第3話 全てを失ったその先に

 十六歳になった私は、八年前とは比べ物にならないくらい質素で狭い部屋で、亘々の帰りを待っていた。

 新皇帝となった大栄漢国の情報を得るために、村から出て行って数日がたっている。それほど私たちが身を寄せている村は辺境の地にあるのだ。


 ここまで田舎に下がったのは、皇帝となった盾公から逃れるためだ。

 盾公は、宮廷のみならず、都に住む皇帝派の一族もろとも処刑した。その処刑方法はあまりにも残虐だった。人間の体を車で引っ張って引きちぎる車裂しゃれつの刑や、生きたまま皮をはぎ取る剝皮はくひの刑など、人間の所業とは思えないほど非道な行いだった。


 あの時、雲朔が逃がしてくれなかったら確実に私は死んでいた。

 けれど、私を救ってくれた雲朔の行方がわからない。

「絶対に迎えに行くから」と約束したのに、雲朔は見つけにきてはくれなかった。

 こんな辺境の地にいるから見つけられないのだと言って、私は何度も田舎を出ようとした。その度に亘々に止められた。

 都に近付けば近付くほど、命の危険が高まるからと。


「なるべく遠くへ、田舎に行くんだと雲朔様はおっしゃったではありませんか。約束をたがえてはいけません」


 亘々はそう言って、私を説得した。

 でも、「八年前に正式な継承血筋を持つ者はいなくなってしまった」と亘々は言った。


 ……八年待った。待ち続けた。


 私も大人になり、あの状況で生き延びることがどれほど難しいことかがわかった。

 禁軍大将である父ですら負けたのだ。

 十歳だった雲朔が生き残れるはずがない。


(どうしてあの時、雲朔を戻らせてしまったのだろう。私がもっと強く引きとめていれば……)


 何度も何度もそう思って悔いた。あの日のことは、今でも夢に出てくる。

 悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。


(それにしても、亘々遅いな……。もう帰ってきてもいい頃なのだけど。なにかあったのかしら)


 嫌な予感がする。亘々がいなくなってしまったら、私は天涯孤独だ。生きる気力も望みもなくなってしまう。

 亘々がいなくなってしまった後のことを考えるだけで身震いした。そんな怖ろしいことは想像したくもない。


「お嬢様っ!」


 切羽詰まった声と共に、亘々は平屋に飛び込んできた。


「亘々!」


 ようやく帰ってきてくれた亘々を見て、私は声を弾ませた。だが、亘々の真っ青な顔を見て、喜びの笑顔が消えた。


「お嬢様、大変です。早く逃げてください」


 全身に汗をかきながら、息を荒げて亘々は言った。

 嫌な予感は当たったらしい。なにかがあったのだ。


「どうしたの?」


「新皇帝が後宮妃を募って、歳若い美女を臣下たちが探しているそうです。錦衣衛きんいえいはすぐそこまで来ています。お嬢様、早く逃げて」


「私が後宮妃に選ばれると決まったわけじゃないでしょ」


 私が平然とした面持ちで言うので、亘々は声を荒げて怒った。


「お嬢様を後宮妃に選ばなくて誰を選ぶっていうんですか! 自分の顔を鏡で見てくださいよ!」


「ええ……」


 ここまではっきり言われると否定することができない。身内びいきで美人に見えるのだろうと思うけれど、目立つ目鼻立ちをしていることは村の者たちの反応で自覚はあった。


「それじゃあ、用意をして一緒に逃げましょう」


「いいえ、私は残ります。二人共逃げたら、必ず追われます」


「そしたら亘々が後宮妃に選ばれてしまうかもしれないじゃない!」


 私が血相を変えると、亘々は渋面を作って呆れて言った。


「お嬢様、私の顔をよく見てください。こんな男みたいな容貌が妃に選ばれるはずないじゃないですか。それに、二十歳以下の女性を選んでいるらしいので、私は大丈夫です」


 男みたいな容貌と亘々は言うけれど、薄い顔をしているだけで化粧をすれば映えると思う。でもそんなことを言っても亘々は認めないだろう。


「二十歳以下……。そうね、それなら大丈夫ね。でも、隠れたとしても、私がいることを村の人たちが告げたら追われるんじゃないかしら」


「それはここに来る前に考えたんですけど、今、村内で原因不明の病が流行っているでしょう。その病にお嬢様もかかってしまったので隔離していると言ったら見に来ないでしょう。流行り病は一番怖ろしいですからね」


 なるほど、と私は思った。数日前から原因不明の病で倒れる者が出ていて、学堂も休みになっている。医者のいない村に、流行り病はとても怖いものだが、これを利用しようと算段するとは亘々はさすがだと思った。


「さあ、早く。温かい恰好をして、夜まで近くの山で隠れていてください。日が暮れれば、錦衣衛たちも帰ります。この村には泊まるところはないですからね」


 私は頷き、継ぎはぎだらけだが温かい上着を着て、平屋を出た。

 地元民しかわからない獣道を通る。なるべく遠くへ行かなくては。春なので、上着を着ていると厚くて汗をかく。上着を脱ぎ、手に持ちながら山を登った。夜になると急に冷え込むので、上着は手放せない。


