第2話 初恋の約束

(あの頃は、お父様がいて、亘々もいて、なにより雲朔うんさくがいつも側にいた。幸せだった……。もしかしたら、幸せすぎたのかもしれない。だから神様は、私から大切なものを一度に奪っていったのかしら)


 八年前の記憶は、私にとって玉石のように輝く思い出と共に、凄惨な喪失感にさいなまれる心の傷でもあった。



 ―― 八年前。

大栄漢だいえいかん国。血みどろの戦にまみれた時代は終結し、帝国の政治は安定して、繁栄の治世となった。

 それまでは血筋に関係なく強き者が皇帝となり、数十年で国の長が変わっていたが、大栄漢国を築いたえん家が三世代にわたって王位を継承している。


 董家の一人娘であった私は、たった四歳で後宮の九嬪きゅうひんである昭媛しょうえんの位を賜った。つまり、四歳にして嫁入りしたのである。

 時の皇帝は幼児愛好家かといぶかれるかと思うが、鴛家は一夫一婦制の鴛鴦を祖とするので、皇后としか夜を共にしない。しかし後宮制度は政治的に多大な利権があるので、妃嬪ひひんの数は最小にして運営していた。


 後宮妃となっても帝からお手付きがなければ下賜かしされ、別の者と結婚することは一般的であったし、皇帝には遵従じゅんじゅうの意思を示せ、後宮妃という身分を賜ることは箔付けにもなった。鴛帝が一夫一婦制というのは国中の者が知っているので、婚姻に差し障ることはない。


 私の父は、禁軍大将軍だった。私が後宮妃となったいきさつは、父が皇帝から絶大なる信頼を置く重臣であったということと、幼くして母が亡くなったことが影響していた。

 後宮妃になれば女官から世話をしてもらえるし、豪華な衣装を着て美味しいものを食べられる。普通の後宮とは違って妙齢の女性ではなく、幼女や少女が集まっていたので、高度な教育を受けることもできた。


 亘々は孤児となり女衒ぜげんに売られそうになっているところを私の父が助け、私と共に女官として後宮入りした。

 董家に多大な恩があると思っている亘々は、私を実の妹のように可愛がり生涯尽くすと決めている義理堅い人物である。

 四歳で後宮妃となった私だが、亘々もいるし、宮廷には父もいるので寂しくはなかった。後宮は基本的には男子禁制なのだが、皇帝は後宮妃には手を出さないのでそのしきたりも緩かった。禁軍大将である父は、自由に出入りできるとはいえないけれど、宦官の付き添いがあれば私に会うこともできた。そんなわけで、至れり尽くせりの環境で伸び伸びと私は育っていったのである。


 ……というか、伸び伸びと育ちすぎた。


「董昭媛、いけません、今すぐ降りてください!」


女官たち数名が、太湖石たいこいしで造られた築山を見上げて叫んでいる。董昭媛とは私のことで、後宮妃は姓に階級をつけて呼ぶ習わしがある。

 こういう時、いつも助けてくれるのは亘々なのだが、あいにく亘々は用事があって側にはいない。もちろん私はそれを分かって太湖石に登っている。亘々がいれば登る前に阻止されていただろう。


「嫌よ、せっかく登ったんですもの。この素晴らしい光景を目に焼きつけなくちゃ」


 私は誇らしげに言い放った。お察しの通り、八歳になった私は厄介なお転婆てんば娘だった。自由奔放といえば聞こえはいいが、世話をする女官たちから見ればただの我儘娘である。気苦労は絶えない。

 女官たちは困り果て、誰が太湖石に登って私を引きずりおろすか目配せをしながら様子をうかがっている。当然ながら、誰もこんな危険な岩に登りたくはない。

 そんな中、救世主が現れた。


「華蓮、下りておいで」


 太湖石を見上げながら、穏やかな声を投げる人物。いつの間に現れたのか、女官たちは驚いて慌てて拱手の礼をする。


「雲朔……」


 私は雲朔を見下ろし、決まりが悪いなと思いながらも素直に従って下りてきた。無事に地面に足がつくと、しずしずと雲朔に近寄った。


「太湖石に登ったのはこれが初めてなのよ。本当よ」


「うん、でも、危ないから登っちゃ駄目だよ。可愛い顔に傷がついたらどうするの?」


途端に私の頬は真っ赤になる。雲朔は私と背丈はあまり変わらないけれど、涼やかに整った容姿端麗な面立ちに、溢れ出る気品と風格。私より二歳上だけど、おとなびた雰囲気と口調のせいでもっと年上に見える。

