第2話 犯人の目的
病院に運ばれた被害者は、何とか一命をとりとめたという。救急車で搬送された病院が近かったので、手術にはなったが、命の危険というところまではなかった。
「急所を外れていたというのも、被害者にとっては幸運だったのかも知れない」
ということであったが、警察がいうには、
「目撃者があったからなのかも知れないな」
ということでもあった。
しかし、そこには少し渡会は、疑問を呈していた。
確かに犯人は、出てくる時はいきなり飛び出してきて、胸を抉るところまではしていたはずで、倒れこんだ被害者を覗き込むようにして、そそくさと去っていった。
その際、逃げる時は、その足取りは、重かった。どちらかというと、
「びっこを引いていた」
といってもいいかも知れない。
その姿を見ていると、明らかに、
「中途半端にしか見えない」
と思えたのだ。
「あれだけゆっくりと見ていれば、被害者が死んでいないということは分かったはずではないか」
と思えるので、なぜとどめを刺さなかったのか?
ということである。
刺した後、死んだかどうか確認しないで逃げるのなら、もっとさっさとその場から逃げ去っていてもいいはずではないだろうか?
それを思うと、渡会には、
「犯人の目的はなんだろう?」
としか思えなかったのだ。
犯人が、被害者を殺すのが目的であれば、捕まるリスクを考えてでも、とどめを刺したであろうし、
「とにかく逃げるのが先決だ」
と思うのであれば、早く逃げているだろうし、何よりも、こちらを振り向くことはしないだろうが、ちらちら見るくらいの意識があってしかるべきに違いない。
それがないということは、考えるに、
「中途半端にしか見えない」
ということだ。
そこから考えられる犯人像としては、
「優柔不断で、計画性がなく、失敗した時のことを何も考えていないような、犯人としては、失格だ」
ということであろう。
かといって、渡会は、犯罪分析をする人間ではない。ただ、状況から推理することは、できると思っていた。
特に、目の前で犯行を目撃したのだ。その状況から、
「犯人が飛び出してきた瞬間、被害者が刺された瞬間、犯人が離れた瞬間、そして逃げ去るところ」
といろいろな場面を目撃しているのだった。
それを考えると、まるで、
「コマ送り」
のような映像を見ているようだ。
それこそ、昔の犯罪をドラマ化した時の、いわゆる、
「八ミリフィルム」
で見ているような感じであった。
もちろん、映像は、モノクロで、その光景は、意識しているからか、スローモーションに感じられるのであった。
そう考えていけば、何か怪しいと思ったところが、少しずつ、
「怪しい」
と感じるところも出てくることだろう。
今の、
「とどめを刺さなかった」
ということだけでも、怪しいと思えるところが見つかったではないか。
「行動が矛盾している」
ということであって、犯人が、いかに被害者を意識していないかということが分かる。
しかし、そのわりには、自分の保身というわけでもない。
もし保身を考えるのであれば、渡会という目撃者がいるにも関わらず、犯行に及ぶというのは、矛盾していると思うのだった。
そう考えると、
「明らかに反抗に関しては素人だ」
と言える。
それなのに、これだけ大胆なことを、殺せなかったとしても、犯行ができるということは、
「少なくとも、計画性がなければいけない」
ということだ。
被害者が、この時間、あるいは、これくらいの時間にバスから降りてきて、この道を変えるということを知らないとできないだろう。
「犯人が狙ったのが、無差別であれば?」
と言われるかも知れないが、だとすれば、被害者のカバンや財布に手を付けていないのはおかしい。
では、
「ただの猟奇犯罪者では?」
ともいえるかも知れないが、
「それにしては、犯行に至る時の興奮が少なすぎる。猟奇犯罪者であれば、もっと興奮して、鬼気迫るものがあってしかるべきではないか?」
と思えるのだった。
というのも、渡会は、それほど犯罪に対して詳しいわけではなかったが、昔から、探偵小説を読むのが好きだったので、そんな中には、犯人のことを想像するという、
「プロファイル的な発想」
というものがあり、それを考えるもの、好きだったのだ。
昔の、本格探偵小説も好きだったが、それが次第に、