(あの日のことを思い出すわ。一夜にして全てを失ったあの日。また逃げなければいけないなんて)


 盾公よりも残虐だといわれている新皇帝の妃になってしまったら、どんな酷い目にあうかわからない。

 それに、私は雲朔のお嫁さんになると決めているのだ。

 ……もう、雲朔はいないとしても。その事実に一瞬落ち込みそうになったけれど、慌てて頭を切り替える。今は落ち込んでいる時間はない。


 小高い山の頂上まで辿り着き、身を隠せるような木々が生い茂ったところに腰をおろす。


(ここまで来れば大丈夫。もし錦衣衛が探しに来たとしても、日が暮れているだろうから見つかりっこないわ)


 夜の山は怖い。暗闇が身を隠したとしても、そこで一夜を過ごしたくはない。


(亘々は大丈夫かしら。早く帰ってほしいものだわ)


 こんな辺境な田舎にまで探しに来るなんて、よほど妃候補がいないのだなと思った。


(残虐な皇帝の妃になんて誰もなりたいとは思わないわよね。自業自得だわ。ただのはた迷惑よ)


 会ったこともない新皇帝に心の中で思いっきり罵倒した。

 なぜ関係のない民が政治に巻き込まれるのだろう。ただ、ひっそりと生きていただけなのに。

 たった一日で多くを失ったときのことを思い出し、奥歯を噛みしめた。

 悔しいとか、悲しいとか、そんな言葉じゃ表現しきれないほどの重い感情を植えつけた盾公を憎いと思う。

 その盾公を討った新皇帝も同じだ。権力に魅入られ、自分の欲のために多くの命を奪う。簒奪帝なんて、みんな似たようなものだ。


 日が暮れてきた。寒くなってきたので、上着を羽織る。外は静かだった。錦衣衛が山を登ってくる様子はないし、もう帰ったかもしれない。

 立ち上がり、音を立てないように慎重に歩き出した。完全な夜になる前に山をおりたい。山から村を見下ろせる場所に行き、村の様子を見てみることにした。

 すると、村がある場所から赤い光が放っていた。


(どういうこと?)


 最初はなにが起きているのか把握できなかった。美しい光が輝いていて、とても綺麗だったからだ。


(これは、まさか……)


 頭に浮かんだ事柄の意味を考えると、一気に血の気が引いていった。私は後先考えずに走り出した。


(嘘……嘘……亘々!)


 転げ落ちるように山をおりていった。悲鳴を上げたいほどの恐怖に包まれながら、村へと向かう。


(村が、燃やされている!)


 それが、どういう意味であるのか。死地を乗り越えてきた私にはわかった。


(なぜ燃やす必要が⁉)


 唯一の疑問はそれだ。村人たちが錦衣衛になにをしたのか。皆殺しにする必要なんてないはずだ。ここは辺境の田舎で、新皇帝の脅威になりうるものなんて一つもない。

 その時、亘々の言葉を思い出した。


『今、村内で原因不明の病が流行っているでしょう。その病にお嬢様もかかってしまったので隔離していると言ったら見に来ないでしょう。流行り病は一番怖ろしいですからね』


 そうだ、流行り病は一番怖ろしい。病が伝染しない前に村ごと焼き放てば犠牲は村内だけで済む。


(でも、死ぬような怖ろしい病じゃなかったのに! 数日すれば治るようなものなのに!)


 そんなことを錦衣衛に伝えたとしても、果たして信じるだろうか。

 流行り病という言葉だけで過剰に反応して、村ごと全て焼き放つことは考えられることだ。新皇帝はとても残虐だという。小さな村が一つなくなったところで痛くも痒くもないだろう。取るに足らない存在だからこそ、もっと慎重にならなければいけなかった。


(あいつらは、私たちなんて虫けらのようにしか思っていない。皆殺しにすることにためらうはずもないのよ)


 足がもつれて、息が上がる。体力はもう限界をこえているはずだが、歩みを止めなかった。

 村人が残っていると知ったなら、奴らは迷うことなく斬り捨てるだろう。

 亘々ならば、『お嬢様! 来てはいけません!』と制するはずだ。

 でも、逃げるという選択肢はなかった。亘々がいない世界で、何もかもなくなってしまった中、生き延びてどうするというのか。

 天涯孤独になるくらいなら、亘々と一緒にあの火の海に放り投げられた方がましだ。


(嫌だ、嫌だ! 亘々お願い、私を一人にしないで)


