第3話 ターゲット
被害に遭った女の子が、その場から消えたのだが、その女の子は、三村凛子といい、今年高校を卒業した。18歳の女の子だ、
昨年から、成人年齢が引き下げられ、
「成人というのは、18歳から」
ということになったので、
「彼女は、すでに成人ということになる」
そうなると、法律上の契約や訴訟も、今までのように、法定代理人に頼ることなく、自分の意思で決めることができる。
ただ、何と言っても、まだ、この間まで高校生だったという女の子なので、そういう経験をすれば、どうしていいののか分からないだろう。
彼女とすれば、
「とっさにその場から立ち去ってしまったが、あの場合はそのまま刑事さんにすがった方がよかったのかも知れない」
と思ったのは、後になって後悔したからであった。
「あのまま、警察に任せていた方が、後になって、悔しさがこみあげてくることもなかっただろうと思ったが、彼女は刑法は少し知っているようで、先ほどの自分の後悔と、訴える訴えないを別にして、相談ということでもしておくと、安心ということもあるだろう:
と思った。
時間が経てば経つほど、捜査をするにしても、難しくなってくる、
「思い立ったが吉日」
とよく言われるが、まさにその通りだろう。
凛子は高校を卒業して、今年から大学生になった。
刑法をよく知っているとはいえ、別に法学部に入学したわけではない、入学したのは、文学部で、シナリオライターに興味があったのだ。
高校生の頃から、法律にも興味があり、シナリオにも興味があったので、どっちに進もうか考えていた。
どちらも、かなりハードルが高いことは自分でも分かっていた市、
「何かを新しく作り上げることに興味がある:
ということで、
「シナリオライターを目指したい」
と思ったことで、文学部に入学した。
「刑事ドラマ系を書くときに役立つだろうな」
と思い、シナリオを描く時も、
「法律関係の本を書いてみたい」
と感じたのだった。
最初は、
「小説家」
と普通に考えていたのだが、最近は、紙媒体の本がなくなりつつあることで、
「それならシナリオ」
と思った。
確かに、最近は、テレビ離れも多く、テレビドラマといっても、マンガが原作のものが多かった。
人によっては、
「原作がある方が、原作に忠実に書かないといけないので、結構大変だ」
ということであろうが、実際には、あまり好きではない。
「原作がある方が楽だ」
という人がいるが、それは素人考えであり、シナリオのように、
「分業制」
の一部のようなものは、
「原作がある方が、結構難しい」
と言えるのではないだろうか?
この分業制というところが、
「小説と、シナリオの一番の違いだ」
といってもいいだろう。
つまり、小説というのは、書き始めるまでは、編集者の人と、企画段階くらいで、いろいろと話をしながら作品を作っていくことが多い。だから、そこまでは、どちらかというと、
「共同作業」
という趣が強いのかも知れない。
だから、一つ一つ問題を潰す作業が最初にあるのだ。
しかし、シナリオの場合は、明らかに目的が違う。。
その一番は、
「映像化というものが、最終目的である」
ということであった。
だから、まずは、プロデューサーや監督が、大筋を決め、脚本家が、監督と内容を詰めたり、並行して、オープニングデザイン、キャスティング、さらには、音楽などが決められていく。
そして、シナリオに起こしたものを、監督と俳優とで、映像化していくというのが、大まかなところであろうか?