「社会派探偵小説」
と呼ばれるものになってきた。
これこそ、時代を反映しているといってもいいのだろうか。
たとえば、戦後すぐくらいは、動乱の時代で、社会不安が付きまとっていたのに対し、戦時中、書くことができなかった鬱憤を晴らすという意味で、探偵小説家の中には、ドロドロした話をプロローグに置きながら、最終的には、頭脳派の作品をトリックで並べるというような話を書く人もいた。
時代が次第に、
「もはや戦後ではない」
と言われる、
「高度成長時代に向かってくると、今度は、それらの時代を反映した小説が、流行ってくる」
というものであった。
特に、その時代というと、一番の問題は、公害問題であった。
そもそも、ゼネコンと政治との確執の問題などがあり、その問題が、
「贈収賄」
などに発展してくることも多かった。
時代として、代表的なものとして、
「ロッキード事件」
などという、政治家を巻き込んだ事件もあった。
今でこそ、それほど政治家の裏金や宗教との結びつきは、
「日常茶飯事」
であったが、昔もあったのだろうが、たまに出てくるから、大きな問題になっていったに違いない。
当時の、
「社会派小説」
と呼ばれるものは、そんな時代に派生型として発生する、いろいろな問題がテーマとなるので、題材としては意外と多かったのかも知れない。
元々、そんな問題が起こるほどに、社会が安定していたわけではない。
何といっても、戦争に負けてから、経済不安であったり、国民が、
「その日の食事、寝る場所」
そこから考えなければいけないという、
「その日暮らし」
という人ばかりだったからである。
だから、時代の流れによって、
「どちらに進んでいくか?」
ということを予想できた人がどれだけいたことだろう。
それこそ、経済復興のためには、公共事業を活性化させ、インフラを整備し、それが、経済を活性化させ、景気が高揚してくるというものだ。
ただ、そのために出てくる問題も大きい。
「政治家と業者の癒着」
というものも、大きい。
社会派小説には、格好の、
「ごちそう」
というものであろう。
さらに、もう一つの大きな問題というと、
「公害問題」
であった。
経済が発展していくためには、避けては通れない大きな問題がいくつかある。
その中でも、かなり大きな問題を占めるのが、
「ゴミ問題」
ではないだろうか?
いわゆる、
「産業廃棄物」
はもちろんのこと、消費者から出るごみの問題。
「産業廃棄物」
が直接影響を及ぼすのが、
「公害問題」
であった。
「カネミ油症問題」
「森永ヒ素ミルク問題」
さらに、公害問題として、長く問題となってきた、
「四日市ぜんそく」
「水俣病」
「イタイイタイ病」
などと言われる、公害問題であった。
これらが、大いに問題になったのは、
「被害者が出ているにも関わらず、工場側が、自分たちには関係ないとばかりに、ロクに調査もせず、公害とまき散らしているかも知れないと思いながらも操業を辞めなかった」
という、一種の、
「確信犯」
であった。
さらに、もっとひどいのは、
「自分たちが原因であると分かっているのに、訴えられないのをいいことに、辞めなかったところもある。根拠は自分たちで調べて分かっていたのだ。しかも、裁判になっても、自分たちには責任がないとばかりに、正当性を訴えようとする」
というのが、悪質だったのだ。
いくら正当性を訴えようとも、自分たちが分かっていて、住民が苦しんでいるのを見て見ぬふりをしただけで、推定有罪だといってもいい。
法的制裁がなくとも、世間から信用を失い、操業がままならなくなった会社もあったかも知れない。
どうせ、そういう会社は自転車操業をしていた可能性がある。
そう思えば。信用を無くした企業は、自然に消えていくことも考えられるだろう。
ただ、その時に一番最初に被害を受けるのは、末端の、
「零細企業」
である。
彼らは、上の会社が招いた信用問題のせいで、受注が受けられなくなったりして、それこそ、自転車操業で何とかその日を乗り切ってきたものが、信用を失えば、もう、ひとたまりもないというものだ。
それを思うと、
「社会が大きくなればなるほど、被害を受けるのは、何ら悪いことをしているわけではない。末端の小さなところだ」
と言えるのではないだろうか?