 雲朔は、裾長の禅衣ぜんいに、足首まで届く黒絹の深衣を羽織っている。総角あげまきを留めた銀のこうがいは、精緻な細工の見るからに高級なものだ。


(はああ、今日も素敵)


 私はお転婆だけれど、おませでもあったので、雲朔は初恋の相手だった。

 後宮になぜ男がいるのか。理由は雲朔が皇子だからだ。末っ子で第五皇子なので、皇位継承権は低いけれど、兄たちより抜群に頭が良かった。皇子なので科挙は受けないが、一発合格するであろうほどの実力は備えているらしい。

 ただ、生まれつき体が弱かったので、勉学よりも武技を重んじる大栄漢国の中では、さほど目立つ立場にはいないと本人が言っていた。しかし、私は頭が良く穏やかで優しい雲朔が大好きだった。


「どうして雲朔は私がはしたないことをやっている場面に来るのかしら。いつもはもっと妃らしく上品に過ごしているのよ?」


 私の言葉を聞いた女官たちが一様に「嘘つけ」と顔に出していた。


「僕は元気な華蓮は素敵だと思うよ」


「本当⁉ 実はね、太湖石に登ったのは初めてだけれど、昨日は木に登って亘々にこってり怒られたの!」


 私は自慢気に武勇伝を語った。


「……うん、元気なのはいいことなんだけど、怪我には気をつけてね」


「もちろんっ!」


 本当に分かっているのだろうかという目で雲朔は私のことを見ていたけれど、満面の笑みを惜しげもなく披露する私を前に、強く言えなくなってしまったらしい。

 雲朔は体が弱いので私のように走り回ったりはできない。いつも大人たちに怒られながらも楽しそうに笑い、後宮を駆けまわっている私を、雲朔はいつも優しい微笑みで見守ってくれている。


「ねえ雲朔、今日はなにをしていたの?」


 私はちゃっかり雲朔の腕に手をからめ、女官たちから離れるように歩き出した。

 二人きりになりたいのだろうと思って、女官たちも追いかけることはしない。雲朔がいれば私はいい子にすることは知っていたし、やんちゃ娘のお守りをしてくれるのはありがたいのだろう。


 兄と妹のように親しい関係だったけれど、私は雲朔のことをしっかり男として見ていたし、恋愛感情も持っていた。雲朔の前では、背伸びして女性のように振る舞おうとしているけれど、なにぶんまだ根が幼くて、兄を慕う妹のようにしか見えない。

 雲朔は無邪気に好意を向ける私のことを妹のように可愛がって、なにかと気にかけてくれていた。でも、私が向ける好意が、恋愛感情であるとは気がついているとは思えない。


 私と雲朔は、皇宮園内にある四阿あずまやにしつらえられた長椅子に並んで腰をおろした。雪は降っていないとはいっても、何もしないで座ったままでいるのは辛い。互いの熱を補うかのようにぴったりとくっついていた。


「今日は、面白いものを見つけたんだ」


 雲朔の目が好奇心で満ち、悪戯を思いついた少年のように輝いていた。

 こんな表情をするのは珍しい。雲朔はいつも穏やかで、悟りの開いた老衰者のように感情の起伏が平坦だった。


(ああ、でも、こんな楽しそうな表情をする雲朔も素敵……)


 私は雲朔の整った横顔を見つめながらため息をはいた。

 瞳は切れ長で艶めいていて、肌は白磁のように滑らかだ。人形のように美しいのに、男の色気をすでに漂わせている。数年後、今よりも背が伸び、ほどよく筋肉がついたら世の女性たちが黙っていないだろう。


(そうなる前になんとしてでも、雲朔の特別な女性にならなくちゃ!)