小説家と脚本家の一番の違いは、
「脚本には、脚本家の思いを入れすぎるのは、いけない」
と言われることであった。
逆に演じる俳優のことを考えたりイメージして作るならいいが、俳優にも得手不得手があるように、不得手なところを描くと、せっかくの作品にケチがついてしまうし、さらには、役者も、
「下手だ」
というレッテルを貼られてしまうことになるので、せっかくの政策フロントの意図したことから外れてしまう。
つまり、脚本というのは、映像作品を撮るうえでの、
「一つの駒」
であり、
その駒が、他に先んじて、表に出ようとすると、せっかくの、役者のキャラクターを殺してしまうということになりかねない。
そこが難しいのだ。
「脚本家は、あくまでも裏方」
ということを自覚していなければ、脚本家というのは務まらないだろう。
それでも、シナリオに癖の強い人はいる。
しかし、だからといって、その人は、まわりからも、脚本仲間からも一目置かれていて、
「あの先生の脚本でドラマに出てみたい」
というような作品を書くという人は、結構いたりする。
そういう意味で、
「本当は、自分オリジナルの作品を書きたいのに、最近のアニメが原作のものを、脚本に起こすのは嫌だ」
と思っている。
そういう作品は、ほとんど、マンガのアニメ化も同時に行っている。
基本、アニメは原作に忠実だろうが、実写はそうはいかない。
どうしても、
「アニメにはできるが、ドラマ形式だと無理だ」
と言われることがある。
それを思うと、
「アニメと比較されるのは嫌だな」
と考える。
そもそも、
「オリジナルという考え方が好きなのに、どうしてシナリオの方に進んだんだろう?」
という考え方であった。
元々、マンガというものが好きではない。なるほど、小学生の頃には読むこともあったが、中学生になると、あまり読む気がしなくなった。
凛子が、どうしても好きになれないのが、
「劇画タッチ」
の作画だったが、
「そもそも、皆同じ顔に見える」
というのが、マンガを見ていて感じることだったのだが、それが劇画になると、余計に感じられるようになったのだ。
それを思うと、
「マンガなど読みたくない」
というのが、本音だったのだ。
特に社会現象と呼ばれるようなマンガやアニメが有名になっていくにつれて、次第に、そういうものを毛嫌いしている自分がいることに気づく。
まるで、自分が昔の、
「教育ママ」
のようになっているのではないかと思う。
「食わず嫌い」
という言葉にあるように、
「最初から見ようとしないのだから、とやかく言える立場にはない」
ということは分かっていた。
もし、それをとやかく言おうものなら、
「どの口が言う」
と言われるのが関の山であろう。
それを思うと、
「自分が、元々毛嫌いしていた教育ママになりつつあるのを感じる」
ということになると、親から叱られる時、その親を見ていて、
「あんたには、子供の頃というものはなかったのか?」
と言いたくなるのだ。
自分が子供の頃だって。大人が言っていることに逆らいたくなったり、
「いずれ、自分が大人になったら、自分の親のようには絶対にならないぞ」
と感じていたのではないだろうか?
それなのに、自分が親という立場になったら、何もかも忘れたかのように、裏を返したかのようになるというのか、それを思うと、
「大人になんかなりたくない」
と自分が子供の頃に少し年上の人が言っていたのを思い出した。
それは、嫌でも、
「自分は大人になるしかないんだ」
という気持ちだったからだろう。
そんな大人になるということがどういうことなのかというのを思い出してみた。
思春期の前から思春期があって、その後、少しずつ大人になってきているという感覚があった。
その思いがどのように時系列として成り立っているかが思い浮かんでくるだろう。
「一大小説が掛けそうだ」
と思うくらいだったが、
「絶対にそれを描くことはないだろう」
と感じた。
もし描くとしても、決して自分としてではなく、誰か架空の人物を作り上げ、その中で育まれているということになるのだろうが、そうでもしないと、作品が、
「フィクションと謳っていても、自分がフィクションとして許さない」
ということになるからだろうと思うのだった。
小説というものは、
「どんなに自分の創作だと言ったとしても、その主流が、自分の経験であったりする、ノンフィクションであれば、フィクションとはいえない」
と思っていた。
しかし、本当の話が枝葉の部分であったら、十分フィクションだといえるのではないだろうか。
それを思うと、
「小説というのは、こだわりが大きいところがあるが、いくらでも、逃げ道というのはあるというものだ」
ともいえるのだった。
だから、本当は、
「小説を書きたい」
と思っていた。
しかし、すでに時代は、小説などの場合は、紙ベースというものはどんどんなくなっていき、ネットによる配信であったり、掲載が主流になってくる。
実際に、昔はあれだけあった本屋が、今はほとんど見かけなくなったきた。特に、主要駅などに、あれだけ大きな本屋が乱立し、一時期、
「本屋戦争」
と呼ばれていた時期があったというのも、決して大げさなことではなかった。
そんな、
「本を出したい」
という人の心を利用する形で、一世を風靡した
「自費出版社系」
と呼ばれる出版社が、大小合わせて10社くらいはあったのに、今では、一社だけが生き残っている。
これは数ある
「根も葉もないウワサの一つ」
と言われていたが、
「自費出版社系の会社が、軒並み、詐欺だといって騒がれて潰れていったのか?」
ということに関わってくる。
確かにやっていることは、最悪のことで、実際に、
「詐欺行為」
だったのであるが、まったく気づかなかった、
「本を出した」
いわゆる、
「詐欺にあった人たち」
が、急に、
「自分の本が本屋に置いていない」
といって騒ぎ出し、訴訟を起こすまでに至ったのである、しかも、ほぼ同時期にである、
つまりは、そこに、
」何かの力が働いている」
と考えるのは、おかしなことであろうか?