それでも、大きな会社は生き残る、上の会社から見れば、下請け孫請けなど、
「小さな会社が潰れようがどうしようが、どうせ潰れてもまた新しく出てくるのだから、気にする必要などない」
と感じていることだろう。
それが、
「社会派小説」
にとっても、
「ごちそうだ」
と言えるのではないだろうか?
末端の会社の悲哀と、大企業と、政治家の癒着とが、人間関係の中で絡み合ってくるという小説は、結構売れるのではないだろうか?
この時代の社会派小説が流行ったという理由の一つに、
「テレビ化や映画化がしやすい」
というのがあるのではないだろうか?
ちょうど時代邸にもテレビの普及が大きく、
「一家に一台のテレビ」
というのが当たり前になっていた。
次第にカラー放送も始まり、社会派というのは、昔の探偵小説の、
「トリックなどを用いた作品」
に比べれば、そこまで特撮などを用いる必要もなく、もっと言えば、
「大人受けするドラマだ」
と言えるだろう。
どうしても、昔の探偵小説は、子供向け的なものが多い。
探偵小説作家の晩年は、
「子供向けのジュブナイル作品というものに走った」
という先生も多かった。
「少年探偵団」
などのような作品もその一つなのかも知れない。
だが、そんな社会派小説も、次第に、
「安楽椅子探偵もの」
に変わっていった。
安楽椅子探偵というのは、
「探偵として、事務所を構えているわけではなく、元々は他の職を持っているのに、探偵の真似事のようなことをする場合をいう」
と言えるのではないだろうか?
特に、テレビドラマの、
「二時間サスペンス」
的な番組に多かった。
さらに、それらの番組では、
「何か作家の得意なジャンルが確立されていて、作品というよりも、作家が有名なシリーズ化された小説のテレビ化」
というのが多かった。
たとえば、
「トラベルミステリー」
であったり、
「家元殺人事件」
であったり、
「ご当地殺人」
というものもあった。
「ご当地殺人」
というのは、シリーズもので、ルポライターのような職業の人が、行く先々で事件に巻き込まれるという、実に、
「都合のいい作品」
であり、そのご当地の名物やおいしい料理などを紹介しながら、サスペンスドラマが楽しめるというものであり、
「地域復興」
と同時に小説が売れるという、
「二度おいしい」
と言える、小説なのである。
ただ、最近になると、
「ご当地」
というのは、少し陰りがあるかも知れない。
というのは、
「最近は、鉄道会社などの取り組みなのか、あざとさなのか、赤字路線を、容赦なく廃線にするということが多い」
それだけに、昔であれば、
「秘境の温泉」
などと言われる。
「隠れ家的」
なところが、今では、完全に、
「迫害されている」
といってもいいほどになっている。
何と言っても、鉄道会社は、非情なもので、確かに赤字路線は、経営を圧迫するのだろうが、実際に、そこに住んでいるという人だっているのに、それを無視して簡単に廃線にする。
自治体も困るはずなのに、最後は反対しないのだから同罪である。
「パンデミックが起こった時には、それを理由にして、廃線を正当化したくらいである」
政府やマスゴミ同様、鉄道会社の罪は、
「海よりも深い」
といってもいいだろう。
それを思うと、
「社会派小説などに描かれる、ゼネコンなどの収賄の問題となる企業など、まだかわいいものだ」
といってもいいのではないだろうか?
