♰Chapter 15:消えたくない
時間を遡り、八神と水瀬が人工島の調査に出ている頃――――……。
姫咲楓は洋館に与えられた部屋――その窓辺で祈りを捧げていた。
両手を柔らかく握り、静かに目を瞑っている。
「――――……」
開け放たれた窓から夏の花の香り。
目蓋を閉ざしていても陽光を感じている。
祈り終えるとゆっくりと目を開け、ベッドに転がった。
日課を終えてしまえば暇を持て余す。
ここ数日はそんな過ごし方をしていた。
「せめてお出掛けができればなあ……」
厳密には琴坂の同伴で外出はできる。
だが姫咲はあまり知らない人間のことを信用しなかった。
それがたとえ八神の仲間であったとしても。
だから日がなひたすらこの部屋とリビングを行ったり来たりする。
ごろん、とふかふかのベッドの上を転がっては戻る。
それをひたすら繰り返していると無性に楽しくなってきた。
退屈なことでもずっとやっていると馬鹿馬鹿しくなってくるものだ。
「……おにーさんは今頃学校かな。学校ってどんなところなんだろ」
姫咲は半人半鬼。
学校には一度も行ったことがない。
そこには先生と生徒という役割があって。
そこでは勉強や運動に励んで。
休み時間には友達と好きな人や放課後遊びに行く予定について話し込む。
喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり。
時にはちょっとした悪戯をしてみるのもいいかもしれない。
――そうだ、それは楽しそうだ。
綻んでいた口元が引き締められる。
想像するだけ想像して飽きてしまった。
だってそれは決して叶わないことだから。
いつまでも成就しない夢を想っていられる状況じゃない。
「おにーさんは約束を守ってくれた。今度はわたしのこと、全部話さないと……駄目だよね」
額に手の甲を当て、指の隙間から見える天井に自答する。
その小さな独り言を言い切った瞬間に、視界が揺れた。
「……ぐっ!!」
――どくん。どくん、どくん。
不意に脈打つ心臓の音が頭に響く。
手足が痙攣したように引き攣る。
跳び起き、胸を抑えるも痛みは続いている。
「あ……ああっ!!」
ばたん、とベッドから転げ落ちた先には姿見があった。
桃色の瞳が緋色になりつつある。
「はあ……はあ、はあ……っ……」
全身から冷や汗が噴き出し、激痛が身体を襲う。
――あの夜、吸血鬼としての力を酷使したせい?
――それとも人間の血を数日間摂取していないせい?
「どっちも……よね……」
”屍者”――とりわけ吸血鬼は人の血が人間の食事に相当する。
飲まなくてもすぐに死にはしないが身体は衰弱し、吸血鬼の血が騒ぎだす。
耐え難い渇望が身を侵し、それが続けばいつかは理性を失った化け物となる。
ならば人間と吸血鬼のハーフである姫咲はどうか。
常にその二つの間で天秤が揺れていると考えるべきだ。
人間の血を飲めば吸血鬼の衝動が抑え込まれ、人間としての意識を保っていられる。
だがもし飲まなければ急激に吸血鬼の方の皿が重くなり、そちらへ傾く。
もしそうなったとき。
――人間としての姫咲楓は消えるのか。吸血鬼としての姫咲楓は残るのか。
――あるいはどちらも消え、新しく姫咲楓という存在が構築されるのか。
「怖い……怖いよ……お母さん」
全身を掻き抱くが震えは止まらない。
もうそろそろ限界が近いのだ。
胸元にあったはずのそれに縋ろうとするもいつの間にか無くなってしまっている。
――うじうじと悩んでいる時間なんてなかった。
おにーさんを襲い掛けてしまった時点で判断すべきだった。
すぐにでもこの洋館から飛び出すべきだった。
でもおにーさんやおねーさんたちとの過ごしたわずかな時間。
その時間があまりにも温かくて、心地よくて。
孤独に生きてきた姫咲にとってはひどく手放しがたいものだった。
だからずるずるとここまで引きずってしまった。
「終わりに、しなくちゃ。人にも吸血鬼にもなり切れない中途半端なわたしはどっちとも分かり合えない。生きていけない。この数日間は夢、そう夢なんだ」
