伍頁目 幻惑の煙

 ~~~~



「ねぇベリル……もし私が死んだらその時は――」



 記憶の中で声がする。

 燃えて死んだはずの女の声がする。

 自分を育ててくれた母親の声がする。



「――私の事はさっさと忘れなさい」



 ~~~~



「モルガナ……!」



 少年は慌てて目を覚ます。

 だが其処に叫んだ名前の女はいない。

 在るのは揺れる馬車の天幕と、

 馬車を操縦している今の保護者のみ。



「目が覚めましたか、ベリル?」


「ギド……ここは……?」


「長らく寝ていて忘れましたか?

 現在我々は、新たな家を目指して移動中です」



 彼の言葉で寝覚めの脳が冴え渡る。

 二匹の魔物は現在、人類文化圏を目指していた。

 その目的はたった一つ『帰る家を作るため』。

 根無し草では力を蓄える余裕も生まれない。

 何より魔王の死亡から早五年。

 開拓が進み拡がり続ける人間の領域からは

 そもそも逃れる事など出来はしない。


 故に彼らは敢えて人類の領域に家を求める。

 より長い時間を生き抜くために、

 人間社会に紛れ込む道を選択したのだった。


 出立前に聞いたその説明を思い出し、

 ベリルはギドの肩に頭を乗せて外を眺める。

 まだまだ人間の街など見えては来ない森の中。

 五歳児の魔物は常に笑顔の保護者に聞いた。



「ねぇギド。あとどれくらいで着きそ?」


「何事も無ければ昼前には着くでしょうね

 楽しみにしていてください

 実はもう手頃な一軒家を購入済みなんです!

 ご近所の方々に配るお菓子も奮発してまして〜」


「準備が良いね。一人でやったの?」


「ええ。私はもうずっと独りですよ」



 意味深に、それでいて笑顔を崩さずギドは答える。

 馬車の操縦に専念しているからか

 彼はベリルへ顔を向ける事は無かった。

 故にその心中がどんな物かは幼いベリルには判らない。

 判らないからこそ、幼子はそっと彼の背中に手を当てる。



「今は僕がいるじゃん?」


「ふふっ、そうでしたね」



 目を細め、保護者は笑う横顔を少年に魅せた。

 ――だがその時、車を引く馬が突然暴れ出す。

 鼻息荒く興奮したかと思えば、

 直後にはギドの操縦も無視して走り出した。



「うわっ! ちょ、ギド興奮しすぎ!」


「おや? これ私がやってると思われてます?」


「違うの? 僕の台詞で嬉しさ爆発したんでしょ?」


「ほっこりはしましたが残念! ただの暴走です!」



 ギドは冗談っぽくそう答える。

 だが彼の額にじんわりと汗が染み出した事で

 ベリルはこれが本当の緊急事態であると悟った。



「ギド。何か手伝える事はある?」


「っ……なら積み荷の保護を!

 あぁけれど翼は出さないようにしてください!

 此処は既に人類の領域。人の目があるやもしれません!」


「了解。この小さな体で上から押さえとく。ちょこんって」


「ふふっ! 可愛い絵面!

 横転したら一緒に飛んでしまいそうですね!」


「だから絶対横転させないでね?」


「承知、しましたッ!」



 魔人はカッと目を見開き、

 片手で手綱を操縦するともう一方の手で剣を抜く。

 常に馬を停止させるよう最善を尽しつつも、

 いざとなれば連結を切り離そうという算段だ。


 とはいえそれは最終手段。

 大荷物を持って街を目指しているのに

 此処で馬を失うのは流石に惜しい。

 故に彼はいつでも刀を振るえる状態を保ちつつ、

 馬が落ち着くまで自由に走らせる事にした。



(幸い、しばらくは直線の道

 障害物や崖への滑落さえ気を付ければ――)