ただ、そこに、
「政府の誰かを庇うために、一人に責任を負わせて、自殺をさせる」
というようなことがあれば、論外であろう。
「そんなバカなことはないでしょう?」
と思うかも知れないが、今までの政治の歴史の中で、どれだけあっただろうか?
特に最近だってそうではないか。
疑惑に塗れたソーリがいて、
「私がもし、その疑惑の通りであれば、私は、ソーリはおろか、国会議員も辞める」
といってしまったことで、結果、そのソーリの言葉の責任を取らされる結果として、その人が、事件に関係していたのかどうかわからないまま、まるで、
「トカゲの尻尾切」
として、自殺することになったのだ。
これこそ、殺人と言わずに何と言う。
結果、自分も暗殺されることになるのだから、暗殺は、
「自業自得」
ということなのだろう。
さて、そんな、
「歴史は繰り返す」
と言わんばかりの事件が世の中には溢れている。
それを考えると、
「トカゲの尻尾切がなくならないように、今の時代も昔から繰り返されていることは、同じだ」
といってもいいだろう。
まぁ、あくまでも疑惑なので、ウソか本当か、当事者は死んでしまったので、闇から闇に葬られたのだが、
「えてして、闇から闇に葬られるというものは、まず疑惑がクロだったということが言えるのではないだろうか?」
ということだというのが、世間の一般的な意味で、
「推定有罪」
と言えるのだろう。
そんな事件は、本当に昔からあったのだろうが、
「まったくいつまで歴史というのは、愚かなことを繰り返させるのだろうか?」
と思えてならないのだ。
今回の事件に、
「何か裏があるのかも?」
と思うのは、
「テレビの見過ぎ」
ということなのだろうか?
渡会はいろいろ思い出していたが、目の前にいる刑事たちは、昔のような熱血刑事ドラマのような刑事でもなく、最近のテレビドラマのような刑事でもない。
最近のテレビドラマは、どういう話が多いのかというと、10年くらい前からであろうか、一般の会社でもよく言われている、
「コンプライアンス」
のような話しであったりするのだが、特に、警察内部の話が多かったりもする。
そういえば、いつ頃からか、
「2時間サスペンス」
などと言われる番組もなくなってきて、あれだけ流行った、
「安楽椅子探偵」
と呼ばれるものが、見られなくなった。
人気のあるものは、たまに今でも放送したりしているが、どこまで視聴率があるのか分からない。
今は、ほとんどテレビを見る人も少なってきて、有料放送や、テレビ番組も配信で見たりするので、
「リアルで見る」
ということもない人が多いだろう。
見逃しても、月額料金を払っていれば、いつでも、見ることができるというわけである。
実際に、渡会も、最近のテレビドラマをあまり見ることはない。
そもそも、
「刑事ドラマ自体を見る」
ということがなくなった。
最近は昔と違って、ドラマもかなり様変わりしてきた。
それでも、変わらないのが、
「刑事もの」
と、
「医療もの」
くらいであろうか。
刑事ものも医療ものも、昔に比べれば、様変わりをしてきたのだろうが、一定数ある。
「それだけ需要がある」
ということなのだろうか?
