♰Chapter Pro:侵略の始まり

屍者ししゃ黙示録もくしろくからおよそ一年前の夜藤港にて。



――……



その日、彼は客室の一室で目を覚ました。

上を見れば豪奢な絨毯、下を見れば意匠を凝らした天井が映る。

逆説的にこの人物は逆さま状態である。


”ご乗船のお客様にご案内いたします。当客船は間もなく東京の海の玄関口・夜藤港やとうこうへ寄港いたします――”


館内放送は間もなくの到着を告げている。


「――劣等種どもの手で創造された豪華客船なるもの、か。磯臭ささえなければ食事にも困らぬゆえ譲歩も出来たというものを」


まるで重力が消えてしまったかのようにふわりと反転すると地に足を着く。


特徴的な金瞳に、白目部分は黒い。

左右対称に生え揃った鋭利な犬歯。

青白い肌に似合わぬ美しいシルバーグレーの髪。

細身でありながら無駄のない体格は均衡を重んじている。

さながら貴人の様相である。


「た、たすけてくれ……」


圧倒的な存在感を誇る彼に対して、不格好に磔にされた乗客が一人。


一晩中咽び泣いたのだろう。

頬には涙焼けの跡が色濃く、手足も拘束から逃れようともがいた痕跡がある。

抉れた肉から凝固しつつある血液が垂れている。


「……醜い、あまりに醜い。屍食鬼にする気にもならぬ。存分に喰らえ」


瞬く間に黒い霧が立ち込め、雷が鳴動する。

その中から複数の低位屍食鬼が零れ出る。

理性も品性もない欲望剥き出しの禍々しい赤瞳はおぞましさの極致にある。


「あぁ……いやだ……。いやだ、いやだいやだいやだっ!!!!!! 死にたくな――!!!」


――ぐじゅり、ぞりぞり。


牙が幾度となく男の身体に突き立てられる。


「あ――かひゅっ――……っ」


喉を真っ先に裂かれ、声すら出すことを許されず。

生きたまま喰われていく絶望。


薔薇が花開くように、四肢が助けを求めるように痙攣する。


まき散らされる紅は男にとっては生まれたことを後悔させるような。

屍食鬼にとってはひたすら食事の気分を盛り立てるだけの。


男は身体機能が停止するよりも先に精神機能の限界を迎えて息絶える。


「人間など低位屍食鬼にすら種としての格が劣っているのだ」


それを見届けた彼は余興にもならぬと陰鬱な溜息を吐く。


「〔焔冠えんかん〕のヴィンセント、〔屍冠しかん〕のゼラ、〔癒冠ゆかん〕のアングストハーゼ」


薄い霧を纏って三名の吸血鬼が姿を現した。

一様に跪き頭を垂れている。


「貴様らは我――オブスキュラ=ノクターナスが血を盃に湛え、その血盟の輪に楔を打った吸血鬼だ。貴様らに命ずる。手足となる屍食鬼を増やせ。来たるべき”月蝕”の夜、我々の手で吸血鬼とその眷属たる屍食鬼のみが跋扈する理想郷へと作り変えるのだ」


「ヴィンセント。偉大なる王命のままに」

「ゼラ。お任せください我らの王よ」

「アングストハーゼ。我が王に全てを尽くしましょう」


一人ずつ名乗りを挙げ、王の手甲に口付けを交わす。


吸血鬼は絶対服従と全身全霊を誓約するためにこのような儀礼的行為を取る。

それが証であり、導であり、契約となる。


これが吸血鬼の王が来訪した日――その始まりであった。

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