋の扉前にいた。


「じゃあ、また明日ね、アヤセくん」


 茅乃は振り向き様に笑顔で告げた。なんてことはない、些細なワンシーン。

 変化は分かりづらいが、美術館で指摘してから、徐々に茅乃の笑顔に偽物臭さのようなものは感じられなくなった気がする。


 茅乃は初対面からずっと、表面上の自分を演じているような節があったので、その変化は喜ばしいものではあるが、またしてもある疑念が降って湧いた。


「ああ、じゃあな。おやすみ」

「うん! おやすみ〜」


 紡希茅乃は、何かを隠している。


 笑顔や振る舞いを取り繕わなくなったことで、茅乃の背後にあった隠し事がより明確に表面化されたようだった。

 茅乃自身の問題か、それともこの世界のことだろうか。しかし、胸中で茅乃のことをもっと知りたいと思っている俺がいた。


「————っ!!」


 また、だ。

 部屋に入った直後、何かが胸の奥から溢れてきそうで、俺は胸板辺りを鷲掴みにして抑えつけた。ハァハァ、吐息を切らしながら、なんとかその痛み・・を押さえつけたが、その正体は分かっている。

 言うに及ばない、使命感だ。

 助けないと、という。

 俺がこの世界で初めて芽生えた感情でもあり、美術館で茅乃の笑顔とビルの屋上での胸の痛みを経て、ある予感は確信へと変わった。


 助けるべきは、他でもない——茅乃なんだと。

 そして、その方法は茅乃をこの世界から元の世界へと戻すこと。

 茅乃はこれ以上、この世界に居てはいけない存在・・・・・・・・・なんだと、予感していた。


 だが、どうやって元の世界に帰ればいいのだろうか。


 方法は不明だが、まずはこの世界のことを知る必要があることは間違いない。今日まで禄にこの世界が抱えている問題に向き合ってこなかったが、明日からは本格的に謎の究明に取り掛かる必要があるわけだ。


 茅乃をこの世界から元の世界に戻すこと。


 それこそが、

 ずっと燻っていた使命感の正体——その『答え』のような気がした。


   ꕤ


 真夜中。

 アヤセくんと部屋の前で別れた、椅子に腰をかけて夜空を見上げる。

 昨日と今日は何かとあったせいで、久しぶりに退屈せずに過ごすことができた。この世界に来てからというもの、退屈の連続だったので、あんな風に普通の娯楽を誰かと楽しむというのは新鮮な気分だ。

 なんだかまるでデートのようで、


「もう四年半になるのかな? 誰かと話すのは、ほんとに久しぶり」


 机の上に置かれたバイオリンのキーホルダー。

 アヤセくんが獲ってくれたものだ。私はそれに触れると、昨日と今日にあったことを順番に思い出す。

 駅でのこと、珈琲店でのこと、ゲームセンターでのこと。

 今朝のこと、美術館でのこと、クレープ屋でのこと、ビルの屋上でのこと。


 私にとってこの二日間は、想像以上に心を動かされっぱなしだった。


「笑顔、か」


 アヤセくんの言う通り、私は『理想の紡希茅乃』という仮面を被っていた。今までは、それに気づく人はいても、不可解そうに距離を取るだけで、そんな私のことを良いと言ってくれたのは初めてだった。これからゆっくりとでもこの癖を

治していこうと思えた。


 何故だかアヤセくんの言葉は私の心にすんなりと染み込み、心を動かしてしまうから不思議だ。今日のことを思い出すと、胸の中に抱いたことのない思いがいろいろと浮かんだ。ビルの屋上でのことや美術館、クレープ屋でのこと。


『あっ、アヤセくん。顔赤い〜』

『ぐっ。なら、茅乃だって赤いけどな』

『私? あはは、そんなわけないじゃん————って、あれ?』


 だけど、分からないこともあった。

 なんで、あの時に顔が赤くなっちゃったんだろう。

 クレープをアヤセくんに食べさせたとき。私の頬は紅潮していた。

 私も実際にあんなことをするのは初めてで、指だって震えていたけれど、それでも説明がつかない。

 もしかして、私、アヤセくんのことを気になっていたりして。


 ——いや、それは違う、よね。


 たしかにアヤセくんは優しいし気だって合うけど、そもそも私にはその資格がないのだ。彼に嘘をついている、私には。

 だとすれば、あの現象しかない。

 昨日、万世橋で起こったものと酷似する何か。


『ねぇ————今さ、ドキってした?』


 まるで、アヤセくんの緊張や動揺が伝わってくるような。

 そういえば、秋葉原駅のときも、


『あの、茅乃さん』

『ん?』

『さっきから距離が近いんだけど』

『あっ————ごめん』

『どうかしたか』

『うんん、なんでもないよ』


 アヤセくんの身体、もっと言えば、彼の動悸・・が私の心臓にも連動して感じられる瞬間だ。彼にも同様に私の気持ちが伝わっているのだろうか。

 だとしたら、私の嘘がバレるのも時間の問題かもしれない。

 兎も角、この世界に関して、響谷アヤセという存在はイレギュラーで、私にすら分からないことで溢れている。

 だけど、彼の存在は、私にとってある種、救世主ヒーローのようなものだ。

 彼がいなければ、私はあのまま腐り果ててしまっていただろう。

 なら、彼を騙し続けていることも、いつか咎められるべきなのだろう。

 だけど、今は。

 今だけはこのままであって欲しいと願ってしまっていた。


「もしも君がこの世界の真実を知っても、私のことを許してくれるかな?」


 ちくり、と胸のどこかが痛む。


 人は伝え合うことで繋がり合うことができる。アヤセくんのおかげでその事に改めて、気づくことができた。


 この嘘を彼に伝えたとき、私はアヤセくんに嫌われないだろうか。


 真実を伝えることはときに嘘を吐くことよりも重い。きっと大丈夫、理解してもらえるという願望と相反して心の底から恐怖が顔を出す。


「それでも、私のバイオリンの音色を聞いてくれるかな」


 いつか、伝えよう。心の準備ができたら、絶対に。


 アヤセくんからもらったキーホルダーを夜空に翳すと、そんなことを呟いた。

 もしかすると、私の心の奥底にもまだ、誰かに分かって欲しいという気持ちがあるのかもしれない。


 心の内にある、明日が楽しみだという素直な思いに気づかないように、私は暫くぶりの眠りについた。

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