というのも、
「最近のドラマの特徴の一番は、
「時間帯が変わってきた」
ということである。
以前は、2時間ドラマなどでも、午後9時から、11時くらいまでというのが主流で、「同時間に違う放送局でも、ドラマをやっている」
ということであったが、最近では、早くて、午後10時からというのが多くなっている。
しかも、半分くらいは、深夜枠である。しかも、30分番組で、ワンクールなので、ほぼ10回から12回が主流なので、1時間番組なら、5,6回というのが主流だろう。
ハッキリした理由は分からないが、たぶんであるが、最近の原作は、そのほとんどがマンガだということなのであろう。
昭和の頃は、ほとんどが小説で、それ以外は、脚本家のオリジナルというのが多かった。
昭和の頭頃に流行った、
「トレンディドラマなどは、結構脚本家のオリジナルも多く、脚本家が脚光を浴びる時代」
だったのである。
さらに、時間帯が深夜に移ったということは、それは、
「今までの、深夜番組と逆転してしまった」
ということになる。
昔の深夜番組が今のゴールデンの時間に移したというのは、
「バラエティ番組」
であろう。
昔は、深夜だったから、何とでもできたのだが、最近はゴールデンなので、深夜枠のように、ハチャメチャなこともできず、
「昔ほど面白くはない」
ということで、
「新鮮さに欠ける」
と言われているかも知れない。
それでも、昭和の頃の、
「教育ママ」
のような、
「悪書を追放」
といって、マンガや低俗な番組を見せないという風潮はないだけマシではないだろうか?
そんな時代において、これは昔から、変わらない犯罪として、
「通り魔事件」
というのがあった。
通り魔事件というのは、動機が曖昧なもので、被害者に対して、恨みも何もない。
「ただそこにいたから襲われた」
というものである。
実に理不尽な犯罪で、
「相手が誰であっても関係ない。ただ、自分の欲求が達成されればいい」
という犯罪が多かった。
そういう意味では、普段から警戒している、
「痴漢」
や、
「ひったくり」
などという犯罪と、
「相手が誰でも構わない」
という意味で、類似の犯罪だといえるだろう。
被害者が、どのように答えるかであるが、警察は、とりあえず、目撃者の渡会の話だけを、被害者が意識を取り戻していない今としては、信じるしかない。
警察によって被害者のこともいろいろと調べられた。被害者は、所持品などから、畑中修三という。
警察が畑中のことを調べていると、彼は以前にも、一度暴漢に襲われたことがあったようだ。
その時も、急に飛び出してきた人に殴られたということで、被害届が出されていたのだ。
それが、ちょうど半年前のことで、その時の状況として、
「殴られたことでの被害届だったのだが、場所もまったく同じところ、警察は、それからしばらく注意していたが、2、3カ月ほど、見回りを強化していたが、3カ月経っても、何もなかったことから、重点警備を解いていたのだ。
まさか、半年後にこんなことが起こるとは思ってもいなかっただろう。ただ、あのあたりは、他にも犯罪が多発する地帯ではあったので、時間帯で、パトロールするようにしていた。
まるで、警察をあざ笑うかのような犯人の行動は、
「まさか、警察内部に通じている人がいるのではないか?」
と感じさせるほどだった。
そういう意味では、まったく持って神出鬼没。犯人が特定できて、行動パターンが分かっていれば、手の打ちようもあるのだが、
「犯人は分からない。しかも、いつ出没するか分からない」
ということになれば、それこそ、どうしようもないというものである。
半年前の被害届では、その時に担当した刑事の書いていることとしては、
「被害者には、襲われる覚えがまったくない」
ということで、
「通り魔犯罪」
ということになっていた。
もちろん、当時頻発していた他の通り魔事件との関係も考察された。
犯行手口も他の犯罪とはまったく違っていて、たまたま、同じ位置で起きているということで、その場所が、
「狙われやすい場所」
ということで、警察も用心していたのに、その目をかいくぐるようにして行われる犯罪に、警察もヤキモキしていたのは、当然ということであろう。
今回のことを、
「通り魔事件」
と言っている一番の理由は、
「誰も自由に行動できる場所にて、確たる理由もなく、行きずりの相手に危害を加える」
という、警察が定義する、
「通り魔犯罪」
という言葉の定義に当て嵌まっているからである。
複数の被害者には、狙われる覚えはなく、しかも、それぞれにまったく繋がりがあるわけではない。
基本的にけがをさせられたわけでもなければ、警察は、被害者が誰なのかということを公表することはない。