もはや右目は緋色から戻らない。
左目が桃色から緋色になる時も近いだろう。
その前にここから出なければ見境なく襲ってしまうかもしれない。
――おにーさんを、おねーさんたちを。
守ってくれようとした人たちを傷付けたくはなかった。
痛みをこらえ、右目を抑え。
自分の部屋のドアノブを何度も掴み損ねて。
廊下を歩く。
リビングまで機械的にひたすらと。
扉の前に来たとき、一度大きく深呼吸した。
右目を抑えたまま、ドアノブに手を掛け体重を乗せる。
そのまま不格好に倒れ込む。
「……姫咲さん? 姫咲さん⁉」
リビングのソファで本を読んでいた琴坂が駆け寄ってくる。
「あはは……大丈夫。でも少し頭が痛いんだ。薬を買ってきてくれないかな?」
賭けだった。
この洋館に頭痛薬の類があればこの人を洋館から引き剥がすことはできない。
でも神様は味方をしてくれたらしい。
「……薬は、買ってこないとない。熱は……」
額に触れようとしてきた琴坂の手を弱く差し返す。
「ね、熱はないよ。だからお願い」
「……分かった。姫咲さんは、自分の部屋で少し休んでいて」
琴坂は読んでいた音楽雑誌を机に置くと洋館を出て行った。
この場所から一番近い頭痛薬を置いている店など姫咲は知らない。
ただすぐに帰ってくることはないだろうと判断する。
「いつっ……」
頭痛はどんどんとひどくなる。
だが身体の自由はまだ効く。
理性も飛んではいない。
琴坂が出発してから五分。
短い間、世話になった洋館を一度だけ振り返り。
「――ごめん、約束守れそうにない」
それから真っすぐに駆けだした。
――……
行く当てなどなかった。
かつてと同じように放浪の旅路が始まるのだと思うと足取りが重い。
街中を歩いていてふとあることに気付く。
随所に設置された監視カメラの存在だ。
八神は警察機構たるISOとの関係性が深そうだった。
念のために避けて通った方がいいだろう。
そうなると公共交通機関は避けて徒歩で移動しなければならない。
すれ違う人、人、人。
全てが美味しそうに見えてくる。
食事をするには夕刻はまだ早い。
するなら夜だ。
ひたすら歩を進める。
どこに行くのか、どこまで行けるのか。
自分自身でも把握できないままに。
――……
気付けば辺りは真っ暗だった。
意識が朦朧としている。
霧の中にいるような曖昧な感覚。
服はびしょぬれ。
手足の先まで冷え切っていた。
いつの間にか雨が降っている。
あんなに晴れていたはずなのに。
「……あったかい」
身体は寒いはずなのに暖かいと錯覚を引き起こしている。
「……そうだ……誰か見つけて血を飲まないと」
だが周りには誰もいない。
辿り着いた場所は海辺の近くの広場だ。
それから視線が広場の中央の時計に。
「零時……人なんて、いるわけない。なんで……こんな場所に」
ばしゃり、と石畳に倒れ込む。
そこでようやく気付いた。
「そっか……ここはおにーさんたちと来たお店の……近くの……」
歩いて五分もかからない場所にアウトレットパークの影が見える。
無意識に楽しかった場所へ足が向いていたのか。
どこまでも未練に憑りつかれた自分が矮小な存在に思えてくる。
「死にたくない……消えたくないよ……
胸元には何もない。
それでも何かを幻視するように手で握る。
己の信じる神は何も答えない。
「消えたく……ないよ……おかーさん……」
己の頼るべき母親はもういない。
「たすけて……おにー、さん……」
なぜか数日前に初めて会ったばかりの男の顔を思い浮かべる。
怜悧な表情に、少しずれたユーモアを持つ少年。
冷ややかに見えるようで意外と気を回してくれていたりする。
不思議と人を惹きつける魅力があった。
――だからなのかな。最後に思い出すのがおにーさんなのは。
最後に残された人間の部分の自分が削られていく。
ゆっくりと――でも着実に天秤が傾いている。
そこで姫咲楓という人間の意識は途絶えた。
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