 私は静かに決意した。


「書庫でね、細長い帛書はくしょの巻物を見つけたんだ。なんだったと思う?」


「雲朔がそれほど興奮するものですものね。虫の図録ずろくとか?」


「うん、まあ、それも見つけたら嬉しいけど、もっと凄いものだよ。宮城の見取り図だ」


 目を輝かせる雲朔に悪いとは思いつつも、なんだそんなものかと私は思った。なにがそこまで凄いのかまったくわからない。


「雲朔は地図が好きなの?」


「好きとか嫌いとかじゃなくて、見取り図さえ頭に入れておけば、暗渠あんきょの場所も秘密通路も把握できる。なにかあった時の凄い武器になるんだ」


 私はなにかってなにがあるのだろうと思った。大栄漢国は平和で、後宮生活に不便はない。でも、秘密通路という言葉は冒険心をくすぐる。


「秘密通路は楽しそう! 今度こっそり入ってみましょうよ」


「秘密通路は皇帝の私室に繋がるものだから、悪戯で使うのはよくないよ。皇子である僕でさえ気づかれたら厳しく処罰されると思う」


「なんだ、つまらない」


 私は頬を膨らませて背もたれに寄りかかった。


「最近、外廷では不審死が増えているからね。僕はなんだか嫌な予感がするんだ」


「大丈夫よ、大家ターチャは名君だってお父様がおっしゃっていたもの!」


 大家とは、皇帝に対する尊称である。


「その言い方だと、皇帝より華蓮の父の方が偉いと思っているように聞こえてしまうよ」


と、雲朔は笑いながら言った。

事実、ほとんど会ったことのない皇帝より、禁軍大将である父の方を敬慕けいぼしている。ただ、皇帝は雲朔の父でもあるので、畏敬の気持ちはちゃんと持っているのだ。


「そんなことないわよ」


 慌てて否定する私を見て、雲朔は目を細めて私の頭をなでた。


「そうだね、父上がいればどんなことがあっても乗り越えられる」


 まるで、自分に言い聞かせるような言葉だった。



 ◆雲朔目線


(はあ、疲れた……)

 それから数日後。僕はすっかり疲れ果て重い足取りで歩いていた。


 なぜなら、苦手な武道の鍛錬をしてきたからである。兄たちは皇帝である父に似て、一様に武芸に秀でている。それに比べて僕は、運動全般がからきし苦手だった。

 生まれつき体が弱かったことも影響しているが、そもそも武芸全般が好きではないのだ。誰かを殺すために練習しているのかと思うと気が滅入る。


 鴛家が皇位を継承してから三世代、戦争がなかったので平和慣れしているのかもしれない。できれば誰も傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。頑張る意味を見いだせない。

 武芸の師範いわく、皇子の中で一番素質があるのは僕らしいが、誰も信じていないし、期待されてもいない。

 皇位を継承するのは第一皇子だと思われているし、第五皇子である僕は武芸よりも頭の良さが評価されていた。兄弟の中でも抜群に頭がいいので、『雲朔は武芸よりも勉強しろ』と言われて、僕もそちらの方がありがたかった。


 疲れた時は華蓮の顔でも見れば疲れも吹き飛ぶのになと思った僕は、どこかでやんちゃしていないかなと周りを見渡しながら歩いていると、なにやらこそこそと密談しているような雰囲気の二人がいた。


(あれは、宰相の盾公とんこう掖廷えきてい局の局丞きょくじょう趙文ちょうぶんじゃないか。局丞はまだしもなぜ宰相が後宮に……)


 通例では後宮は男子禁制であるが、鴛家の時代はそのしきたりは緩かった。華蓮の父も後宮に入れるように、宦官の付き添いがあれば宰相でも後宮に入れる。

 宦官の長である局丞と一緒であれば問題はなにもないのだが、宰相が後宮に来る理由が思いつかない。宰相の親戚に後宮妃はいなかったはずである。

 なんだか不穏な空気を感じてじっと見ていると、宰相が僕の存在に気がついた。

 慌てる様子もなく慇懃いんぎん揖礼ゆうれいする。あまりに堂々としているので、怪しいと感じていたのは思い過ごしかと思った。

 宰相と局丞は二人連れだって歩いていった。隠れる様子もなく堂々と後宮内を歩いているので、なにか用事があったのだなと気にしないことにした。

 僕が再び歩き出すと、手の平ほどの長さの黄金こがね色の蜥蜴とかげが足元を横ぎった。灰褐色や緑色の蜥蜴は見たことがあるが、ここまで鮮やかな黄金色の蜥蜴を見るのは初めてだ。

 なにを隠そう無類の虫好きである僕は、興奮して蜥蜴を追いかけた。 

 すると、蜥蜴は太鼓橋の欄干に登った。僕も追いつき、太鼓橋を渡ると、欄干にいた蜥蜴はなぜかボトっと欄干から落ちて小川に落下した。


「おいっ! どんくさい蜥蜴だな。大丈夫か⁉」


 蜥蜴は人間の言葉をわからないと思うが、僕は太鼓橋の上から声を上げた。


(たしか蜥蜴って泳げるよな。でも、泳げない種類もいたような……)


 不安になりながら小川を見下ろしているが、一向に川の中から上がってくる気配はない。


(おいおい、大丈夫かよ)


 僕は太鼓橋をおりて、草むらから川を見下ろす。宮廷内は掃除が行き届いているので、小川も澄んでいる。指先を入れてみるとなかなか冷たい。どうするか一瞬迷ったが、気合を入れて小川の中に顔を突っ込んだ。

 目を開けると蜥蜴が必死で上がってこようとしているが、どう見ても溺れているだけだ。


(お前、泳げない種類の方かっ!)