特に痴漢犯罪などは、デリケートなもので、それを公表したり、マスコミに流すようなことはしない。
それが警察による、
「守秘義務」
であり、犯罪捜査と言えど、被害者の損になるようなことはいってはいけないだろう。
そういう意味で、
「それぞれの人間に繋がりもなく、被害に遭う理由がないということであれば、被害者に理由がなくても、犯人側がいるということで、通り魔と定義するしかない」
ということであった。
「じゃあ、一連の犯行は、果たして同一人物によるものか?」
ということであったが、
「どうも、同一の犯人によるものではない」
という意見が出てきたのだった。
ひったくりと、痴漢犯罪は、元々違うものなので、ここに関連性はないと思われたが、ある日、同じ日に、それぞれの犯罪が行われたことがあったのだ。
まず、ひったくりが行われ、その捜査を行っている時、まさにその時、一人の女性が一人になるのを待ち構えたかのように、黒っぽい服を着た男が暗闇から、さっと現れて、女性に抱き着いた。
「キャッ」
という声が一瞬聞こえたが、静寂の中だったので、付近を捜査していた刑事は最初分からず、
「気のせいか?」
と思ったが、
「確認だけは、しておかないと」
とおうことで、来てみると、女性が羽交い絞めにされていた。
刑事が、懐中電灯を当てると、犯人はとっさに顔を隠そうとしたところを、女性がうまくすり抜けるように逃げたことで、犯人は、そそくさと逃げ出した。
身体が重たそうに見え、
「びっこを引いているのではないか?」
と思わせたので、
「すぐに追いつける」
と思い追いかけたのだが、犯人は角を曲がったところで、姿が見えなくなった。
少し探してみたが、分からなかった。
刑事とすれば、見つからないものをいつまでも追いかけるというよりも、被害者女性のケアも必要だということに気づき、すぐに元の場所に戻ることにした。
しかし、戻ってみると、そこに被害者の姿はなかった。
「気を取り直して、帰ったのだろうか?」
と思った。
羽交い絞めにされていたが、それ以上のことをされてはいなかったように見えたので、被害者が、これ以上、ここにいる必要はないとでも思って、その場からすぐに立ち去ったのかも知れない。
それを思うと、
「被害者は、肉体的にも精神的にも、傷を負ったわけではない」
ということになるのだろう。
結局、犯人も、被害者のどちらも取り逃がしたということであれば、事件ということにはならない。
と思ったが、
「さすがに、痴漢未遂事件であることは間違いないし、ひったくりと同じ日に起こっているということで、このことを書き残さないわけにはいかないだろう」
ということで、未遂事件のことを調書に残していたのだ。
今回の殺人未遂事件は、これまでの事件の中でも、一番凶悪だった。
「命に別状はない」
というだけで、明らかに、
「殺害の意思はあった」
と見ていいだろう。
そうなると、今までの犯罪とはまったく趣旨の違うものだといってもいいだろう。
それはもちろんのことであり、
「今までの犯人は、人の命を奪おうとする人は誰もいなかった」
ということであった。
「目撃者の話を聴く限りでは、犯人には、殺害の意図があったのではないか?」
ということでもあった。
なぜなら、通り魔であれば、動機のない殺人というのが、当たり前のように感じられ、しかも目撃者がいる前で行うということは、捕まるリスクがあるわけなので、そんな犯罪を目撃者の前でするというのは、
「そのこと自体に何か理由があるのではないか?」
と思えた。
だが、
「犯人は、急いでその場から逃げ去るという様子はないようだった」
と目撃者は言っている。
身体が重そうだったということであるが、犯行を行ったはいいが、意識として、後悔の念があったのか、それとも、想像以上の動揺が襲ってきたことで、逃げようとはしたのだが、金縛りのように遭っていたのかも知れないと思ったのかも知れない。
立ち去った犯人よりも、この時も被害者を助けることが優先だった。
どちらの事件も、目撃者は、犯人を捕まえるということよりも、被害者のケアの
方が大切であった。
前の痴漢の場合は、警察官が目撃者だったこともあって、被害者のケアは必要不可欠であった。
「まさか、その場から立ち去っているというのは、私には想像もできませんでした」
と、その刑事は言っているが、話を聴いた人、皆その場所にいたわけではないのに、その場から立ち去った被害者の気持ちも分からなくはないと思いながらも、
「しょうがないことなのか?」
とするしかないと思えてならなかった。
そういう意味でも、
「犯人が逃げおおせたのは、悔しいが、だからといって、犯人を捕まえたとしても、その場から逃げるくらいの被害者なので、果たして、この犯罪に立ち向かうだけの気持ちがあるだろうか?