 体は限界をこえて悲鳴を上げている。でも、心の痛みの方がまさっていた。

 汗だくになり、今にも倒れそうなほど消耗しきっているが、足を止めることはない。足を止めたら、もう立ち上がることはできないとわかっていたからだ。

 山をおり、燃え盛る村に立ち入る。

 村はとても静かで人の気配は一切しなかった。

 フラフラしながら亘々と住んでいたボロ平屋の前まで辿り着くと、一気に力が抜けて膝から崩れ落ちた。

 平屋は燃えていた。大きな炎に包まれて黒くなった建物が見えるだけだった。


「あ……あっ……あ」


 大粒の涙が溢れだす。これまで堪えてきたものが崩壊するように溢れだした。

 声にならない嗚咽を吐きだし、地面に座り込みながら燃え盛る炎を見つめていた。

 この炎の中に亘々がいる。間に合わなかった。

 悔しさも悲しみも超越した無力感に包まれる。

 ただ、ひっそりと生きていただけなのに。なにも悪いことなんてしていないのに。

 押し寄せる絶望に、心も体も悲鳴をあげる。


「どうしてよ! 私たちがなにをしたっていうの! 返してよ、亘々を返して!」


 腹の奥から声を張り上げた。新皇帝が憎い。

 妃探しさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。


 新皇帝が、憎い……。

 全てを私から奪った。もう私にはなにもないのに、それでもまだ奪い続ける。

 新皇帝が、憎い。


「そこにいるのは誰だ」


 威圧的な低い声が後ろから投げかけられた。

 錦衣衛に見つかった。殺される。

 分かっていても、もう逃げる体力も気力も残っていなかった。

 覚悟を決めて、ゆっくりと振り返る。


 漆黒の甲冑に身を包んだ男は、背が高く引き締まった体をしていた。

 流れるような黒髪に、精巧な金細工のような整った顔立ち。溢れ出る気品と冷酷な雰囲気は見る者を圧倒する貫禄がある。

 錦衣衛にしては猛々しく、しっかりと体を鍛えているのが一目でわかるので、もしかしたら禁軍所属の武官かもしれない。


 この世の全てを憎み、絶望し、呪うような目で、声をかけてきた人物を睨みつける。

 男は、私を見ると固まったように動かなくなった。驚きが顔に出ている。

 殺すなら、さっさと殺してほしい。


瞳から一粒の涙が零れ落ちる。この涙は恐怖でも、悲しみでもない。ひたすら悔しかった。どれほど恨んでも足りないほどだ。

新皇帝が、憎い。

 男は二、三度瞬きをすると、我に返ったようにゆっくりと歩み寄ってきた。

逃げるなら今しかない。

 逃げる気力も体力も残っていないと思っていたが、迫りくる死を前にしたら不思議と力がみなぎってくる。

 駆け出して山に逃げ込めば勝機はあるかもしれない。


でも、その後は?


 奇跡的に逃げることができたとしても、そこからどうやって生きていくのか。ここで潔く斬られた方がましだと頭ではわかっているのに、死の恐怖が、とにかく逃げろと言ってくる。

 立ち上がり、駆け出そうとすると、それを察した男にあっという間に拘束された。

 まるで抱きしめられるように体を掴まれる。


「ひっ……」


 死の恐怖で体が固くなる。

 小さく悲鳴をあげると、男はさらに強く抱きしめてきた。


「会い……たかった……」


 私の首筋に顔を埋め、絞り出すような声で男は言った。


(会いたかった?)


 誰かと勘違いしているのだろうか。男の声は聞いたことがない低い音だし、禁軍の武官は父しか知らない。

 男は私の体を反転させて向かい合わせると、目を細めて私の顔を見つめた。そして、私の頬を壊れやすい装飾品を触るようにそっとふれる。


「やっと見つけた……俺の花嫁」


 男は慈しむような瞳で、とても優しい声で囁いた。

 その瞬間、ある人を思い出した。


「まさか……」


 声が震える。聞いたことがないと思っていた男の声は、優しさを含んだ甘い声になると、聞き慣れた愛しい人の声と重なった。

 筋肉質で引き締まった体に高い背丈で、雰囲気がまったく異なっているけれど、整った秀麗な面立ちは見覚えがある。

 八年が経ち、驚くほど変わった彼に気がつかなかった。


「雲朔……?」


 戸惑いながら尋ねると、男は顔をくしゃっとさせて優しい笑顔を向けた。


「そうだよ、華蓮。ずっと会いたかった」


「嘘……本当に? 本当に雲朔なの?」


 雲朔の顔を撫でまわして、本当に実態があるのか確認する。

 彼に触れた指先が震えていた。涙が溢れてきて、全身が喜びに震えている。

怖いとか憎いとか、そういう気持ちは吹っ飛んでしまった。代わりに胸を締めつけるような愛おしさが込み上げる。


「幽霊じゃないわよね?」


「死んでないよ」


 雲朔の困ったような笑い顔を見て、間違いなく雲朔だと思った。

 雲朔はいつもこうして私を受け入れてくれた。


「雲朔! 雲朔!」


 何度も名を呼びながら雲朔に抱きつく。

 もう二度と会えないと思っていた。死んだものと思っていた。


 会いたかった。ずっと、寂しかった。


 胸が締め付けられて苦しいけれど、喜びの涙がとめどなく溢れてくる。

抱きしめた腕に力を込めると、雲朔も全てを受け入れるように抱きしめ返した。

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