 本当にどんくさい蜥蜴だなと思いながらも、溺れ死にかけている蜥蜴と目が合ってしまったのだから、もう後にはひけない。分厚い深衣を脱いで川の中へ飛び込む。

 冷たいというよりも、肌を突き刺すような痛みを感じた。

小川だと思っていたので侮っていたら、意外と深い。まるで沼のようだ。蜥蜴は力尽きたのかどんどん沈んでいくので、僕も追いかけるように川の底へと沈んでいく。底の方まで辿り着き、ようやく蜥蜴を捕まえ、落とさないように衿の中に仕舞う。

 さあ、戻ろうと思ってはたと気がつく。


(僕……泳げたっけ?)


 泳いだ記憶はない。つまり、泳げない。

 これ、どうやって上がればいいんだろうと思っているうちに意識が遠のいていった。


 ◆


 女官たちの目をかいくぐり、後宮内を一人で散歩していた私は得意気に鼻歌を口ずさんでいた。


(亘々がいなければ、女官たちなんて何人いても私の敵じゃないわ。楽勝、楽勝)


 今ごろ女官たちは必死で私を探しているはずである。その様子を想像すると笑みが零れる。見つかったあと、亘々にこっぴどく叱られるのは、今は考えないことにする。

 ドボンと大きな音がして太鼓橋のある小川を見ると、水面が不自然に波打っている。


(誰かが落ちたの⁉)


 急いで現場に向かうと、川の側に子供用の深衣が乱雑に置かれていた。黒を基調とした高級な絹の素材だ。それに、禁色とされている紫糸で小さな龍の紋章が細工されている。

 つまり、これは皇子のものであることを示す。そしてこの深衣には見覚えがあった。


(雲朔……っ!)


 見覚えのある人物の顔が浮かぶと、考えるより先に私の体が動いていた。

 冷たい川に飛び込み、川底に向かって泳ぐ。やはり、底の方には雲朔がいた。目は閉じて、ゆらゆらと漂っている。

 意識のない雲朔を抱きかかえ、上がろうと試みるも、雲朔の足に水草が絡まっていて持ち上げられない。そもそも水の中で自分よりも重い雲朔を持ち上げることは、いかに運動神経の良い私でも至難の技だ。


 思いきり引っ張って水草を取ることには成功したが、そこで力を使い果たした。力が抜け、朦朧とする意識の中、雲朔にしがみついた。意地でも離さないと決めた。死んでも、死んだ後でも離さない。ずっと一緒だ……


 ◆


 なにかに掴まれた感触がして、僕はハッと目を覚ました。

 目の前には、意識を手放しながらも僕に抱きついている華蓮がいた。


(華蓮っ!)