そもそも、痴漢というのは、
「親告罪」
と呼ばれていて、
「被害者が訴え出るか、現行犯でない限りは、罪に問うことはできない」
というものだ。
ただ、最近は(7平成29年における法改正)によって、強制わいせつなどは、親告罪ではなくなった。
つまり、被害者の意思表示がなくとも、逮捕、起訴できるというものである。
普通に痴漢をしたという程度では、自治体における、
「迷惑防止条例違反」
ということで、刑法犯ではないが、そこに、脅迫などが絡んだり、13歳未満の児童が対象であったりすれば、それは、条例違反ではなく、刑法における、
「強制わいせつ罪」
ということになるのだった。
それを考えると、
「通り魔的な痴漢犯罪」
というのは、
「親告罪となる可能性が高い」
ということで、告訴は難しいだろう。
しかし、これが、
「同一人物による、常習的な犯罪」
ということであれば、厄介なことになるであろう。
そんなことを考えていると、
「やはり、この事件が同一犯によるものかどうかということは、大きな問題なのだろう」
と、一連の痴漢犯罪などを思うとそう思えてきた。
「これ以上の被害者を出さない」
という意味で、犯人が常習的であれば、起訴することで、有罪にすることが、一番てっとり早いであろう。
逮捕から有罪になることで、
「犯行に対しての抑止:
になるからだ。
痴漢をしようとしている連中が、親告罪ということを知っているのかどうかも分からないのに、ましてや、捕まった時のリスクを考えているのかどうか、怪しいものだ。
というのも、英二の立場から考えると、
「この場所での犯行は、リスクが大きい」
と普通だったら考えると思うのだ。
なぜかというと、複数のことが考えられるのだ。
一つは、言わずと知れた、
「警戒が厳重になる」
ということである。
警察は他の場所に比べて神経質に巡回しているだろうから、それをかいくぐるというリスクがあるというものである。
もちろん、警察に恨みでもあって、
「警察の鼻を明かしてやろう」
というくらいの気持ちがあれば別だが、警察には関係のないところでの自分の意思であったら、何もリスクを犯してまで、同じ場所で犯行を行うようなことはしないだろう。
しかも、ここはすでに、
「多発地帯」
ということが、認知されているので、もし万が一警察に捕まってしまうという不覚を演じると、警察の取り調べは、かなり厳しいものになるだろう。
なぜかというと、
「一連の犯行を、こちらのせいだと決め込むような折り調べを行う」
だろうからである。
警察としては、
「余罪を調べる」
というのは当たり前のことで、それよりも、
「親告罪ではない、強制わいせつにしてしまいたい」
という思いがあるとすれば、大変なことである。
下手にやってもいないのに、警察の追及に堪え切れっず白状したりすれば、警察は、
「待ってました」
とばかりに、起訴に踏み切るかも知れない。
ただ、検察はもっと冷静で、
「裁判に持ち込んだとしても、切れ者の弁護士にかかれば、わざと自白しておいて、裁判の際に、
「警察に自白を休場された」
と言われてしまうと、警察と検察の面目は丸つぶれだ。
検察は今までに何度もその煮え湯を飲まされてきたので、起訴には、慎重になっているというのも当たり前のことだった。
まだ、逮捕されていない犯人に対しての、裁判を考えるというのは、
「捕らぬ狸の皮算用」
といってもいいのだろうが、
「痴漢」
と、
「強制わいせつ」
というものの間に、
「親告罪」
というものが絡んできていることで、いろいろ問題は厄介である。
特に被害者側にとっては、かなりデリケートな問題で、本人や家族からしてみれば、
「犯人が憎い」
