♰Chapter 1:早朝の夢
”痛い――痛いよ”
声がする。
すすり泣いているようにも聞こえる。
その誰かに手を伸ばそうとしても届かない。
白黒の
途轍もない不安と生きてくれていたという希望で、焦燥が溢れる。
――オレだ。オレはここにいる!
ずっと、ずっと君に――
――……
ちちちち、と小鳥のさえずりが早朝を告げる。
やけにぼやけた視界とすっと鼻腔をくすぐるシトラスの香り。
「――――」
それを強引に頭から振り払うと自分の現状を確認する。
背中の手が柔らかく動く。
「……水瀬?」
その声でようやくオレが起きたことに気付いたらしい。
至近距離で見つめられ、その碧眼の双眸と視線が交錯する。
「もう、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫……というよりも一体何があったんだ? 寝込みを襲いに来たにしては夜明けだが。それにしても大胆な――」
心底不思議そうな顔をした後に顔が上気する。
「あ、あ、ああ……!!」
今更になって羞恥が込み上げてきたのか、慌ててオレから距離を取る水瀬。
その際に彼女の手が胸元のブローチを掠め、絨毯に落ちる。
だがそれすらも気付かない様子で否定の言葉を重ねる。
「ち、違うから! 別に寝込みを襲おうだとか、そんなこと全くこれっぽっちも考えていなかったのよ⁉」
「分かったから落ち着け」
「……信じて、くれるの?」
「ああ、もちろんだ。オレがお前に相棒以上の感情を抱かないように、お前もオレに相棒以上の感情を持たないことを知っているからな。それはここ数か月もの間、一緒に過ごしたからこそ骨身に染みていることだ」
高校生の男女が二人きりで――それも相手と触れ合える距離で朝を迎えれば何かあってもおかしくはない。
事実として高校生活に慣れてきた同級生の一部では、中学とは異なるであろう、ワンステップ進んだ色恋の話が出ていたりもする。
だがそれがオレと水瀬に当てはまるかと問われれば、絶対にないと言い切れる。
オレが捉える、オレと水瀬の関係性とはそういった”恋愛関係”といった仲でも、”友人関係”という仲でもないためだ。
――すなわち、利害関係。
相互に利益を享受することによって成り立つ関係だ。
そこに感情はなく、利の有無のみが存在している。
オレは水瀬から魔法について教わり、水瀬は相棒としてのオレを手に入れる。
相互に協力し合うものの、そこに関係性以上の心はないし、あっては困る。
したがって、オレと彼女には何もなかったと断言できる。
状況証拠的にもオレの衣服は乱れていないし、水瀬の衣服も乱れていない。
ブローチを拾うと水瀬の手に握らせる。
「ありがとう」
「構わない。この礼だ」
夏場とはいえ、床で眠っていたオレにタオルケットを掛けてくれたのは彼女だろう。
丁寧に畳んでからベッドの上に置く。
それから窓を開ける。
元々洋館の敷地が広いため、敷地外の喧騒はあまり聞こえない。
だが早朝の今はそれがより顕著であり、穢れのない空気も爽やかだった。
「……さっきのことには少し思うところもあるけれど」
ぶわっと一際大きな風に煽られカーテンが揺れる。
思うように彼女の声が聞こえなかったオレは窓を半開きに調整する。
「何か言ったか?」
「いいえ、何でもないわ。それよりも本当に何もないのね?」
彼女は頬を指さしている。
釣られるようにオレはオレの頬を触れるとわずかに跡ができているようだ。
「ああ、これのことか」
少しだけ右目が腫れぼったくなっているのかもしれない。
我ながら片目だけで泣くなど器用なことをするものだ。
「何ともない。何か夢を見ていたような気もするが大したことはないだろう」
そこまで言ってどうして水瀬がオレのことを抱きしめていたのかに気付いた。
優しい抱擁に絆されるような弱い精神構造をしているつもりはないが、若干の安心感と戸惑いがあったことも否定できない。
「そうか。オレのことを心配してくれていたのか」
「いつもの時間に起きてこなかったから少し様子を見に来たのよ。もちろん、扉はノックしたし返事がなかったからまだ寝ているのかとも思ったわ。でもほら、
屍者の黙示録。
それは東京のまる一区分を呑み込んだ屍者の大規模侵略を一言で表したものだ。
本当なら『第一次』と付けるべきかもしれない。
なぜならいまだ吸血鬼の王はどこかに潜伏しており、必ずまた惨劇を起こすからだ。
間違いなく『第一次』以降もあると確信している。
「そして休日の今朝、ベッドの端にもたれ掛かって泣いている貴方を見つけたの。ひどい任務の無理が祟って万が一があるかもしれない。そう考えたら余計なお世話かもしれないけどどうしても放っておけなくて……ごめんなさい」
「お前が謝る必要なんてないだろう。オレこそ心配かけて悪かった。ただ……オレは何か言っていたか?」
それは一番重要なことだ。
夢のことは忘れかけているが今はまだぼんやりと覚えている。
あれはオレの過去と深く関わる夢だった気がする。
不必要に他人に詮索はされたくないものだ。
言いにくそうに、迷いつつも。
彼女は素直に口にする。
「――”オレはここにいる”」
「そうか」
口走ってしまったことは仕方ない。
全く自分の脇の甘さには反吐が出る。
他人が至近距離にまで近寄っても起きられなかったこともそうだが、身の回りの警戒心が緩むときがたまにある。
――それとも水瀬だから、なのだろうか。
一つの可能性を考えてそれこそ馬鹿な話だと一蹴する。
「安心して。その言葉の意味も夢の内容も、貴方が話さない限りは何も言わないつもり」
「助かる。忘れてくれ」
それから水瀬は今日すべきことを伝えてくる。
「さて今日だけど〔調律〕施設に行きましょうか」
「〔調律〕はひと月に一度が目安だったな。前回からもうそんなに経つのか」
時間の流れというものは早い。
ぼうっとしていればあっという間に置き去りにされてしまう。
それを寂しいと思うか、それとも喜ぶべきこととして受け入れるのか。
きっとどちらも正しい答えなのだろう。
「それは目的の半分ね。今回は姫咲さんを迎えに行くことがメインよ」
「ということは正式に決まったんだな」
「ええ、今朝がた盟主から連絡があったの。一つは今後屍者の件が収束するまではこの洋館で姫咲さんを保護すること。そしてもう一つ――」
洋館の玄関口から扉をノックする音が聞こえた。
オレと水瀬しか住んでおらず、周囲に他の建物もない。
そんな環境だから洋館全体に音がよく響く。
「噂をすればちょうど来たみたいね。八神くんは身支度を整えてからリビングまで来て。後のことはそれから」
水瀬は部屋から出て行った。
来客も気になるがそれよりも。
オレは右目を抑える。
「……泣いたのなんていつ以来だろうな」
泣いた記憶なんて覚えていない。
覚える価値も、思い出す価値もない。
ただ、自分にまだ”泣く”という機能が備わっていたことにささやかな驚きと嫌悪感を抱くのだ。
終焉のサクリファイス4 鮮血屍者編 後編 冬城ひすい @tsukikage210
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