そこで囁かれたウワサの中に、
「今も残っている自費出版系の会社が、実は、自分たちだけが生き残るために、他の会社をつぶすために画策した」
というウワサである。
これが他の業界であれば、
「一気に数社が潰れてしまうと、自分たちも生き残れない」
というのが普通なのだろうが、おの業界は少し異常だったのだ。
というのも、この業界がなくなることで、一番困るのは、
「作家難民」
といってもいいだろう。
つまり、本を出した人たちや、これから本を出したいと思っている人たちが、
「どこに行っていいのか分からない」
ということになった時、
「もう作家になるのを諦める」
という人がまずはほとんどであろうが、そもそも、俄かではない、昔から、
「本を出したい」
と思っている人にとっては、
「諦めきれる夢ではない」
ということで、
「昔に戻っただけだ」
ということで、地道に、
「新人賞入賞を目指す」
という人が残るだけだろう。
ただ、その中でも、
「自分の作品を批評してくれる」
ということで需要を求める作家もいるはずだ。
そんな人が、ある程度までやっても、作家デビューができなかったり、年齢がある程度までくれば、今度は、
「年齢的に作家というのはきつい」
ということで、
「本の出版」
ということを考えるようになるだろう。
そうなると、ある程度までの年齢に達している人で、そんなに無駄遣いをしない人であれば、
「本を出したい」
と思うくらいのお金は貯めているかも知れない。
現金で使える金があれば、
「別に本屋に並ばなくてもいいから、フリーマーケットなどで売れればいい」
というくらいの考えで、本を出す人も出てくるだろう。
そういう人が増えてくれば、需要もあるというものだ。
特に、他の会社が、急激に業績を延ばしたことでの、衰退を見ていることで、それが、
「反面教師」
ということで、その会社は、
「他の会社を潰してまでも、自分たちだけが生き残る」
という作戦が功を奏したのかも知れない。
ということであった。
これには、もちろん、賛否両論あるだろう。
「若干汚いやり方だが、そもそも、最初にこの方法を考えたパイオニアは、この会社だったのだ」
ということを考えれば、二番煎じとして、ずかずかと自分たちの領分に入り込んで、踏み荒らした挙句、一世を風靡されれば、パイオニアといっても、その立場はつらいものだったに違いない。
そういう意味で、
「これも致し方ない」
ということで、容認派というのも、一定数いるだろう。
しかし、このウワサを聴いた瞬間、
「理由は何であれ、やり方が汚い」
ということで、
「勧善懲悪」
の気持ちを持って、
「すべて、企んだ方が悪い」
ということで、
「言語道断だ」
として、あくまでも、悪意という目でしか見ることのできない人も若干はいただろう。
特に、破綻されてしまったことで、難民となり、直接的に被害を受けた作家の人にとっては。もしこんなウワサを耳にしようものなら、他のどんな話を耳にしても、もう、最初の話で聞く耳を持たなくなったので、
「とにかく許せない」
ということになるのは、当然のことであろう。
そんな中で、凛子は、どちらかというと、
「勧善懲悪」
な考え方によっていたので、後者の方であった。
「確かに、先駆者としては、腹立たしいところはあるのだろうが、だからといって、相手を陥れて、自分たちのところで独占しようという考え方は卑怯な行為だとしかいえない」
と思っていたのだ。
だから、最初から、詐欺集団と分かった瞬間から、あの騒動は他人事だと思うに違いない。
事件としては、まだ凛子が小さい頃のことなので、話にしか聞いたことがなかったが、実際に、親戚の人で、
「被害に遭った」
という人がいたという。
その人は、
「家族に借金して」
ということだったので、何とか数年かかって、返済したというが、
「夢も叶わず、借金だけが残った」