という気持ちが一番なのだろうが、被害者として考えられるいくつかのリスクを考えると大きな問題となるのだ。
まずは、裁判を起こして、裁判で原告として、弁護士から、いろいろと、生々しいことを聞かれ、傍聴席に人がいるのに、まるでさらし者になっているということに耐えられるかということである。
また、裁判を起こしたなどということや、そもそも痴漢犯罪に遭ったということで、下手をすれば、会社にいられなくなる。
もちろん、解雇理由になるわけはないが、会社内で、変なウワサや誹謗中傷などがないとも限らない。
何もなくとも、普通に誹謗中傷されるのであればまだしも、ウワサには尾ひれがつくもので、そうなると、あることないことを言われ、誹謗中傷がそれだけではすまなくなることだってあるだろう。
しかも、もっとひどいのは、
「その人たちに、悪意という意識がまったくない」
ということであろう、
だから、反省をすることもないので、収まるとすれば、
「本人が苛めに飽きる」
くらいしかないだろう。
まったく相手に反応がないと、まるで、
「糠に釘」
とでもいうように、味気ないものとして、誹謗中傷がなくなるという可能性くらいであろうか。
また、もう一つの大きな問題としては、
「犯人から逆恨みを受ける可能性がある」
ということである。
犯人がもし有罪ということになれば、前科がつくことになり、その人の家族が崩壊することになるだろう。
そうなると、犯人としては、
「俺の家族を崩壊させた女」
ということで逆恨みを考えることだろう。
それまでの痴漢は、
「衝動的な行動」
といってもいいが、今度は、動機というものがあるもので、それが逆恨みという怨恨が動機となるのだった。
下手をすると何をするか分からない。
「殺されてしまうかも知れない」
と感じてしまう。
「この男が、どんなに深い罪、要するに強制わいせつという刑法犯になったとしても、結局、有罪で懲役を食らっても、長くて、数年で出所してくるのだ」
ということである。
もし、その間に恨みが消えなかったり、さらに燃え上がってしまうということであり、出所してきても、職がないとか、家族から縁を切られるようなことになり、
「帰るところがなくなった」
などとなると、自分がやった犯罪を棚に上げて、恨みは、また彼女に向くことになる。
もちろん、最悪のことを考えてのことであるが、
「社会に出ると、最悪のことを想定するということを覚えた」
という人は結構いて、彼女もその通りだった。
だとすると、
「本当に何をされるか分からない。殺されるかも知れない」
ということをずっと考えながら暮らしていくのも、限界があるというものだ。
「これからの犯罪の抑止力になるという考えがあったとして、自分が、命の危険というリスクを犯してまで、自分一人が犠牲にならなければいけないか?」
ということである。
あまりにも、理不尽ではないか?
もし、危害を加えられることはないとしても、それまで怯えながら暮らすというのは、いかにも理不尽で、
「明らかに自分が人身御供にされてしまった」
ということを自覚しているのが、自分だけだと思ったのも、悲しいことであった。
それを考えると、
「自分がここで訴えるというのは、リスクが多すぎる」
というものであった。
しかし、
「泣き寝入りというのは、溜まったものではない。まだまだ、警察や検察に、限界というものがあるのだ」
ということを考えると、
「厄介なことだ」
と言えるのではないだろうか?
そういう意味で、この、
「人に危害を加える」
という犯行が模倣犯なのか、同一犯によるものなのか、実に厄介なことである。
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