「――ねぇギド?」


「何です!? 出来れば今は手短に!」


?」


「ッ!?」



 言われてようやくギドは気付く。

 違う。全くと言っていいほど風景が異なる。

 道中寝ていたベリルは「記憶違いかも」程度の

 認識で留まっていたが、ギドはこれをハッキリと

 異常事態であると認識した。



「攻撃。されていますねッ……!」



 速やかに、そして大胆にギドは白刃を閃かせる。

 直後連結が斬られて自由となった馬は、

 そのまま狂ったように爆走する。

 だが次の瞬間、暴れ馬は何も無い空間と激突した。


 しかし今のギドに馬を気遣う余裕は無い。

 積み荷と幼子を乗せた暴走馬車を止めるために

 彼は鞘に収めた剣を支え棒の如く地面に突き立て、

 真正面から荷馬車を進行方向の逆に押す。


 普段は冷静な男の雄々しい声が響き渡る。

 暴走の慣性を自身の腕力で相殺し、

 彼は遂に車両を止めた。



「ギド!」


「ふぅぅぅ……! 横転、させませんでしたよ?」



 保護者は自信満々に親指を立てて微笑んだ。

 そして彼は馬車の中の子供を抱き上げ降ろすと

 積み荷の状況を確認するべく中へと入る。


 だがそんな彼らの様子を、

 少し離れた所で何者かもまた観察していた。



 ~~~~



 暴走の被害は甚大なれども軽微。

 移動手段は潰されたが大切な荷物は大方無事だった。

 なのでベリルを上に座らせ荷物を護らせている間、

 ギドは続いて馬の状態の確認に移る。


 結論から言えば、残念。

 馬は脳天がかち割れていて即死だった。

 ギドは溜め息一つでその結果を片付けると

 今度は馬が激突したと思われる虚空に手を添える。



「ねぇギド? 馬は何にぶつかったの?」


「この感触は……普通に木ですね」



 そう言うとギドは再び剣に手を伸ばし、

 太刀筋の見えない早業で虚空を斬り刻む。

 するとその場所からは突然斬られた樹木が現れ、

 落下位置を予測し体を捻るギドの真横に落着した。


 見慣れぬ超常現象にベリルは思わず立ち上がる。

 だがそれとは対称的にギドの方は

 心底嬉しそうな笑顔を少年に向けていた。



「幻惑魔法です。かなりレアですよ!」


「幻惑、魔法? 魔法使いの仕業って事?」


「お、じゃあその辺り基礎から教えましょうか!

 荷物から教材出して! はいそこに座って!」


(うわ……授業始まった……)



 題材『この世界における魔法について』――

 この世界における魔法は大きく分けて二種類。

 人間の扱う魔法と魔物の扱う魔法だ。

 両者の違いを端的な言葉で現すのなら、

 一方が『技術』であるのに対し

 もう一方が『能力』である事だろう。


 ギド曰く、人間の魔法は科学と技術に依存している。

 魔導大国セグルアに代表される『魔導機構マシナキア』のように、

 本来は扱えない奇跡を何らかの技術で再現しているのだ。

 故に人間の魔法は技術的な知識と専用の道具が必要で、

 魔法の発動には少なく無い時間を要する事もある。


 対して、魔物の魔法は先天的な自然物。

 ベリルの翼が生まれながらにして生えているように、

 魔物は大した訓練も無く魔法を行使出来る。

 無論それは種族に由来する物だけで、

 全く別種の魔法を習得して扱う魔物は

 過去の魔王軍でも極小数だったとギドは言う。



「ではここで問題です!

 今回は果たしてどちらの魔法が使われたでしょう?」


「え? 今の段階で分かるの?」


「知識があれば一発ですが……

 無くても状況をよぉーく考えれば予想は可能です」



 ベリルは幼いながらも頭を回す。

 知識が乏しい事は言い訳に出来ないらしいので、

 彼はとにかく頭を悩ませ続けた。

 が、中々これと言った結論が出て来ない。

 少年はチラリと教師に目配せをする。



「相手の立場になって考えてみてください」



 どうやら答えるまでは許してくれないらしい。

 ヒントを元に五歳児はもう一度熟考した。