というのは、どれほど精神的にきつかったのかということを考えると、かなりのものだったに違いない。
ただ、その人は、おばさんに当たる人で、
「ちょうど私が、凛子ちゃんくらいの時のことだったわね」
といっていたのが印象的だった。
「もし私が、おばさんの立場だったら、どうだったんでしょうね」
とつぶやいたが、正直すぐに結論が出るようなものではなかった。
「私にとって、小説というものが、どれほど大切なものかということが一番の指標になって、そして、出版することが、本当に正しい選択か?」
ということを考えるのだろう。
何と言っても、
「お金がかかるのだから、当たり前と言えば当たり前ではないだろうか?」
自分にそれを言い聞かせながら、一緒に、おばさんが、今の自分くらいの時、そんな発想たったのだろうかということを思い起こしてみるのだった。
凛子は、まだ高校生ということもあって、真剣にシナリオを書いたことはなかった。小説を書いていたのだが、書いてみると、
「まあ、納得のいくものではないかな?」
と考えたのだ。
「書けるんだったら、このまま書いて行けばいいよ」
と言われたのだが、若いからなのか、
「目立たないと嫌だな」
と思うようになり、
「進学すれば、シナリオサークルのようなところに行きたいな」
と思うようになっていたのだ。
実際に進学すると、目指した学校にはシナリオサークルのようなものはあるという。
実際に、高校の頃、一つ上の先輩がいたのだが、その先輩の話としては、
「うちの大学には、シナリオサークルもあるぞ。うちの大学に来てくれるというのは、僕はうれしいけどな」
といっていた。
その先輩は、結構優しい先輩で、先輩が在学中に、
「好きになったかも知れない」
と思ったのだが、一歩下がって考えると、
「私だけではなく、皆にも優しいのかな?」
と思うようになったのだ。
凛子の場合、どちらかというと、ネガティブなのかも知れない。
普段は、ネガティブでもなければ、ポジティブでもないという、中立的な立ち位置にいるのだが、たまに、ポジティブなことを考えると、急にネガティブな発想が沸き上がってきて、その思いが、
「中立を保とう」
という気持ちになるからなのか、自分でも、よくわからない状況になってくるのであった。
だから、
「先輩を好きになった」
と思った瞬間に、その理由を考えた。
「私に優しいからだ」
と思うと、今度は、少し冷静になって考えると、その時最初に頭の中に浮かんできたことというのが、
「私だけではなく、皆に優しいんじゃないかしら?」
ということであった。
そう思うと、今度は彼に対しての思いというよりも、
「そんな風にしか考えられない自分が、何か恨めしい」
と思うようになったのだった。
そして、次に考えたこととして、
「そんな先輩がいるところに私が行っていいんだろうか?」
ということであった。
自分の成績からすると、普通に考えれば先輩が進学した大学が無難だったのだが、結局、先輩が卒業するまで、自分の気持ちを告白したことなどなかったのだった。
だが、卒業してからというもの、すっかり先輩のことを忘れていた。
しかし、それは、
「試験に合格するまでは、試験に集中」
と思っていたからで、先輩のことも、どんどん優先順位が低くなっていき、
「忘れてしまいそうだ」
とまでに感じるようになっていった。
だが、実際に入試に合格すると、それまで抑えつけていたものが、一気に破裂した気がした。
そこで、先輩のことがもっと上に来るかと思ったが、今度はどんどん、下に下がってくる。それだけ、今まで抑えつけていたものを解放したことで、それまで、
「結構上だ」
と思っていたことが、実は下だったりしたのだった。
これを、
「心の余裕」
と思えばいいのか、
「私はこれでいいんだ」
と一段落した気持ちになったのだ。
合格してから、先輩には遭っていなかった。
先輩も後期試験があって、そちらで大変だということであった。しかも、
