♰Chapter 16:ひと時の夢

”――――……”


歌が聞こえる。

柔らかく、優しく、ただひたすらに心地のいい鼻歌ハミングだ。


何度も、何度も。

数え切れないほど耳にした懐かしい旋律。

その歌い手のことはよく知っていた。


”おかーさん……?”


目蓋をゆっくりと持ち上げる。

そこには赤々と燃える薪がある。


温かくて、暖かい。

それは暖炉だった。


”——どうしたの? そんなに驚いた顔をして。もしかして怖い夢でも見たの?”


ぱちぱち、ぱちぱち。

火の粉が跳ねる。


見ていると意識に幕が下りたように曖昧になる。

無心にこれまでのことが夢なんだと思えてきて疑わなくなっていく。


最後に自分の意思でわずかに動かした手は幼子の小さな手になっていた。

とてもおかしなことなのに、ぼんやりと受け入れてしまう。


”うん……すごく、怖い夢。そこには大きな鉄の動物が走っていて、町は雲まで届きそうな大きなおうちがたくさんあって。人はみんな喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだりしているんだ”

”そうなの。お母さんには想像もできない世界ね。でもそれのどこが怖いの?”

”うーんとね、そこにはおとーさんもおかーさんもいないんだ。遠い、本当に遠い場所にわたしは独りで雨に打たれていた気がするの”


温もりを感じる手が頭を撫でる。

くすぐったくて思わず目を瞑る。


”それは怖かったね。でも大丈夫。お母さんが傍にいるよ。お父さんもきっと傍にいてくれる。何も心配する必要はないのよ。だからずっと一緒にここにいよう”


そうしていると気持ちのいい微睡がやってくる。

眠ってしまえばこの幸せな時間はきっと終わらない。

永遠に甘く、優しい蜜のような安らぎに浸かっていられる。


それはきっととても幸せなことで――。


――『オレからお前への態度は変わらない』。

ふとおにーさんの言葉が頭の靄をわずかに晴らす。


そうだ。

辛かった。

怖かった。

だから誰にも明かせず、飲みたくもない人血を貪り続けた。

そんなわたしをあの人は最初に受け入れてくれた。

醜い半人半鬼の姿を見ても何も変わらず接してくれた。


――それがすごく、すごく嬉しかった。

他の人から見ればなんてことはない、ただの言葉以上の意味を持たない言葉。


この夢を肯定すればその言葉を否定することになる。

それは、駄目だ。


だから瞼に力を入れるけれどまったく抵抗することはできなかった。

それでも力を振り絞る。


”わ、たし……戻らなきゃ……”

”どうしても?”


きゅっと袖をつかむ。

小さい頃からの癖だった。


おかーさんは羽毛のように柔らかく微笑んだ。


”なら行ってらっしゃい。大丈夫。貴方はわたしとあの人との愛しい娘だから。たとえ夜空に輝く星ほどの遠い場所にいてもきっと傍にいる。貴方を守るためならなんだってする。だから――大切な想いをくれた人のもとに戻りなさい。在るべき場所、わたしたちが送り出した遥か未来のその先へ”


霧に包まれたように遠くなっていく。


そのなかで最後にもう一人の影を見た気がした。



――……



目を覚ましたとき、そこは広場ではなかった。

無骨な煙突が火を噴いている。


かつて――八神たちと出会うよりもさらに以前、姫咲が拠点として使っていた工場地帯の一角だった。

当時の定位置だった鉄盤の上に倒れ込んでいたのだ。


「……わたし、まだ人間としての意識があるの……?」


瞳の色を見ようとする。

だが正面にあったはずの姿見はなぜか割れてしまっている。


それだけじゃない。

鏡の代わりになりそうな金属類も全て粉々に砕けて地面に落ちてしまっている。

随所にある斬撃痕も色濃い。


「誰かが荒らした……にしてはひどいね」


鉄盤に再び横になるとセミロングの黒髪が波紋を描くように広がる。

汚れることなどいつものことだ。


頭痛は今は収まっている。

無意識に人間の血を飲んだのかとも思ったがその気配もない。


「いたっ……」


じく、と腕に痛みが走って気付いた。

自分の腕に噛み跡が付いているのだ。


「そっか……わたしは結局自分で自分の血を飲むことで強引に天秤を戻したんだ……」


結局人間を襲わなかったのだ。

そのままにここに辿り着いた。


腕の傷を見てそっとなでる。

吸血鬼特有の再生能力も落ちているようだ。

またじくり、と傷んだ。


自分で自分の渇望を癒せることは初めて知ったがこれが一時しのぎだということも理解していた。

近いうちに人間の血を飲まなければ今度こそ。


そう考えたところで背筋に悪寒のようなものが駆け巡る。


「何か、来る……。この気配は……!!」

”あ、あああ、あああああああああああああ!!!”


この一角はおおよそ姫咲の感知下にある。

その各所で屍食鬼が徘徊し、身の毛がよだつほど不気味な雄叫びを上げている。


「なんで、なんでよ……。今は戦えない。力を使えばもう……」


十を超えている。

二十まで届くかもしれない。


次から次に気配は増えていく。


止まらない、止まらない、止まらない。

気配が波のように押し寄せてくる。


「いや――いや……いや、いやよっ! 誰か、誰か助けてよ……。神様、わたしが十字架を落としてしまったのがいけなかったの? わたしが生まれてきてしまったからいけなかったの? 何をどこから間違えちゃったの……? 答えてよ! 答えて、よ……」


がんがんと鉄扉が叩かれる音がする。

ついに居場所に気付かれてしまったらしい。


「お願い……お願い……何でもするから。赦して……死にたくない」


一際大きな音がして鉄扉が大きくへこんだ。

まるで地獄へのカウントダウンだ。


十秒と経たず扉がはじけ飛んだ。

屍食鬼に対しては毛ほどの役にも立たないであろうひしゃげた鉄パイプを構える。

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