 これまでの会話。自分たちの状況。

 そして相手の立場になって。



「……幻惑魔法はレアなんだよね?」


「はい! 間違い無くそう言いました!」


「それは……例えば普通の強盗が持ってたりする?」


「特別なコネがあるのなら有り得ますが……

 その場合は収支の計算が大事になって来ますね」


「つまり、僕らを襲っても?」


「どこで覚えた言い回しですかソレ?

 まぁでも……――はい、正にその通りです」


「でも相手は僕らみたいな荷馬車を襲うのに、

 レアな幻惑魔法を使ってきた訳だから――」


「答えをどうぞ」


「――相手は『魔物』?」


「大正解、素晴らしいですよベリル」



 ギドは優等生の頭を撫でた。



「敵の正体は――記憶捕食種『透血鬼カラーレス

 幻惑を魅せ旅人を襲い記憶を喰らう。大変希少な魔物です」


「……断定するんだ? 珍しいね」


「ええ。彼らの仕業であるという証拠があります

 こちら、馬の死体をよく観察してみてください

 ……何か気付いた事があればどうぞ?」


「にんじんが好き?」


「腹の残留物でも見ました? そこじゃないです」


「あれ? !」


「惜しい。血は出ています。ほらココ」


「え? これは水じゃないの? だって――」


「透明だから? その通りです!

 透血鬼カラーレスは他者の記憶を喰らい生きる者

 そして彼らに喰われた者の血はこの通り、

 無色透明になってしまうんですよ!」


「ギド楽しそう。でも何で?」


「残念ながらそこは未解明です

 が、これこそが透血鬼カラーレスの犯行である証拠!」



 高らかに、ギドは天を指差しそう言い切る。

 これほどまで確信めいた言い方をするのは珍しい。

 きっと彼の中にはもう他の可能性など無いのだろう。

 そんな姿がいつにも増して頼もしくなり、

 ベリルはギドのズボンを掴んで彼の顔を見上げた。



「それで? どうやって抜け出すの?」


「ふふん! そこは君の出番です、ベリル!」


「僕の?」


「はい。透血鬼の幻惑は煙を媒介としています

 我々の目では認識する事も難しいですが……

 今この近辺は濃い霧で覆われていると思ってください」


「――! あぁ、なるほどね?」



 合点がいったような声を上げると、

 ベリルは魔力の制限を解除し黒き翼を露出させた。

 周囲が幻惑の煙で覆われているのならば、

 突風で振り払ってしまえば良い。

 今なら目撃者と成り得る人間もまず居ない。



「一つ、盛大にどうぞ!」



 ギドの煽りに乗せられて、

 幼き有翼種は己の翼を羽撃かせる。

 すると途端に周囲の景色は大きく歪み始め、

 そして次第に桃色の煙も見えて来た。


 ベリルは事態の好転を感じ胸を高鳴らせる。

 そしてより強い風を送れば送るほどに、

 周囲の環境も激変し、煙は更に



「――!?」



 気付いた時には既にベリルの前にソレは居た。

 黒いフードの付いた労働者の作業服を身に纏い、

 薄ら嗤いを浮かべてこちらを見つめる一人の影。

 目深に被ったフードと煙のせいでよく見えないが、

 桃色の髪、黄金に輝く瞳、目立つ犬歯。

 そして森の中なのに露出させた脚の肉付きから、

 ベリルは目の前の存在が女性であると認識した。



「ねぇボク? 辛い記憶があるんじゃない?」


(……喋った! これは幻覚じゃない?)


「お姉ちゃんが――食べてあげよっか?」



 声質や顔付きを見るに、

 人間ならば歳は十五か六くらいだろう。

 しかし妖しく脳に響くその声は

 そんな彼女の幼さすら見事に隠して惑わせる。


 まるでその提案が、その誘惑が、

 今この場における最適解であるかのように

 脳の中へと染みこみ、溶け込んで行く。



「あ。あ……」



 それは魔物であっても抗えない。

 幼いベリルでは抗えない。

 特に辛い記憶があればあるほど、

 その記憶を手放したくて、食べて欲しくて、

 被食者は自ら透血鬼カラーレスの獲物になる事を望んでしまう。