「車の教習所代金を稼ぐためにアルバイトもしている」
ということであった。
先輩は、そういうところが律義で、
「車の免許代くらいは自分で出さないと」
といっていたのだ。
そういうところも、先輩のことを気に入った理由の一つであった。
しかも、
「面倒見がいい」
ということもあって、
「誰からも好かれる人だ」
といってもいいだろう。
だから、猜疑心が湧くのである。
猜疑心というのは、
「自分で抑えなければ、誰にも抑えてもらえないものだ」
というものであるが、
だからといって、
「抑えることが本当にいいのか?」
という疑念もあるのであった。
猜疑心というものは、
「相手も行為を疑ったり、妬んだりする」
というもので、そもそも猜疑心というものは、
「その人のことが好きでなければ、成立しない」
というものではないだろうか?
ただ、猜疑心というのは、
「妬んだり疑ったりする」
という方から見たものであって、
「本当にその人のことが好きだ」
と言えるのだろうか?
というのは、猜疑心を感じた人間が、自己顕示欲の強い人であったら、どうなるのであろうか?
というのは、自己顕示欲が強いというのは、相手のことがどうこう言う前に、、
「自分が目立ちたい。その人を好きになっている自分を、自分の中で、好きになった人から認められたい」
という気持ちもあるのだろう。
自分が別にマウントをとっていて、前に出ているわけではないので、そこまで、本人は意識していない場合も多い。
それだけに、
「本当に相手のことが好きになったのかどうか?」
ということが分からないといってもいいだろう。
つまりは、
「猜疑心が強いということを意識することはあるが、それがどこから来ているものか、分からない。そういう場合は、自己顕示欲という、証人欲求のうちの一つが働いていると考えられるが、自分で意識するのは、なかなか難しい」
ということだ。
ただ、自己顕示欲が強い場合は、猜疑心を抱いた相手のことが、ほんとに好きなのかどうか、正直分からない」
それを考えると、
凛子は、
「私が本当に先輩のことが好きだというのが本当なのか、自分でもよく分かっていないということではないか?」
と考えられるのであった。
中学時代に好きになった人がいたが、その人に対して、確か、猜疑心のようなものがあった。
ただ、それは、自分が、
「思春期だったから」
ということもあった。
それを考えると、
「今も思春期が続いているのかも知れない」
と思い、錯覚に陥るのだった。
凛子はそんな中で、実は畑中の性格をある程度把握していたのだ。
といっても、あくまでも、
「予感があった」
というだけで、本気でそう思っていたわけではなかった。
何かを考える時、
「最悪な考えも持っておかないと、何かあった時、思い込みが激しければ、傷つくのは私だけになってしまう」
と思っていたからで、それだけ自分に自信を持っていなかったからだといえるのであろう。
だから、先輩に対しても、自分が思う、
「最悪」
というのは、
「私に優しい先輩は、他の人にも優しいんだ」
ということであった。
この場合の、
「他の人」
というのは、もちろん、女性だけではなく、男性にも言えると思っていた。
だが、これは本当に、思い込みであり、その思い込みというのが、
「男性にも言える」
ということであった。
先輩が男性に、優しいかどうかが重要ではなく、とにかく、
「女性には優しい」
ということだった。
フェミニストだということであれば、別に何かを言われることはないのだろうが、
「女性を女性として見ている」
というところが問題だった。
この先輩には、昔からコンプレックスがあったことを、凛子は知らなかった。
「どんなコンプレックスなのか?」
というと、
「自分が女性っぽいのではないか?」
と感じていたことだった。
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