第1章 ネットオタクだった兄貴の部屋

1 兄貴の笑顔

 兄貴とは特に仲が良かったわけではない。

 兄貴はフリーのクリエイターでウェブデザイン事務所に出入りしていた。仕事が忙しいらしく、バイト待遇であるにも関わらず毎日残業に明け暮れていた。自称ウェブデザイナーということで、ネットオタクのスキルがそのまま生かせる天職だと言っていたが、それなりに稼ぎはあったようで、中古だが車も持っていたし、家にも毎月いくらかの生活費を入れていたみたいだ。


 だけどその車が仇となった。


 車通勤の最中、センターラインをはみ出してきた対向車と正面衝突。相手は泥酔していて早朝のガラガラに空いた道を100キロですっ飛ばしていたそうだ。兄貴も相手も即死だった。完全にもらい事故。運が悪かったとしか言いようがない。人の運命なんて本当にわからないものだ。


 兄貴は普段から能天気なほどに明るくて、バカみたいな冗談を連発しては何かと僕の邪魔をした。

 僕はネットにもアニメにも興味はないのだが、ネットオタクでアニメオタクだった兄貴は、ネットで知り合った仲間の動向やアニメの新番組のインプレッションとか、僕にとってはどうでもいいわけのわからぬ情報を唾を飛ばして延々と説明してくれたりもした。僕は壊れたラジオを相手にしている気分でまるで聞いちゃいなかったけど……。

 そんなバイタリティとハッチャケの塊みたいだった兄貴がこうもあさっり生涯を終えてしまうなんて。1ヶ月経った今でもその事実を受け入れられないでいる。


 病気でジワリジワリ死ぬより突然いなくなった方がマシ? だとは思ったけど、そんなのはただの強がり、冗談じゃない。あまりにも突然過ぎる不幸はそれが不幸だと感じる暇も無く、悲しいという感情がよくわからなくなる。本当に心底ショックを受けた時には涙を流す余裕すらなくなることを、僕はこの時初めて知った。


 だけど斎場で火葬炉に入れられる寸前、棺の小窓を開けて兄貴の最後の顔を目にした時にそれは突然訪れる。僕は周りにいた親族や会社関係の人の前でなりふり構わず号泣していた。姉貴も顔をくしゃくしゃにして棺に抱きついていた。


 人の都合もお構い無しに一方的に話し続ける兄貴の笑顔、初めて買ったパソコンの設定を全てやってくれた頼もしい兄貴の笑顔、パソコンに向かって真剣な顔で、それでも僕が話しかけるとすぐに振り向いて答えてくれた兄貴の笑顔、考えてみると僕の思い出の中の兄貴はいつも笑っている。


 だけど、最後に見た兄貴の顔は青白く紫に変色した唇をへの字に閉じて目をつぶっていた。

 兄貴のあの無神経ではあるが屈託のない爽やかな笑顔をもう二度と見ることはできない。こんなことならもっとアニメの話をしっかり聞いてやればよかった、ネトゲに誘われたとき気持ち良く付き合ってやればよかった……こんな場合によくありそうな、その手の人並みな後悔の念を骨身にしみて味わっている。


 1ヶ月が過ぎて今までどおりの生活に戻ってくると、それまで感じていた胸をかきむしるような重圧にも慣れてくるのか? ほんの一瞬にしろ兄貴の死を忘れる余裕が出てくるようだ。

 きっと人は悲しみだけを背負って生きていくことはできないんだろう。『辛いことを思い出さないようにする』という器用な真似がだんだん出来てしまうように人は創られているのかもしれない。


 もともとぶっきらぼうで家の中ではまず笑うことのない姉貴と僕の関係は、兄貴が死んだあとも何も変わらない。相変わらず家の中で顔を合わせても、別にそうしようと示し合わせているわけではないのだがお互いに無視し合っている。

 父は、朝は広げた新聞で顔を隠し「おはよう」といえば「おはよう」と返事が返ってくるだけ。夜も帰りが遅いので、その時間はもう自分の部屋にいる僕とは滅多に顔を合わせない。母も前みたいな笑顔を見せることは減ったかもしれないけれど、普通にしていても、もともと大人しい無口な人なので何の違和感もない。


 うちの家族はよそがどうかは知らないけれど普段からあまり会話をするような家族ではなかったから、それだけに兄貴が家にいるときはとても騒がしかった。

 ある意味KYだった兄貴は仏頂面した父にも楽しげに話しかける。父は面倒くさそうに顔も合わせずにたまに頷くだけ。母にも同じように話しかけていたが軽く微笑むだけで相手にされていなかった。姉貴に至っては兄貴が話しかけても完全無視!


 確かに兄貴の話す内容の多くはネットかアニメに関する話題ばかりで、そんな話に興味のない家族にいくら話しても要領を得ることなど微塵もないのだが、兄貴はまるでお構いなしに一方的に話すものだから家族の反応はもっともだったと思う。

 ある時なんか父に「お前もいい歳をして、いい加減マンガを卒業したらどうだ」と説教を喰らった時「アニメは人生の縮図を垣間見るパラレルワールドだ! 百利あって一害なし」などと意味不明の理屈をタテに真っ向から反論して父を呆れさせていた。

 僕だけがある程度聞くそぶりを見せていたせいか、その分お鉢がまわってきて、壊れたラジオを一番聞かされていたのは間違いなく僕だった。


 兄貴が家からいなくなった今の光景は、兄貴が外に出かけていて家にいない時と寸分違わぬ光景。

 それだけにフッと気づくと兄貴が死んだ事を全く忘れている自分に気づいたりもするのだが、そんなときは同時に耐え難い事実を思い知らされて、こみ上げてくる何かを抑えきれずにいつのまにか声を殺して泣いてしまう。

 おそらくだけど、他の家族もみんなそんな感じなんじゃないかな。

 特に、仲が悪いと思っていた姉貴がナーバスに落ち込んでいる姿は意外だった。日頃からいがみあっていても(というよりも怒っていたのは姉貴が一方的にであって兄貴はいつも優しく笑顔で接していた)やはり兄妹の絆がそうさせるのかと思いを巡らせるほどだった。


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