「さぁ、忘れちゃお?」



 鬼が近付き、ベリルの頬に優しく触れた。

 接近された事でその顔もハッキリと見える。

 桃色の煙の中に妖しく浮かぶ金色の瞳。

 獲物を見つけて悦ぶ口元が大きく歪む。

 抵抗出来ない者は、このまま全てを奪われる。



『私の事はさっさと忘れ――』

「――無い。それだけはイヤだッ!」



 薪が焚べられた。感情という焔に燃料が投下された。

 それは幼き魔物の人生を決定付けた根源。

 彼にとって『その人間の女』を忘却するなど有り得ない。

 何故ならまだ終わっていないのだから。

 何故ならまだ何も始まってすらいないのだから。

 何故ならまだ――彼は殺し足りないのだから。



「ッ……!?」



 幻魔の誘惑は弾かれた。

 彼女が記憶の中で垣間見たのは炎上する車と、

 その前で泣きじゃくる半人半魔の怪物の姿。

 其の記憶には『怒り』があった。

 忘却など出来ようはずもない『復讐心』があった。



「無事ですか! ベリル!?」


(っ……連れも合流しそうね……狩りは失敗か)



 透血鬼は煙の中へと溶け込んで行く。

 そしてその最中、彼女は再びベリルの顔に触れると

 彼の耳元に口を近付け別れの言葉をそっと添える。



「じゃあね小さな怪物君。もう会う事は無いでしょう」



 やがて桃色の煙も完全に晴れて、

 気付けばベリルは元居た場所にへたり込んでいた。

 そして慌てて彼を抱き上げるギドに連れられて、

 二人は森を脱出する。



 ~~夕刻・街の中~~



 森を抜けた二人は速やかに街へと入る。

 入国審査は予習済みだったギドが容易く突破し、

 疲れて『お眠』なベリルを背負ったまま

 彼は購入済みの一軒家を目指した。



「すっかり暮れてしまいましたね……

 荷物も必要最低限の物しか持って来られませんでした」


「ごめんギド。僕が囚われちゃったから……」


「気にしないでください

 あれは向こうの食欲を見誤った私の落ち度です」


「……近所に配るはずだったお菓子は?」


「気にしない! 気にしなーい!」



 彼の両手から下げらた荷物の中身は

 入国をスムーズにするためのアイテムと

 本当に限られた貴重品や生活用品が少しだけ。


 それ以外は何も無い。

 何もかもあの森の中に置いて来てしまった。

 揺れる大人の背中を感じつつ、

 ベリルは其処にムギュっと顔を押し当てる。



「ふふ! くすぐったいですよ?」


「強かったね……透血鬼カラーレス……」


「ふむ強いと感じましたか?

 ならまずは彼女に勝てる強さを目指しましょうか」


「えぇ……また会いに行くの?」


「嫌ですか?」


「うん。出来ればもう会いたく無いかな……」


「ははは! まぁそれは向こうも同じでしょうね!

 透血鬼カラーレスは人一倍警戒心の強い種族です

 一度逃した獲物の前には二度と姿を見せません!」


「そう。良かった……」



 安堵の声を吐露すると、

 ベリルはより一層深くその身をギドに委ねる。

 やがて二人は人間たちの往来する道を抜けて、

 これから新しい生活を始める家へと歩んで行った。



 〜〜〜〜



「「え゛!?」」



 家に到着した瞬間、ベリルは目を丸くする。

 そして彼の濁った驚愕の声に女の声が重なった。

 其処に居たのはフード付きの作業服を身に纏い、

 桃色の髪と黄金の瞳、そして目立つ犬歯の特徴的な

 口をあんぐりと開ける幻魔『透血鬼カラーレス』だった。


 だがこの再会も十分驚きだったが、

 真にベリルたちが驚愕したのは彼女の手に握られた物。

 彼女はギドが購入した一軒家の、

 唯一隣に建てられた家屋の鍵を握っていた。



「「お隣さん!?」」



 隣人への挨拶は予想外の出来事と共に完遂された。

 記憶捕食種『透血鬼カラーレス』の少女。その名をシェナ。

 幻魔と天魔はかくして接触を果たす。

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