 なんて馬鹿なことを。僕を助けようと川に飛び込んだことは明白だった。

 なくなっていた力が湧き上がってくる。

 泳げる泳げないなんて関係ない。華蓮を助けるためなら不可能でも可能にしてみせる。

 僕は華蓮をしっかり抱きしめながら、ゆっくりと浮上していった。

 川から上がり、草むらに華蓮を横にさせる。僕の衿元から、蜥蜴が出てきて逃げるように去っていったが、今はそんなことどうでもよかった。


「華蓮っ! 華蓮っ!」


 大きな声で呼びかけると、華蓮の口から水がゴボっと出てきた。

 ゲホゲホとせき込む華蓮の上半身を抱きかかえ、息がしやすいように支える。


「華蓮、大丈夫か⁉」


 目を開けた華蓮は、自分のことより僕が無事だったことに安堵したのか微笑んだ。


「雲朔、良かった……」


 だんだんと意識がはっきりしてきたようで、目に生命力が戻ってきている。


「全然良くないよ。なんて無茶するんだ」


「雲朔がいない世界なんて死んだ方がましだもの」


「なっ……」


 華蓮の言葉に僕の顔は赤くなる。


「僕にとっても華蓮はとても大切なんだ。もうこんな無茶はしないでほしい」


 僕の声が震えていた。自分が死ぬことよりも、華蓮が死んでしまうかもしれないという恐怖の方が大きかったからだ。


「……私のお願いを叶えてくれるならいいよ」


「お願い?」


 緊迫の表情をしている僕に対して、華蓮はまるで夢の中にいるような寝ぼけた顔で、穏やかな笑みを浮かべていた。


「うん。私ね、雲朔のお嫁さんになりたい」


「え?」


 なんで今? という疑問が浮かぶが、華蓮は夢心地のように呟いた。


「結婚してもお嫁さんは私だけよ。妾をつくることは許さないから」


 お願いされているはずなのに、妙に上から目線だ。

 でもそんなこと、僕には関係ない。むしろ喜びが溢れ出てくる。


「いいよ、約束だ」


「絶対よ?」


「絶対だ」


 僕はそう言って、華蓮を抱きしめた。


(誰よりも大切で、特別な愛しい人。大きくなって華蓮の気が変わっても、この約束は絶対だ。君と結婚することを望んでいたのは僕の方だから)



 ……四年前。

 僕の世界はいつも足元にあった。

 僕は常に下を向いていたし、歩く時なんかほふく前進の時もあった。

 なんでそんなことをしていたかというと、地面には【虫】がいたからだ。


「変人皇子」

 僕はそう呼ばれていた。それを知ったところで当時の僕にとっては、まったく腹が立たないほど些細なことだった。

 人間には興味なかった。というか、虫以外、僕の関心を引き寄せるものがなかった。


 僕は三歳になるまで一言も喋らなかったので、両親は僕に障碍があると疑っていた。僕を産んだ時の両親は、若いとはいえなかったし、五番目だったのもあり、仕方ないと思っていた。

 僕に知的な障碍があるかもしれないと思っても、両親はそれほど気にしていなかった。生涯僕を保護する者はたくさんいる。人生を楽しく生きてくれればそれでいいと思っていたらしい。

 僕が三歳まで喋らなかったのは、たんに話す必要性を感じていなかっただけだ。指をさせば女官の誰かが持ってきてくれるし、誰かと話したいという欲求もなかった。


 僕の関心はいつも地面にあった。

 色々な形の石、水たまり、そしてかっこいい虫たち。彼らの生体は興味深く、いつまで見ていても飽きなかった。

 そんな僕の顔を上げさせた決定的な出来事が起きた。


 華蓮が後宮入りしたのである。

 後宮の庭園に集められ、新しい妃を紹介された。

 玉石のように輝く大きな瞳に、桃のように色味を帯びた可愛らしい唇。透けるような肌の透明感と弾けるような笑顔。全身から溢れんばかりの好奇心と生命力。


(て……天女だ)


 この世のものとは思えない可愛らしさに、僕は度肝を抜かれた。天女じゃなければ、妖精か精霊か、とにかく常人離れした魅力だと思った。


「ご機嫌うるわしゅう、よろしくお願いいたします」


 拱手きょうしゅの礼をしながら、ちょっと舌足らずの声で一生懸命挨拶する華蓮。

 大人たちが形式通りの挨拶をしているのを、いつものように下を向きながら聞き流していた僕だったが、華蓮を一目見て、急に背筋を伸ばして前に進み出た。


「宜しく。僕は雲朔。わからないことがあったらなんでも僕に聞くといいよ」


 伸びきった前髪をかき分け、外面用の笑顔で挨拶する僕に、みんなが引くほど驚いたことは言うまでもない。


「誰だよ、こいつ」


 一番上の兄がぼそりと呟いたが、僕は聞こえないふりをした。


「雲朔……様?」


 華蓮が、呼び方はこれで失礼ないのかと戸惑うように言った。


「雲朔でいいよ、華蓮」


 華蓮は今日一番の弾けるような笑顔を見せた。



「いや~、お嬢様、やりましたね。玉の輿ですよ、た・ま・の・こ・し!」


 自らの殿舎の部屋で、卓子に腰掛けながら朝餉を食べていた私の目の前で、亘々が踊るようにはしゃいでいた。

 私のやんちゃのせいで、いつも怒ってばかりの亘々がこんなに機嫌がいいのには理由がある。

皇子を命懸けで守ったという功績は高く評価され、雲朔からの要望により私は正式な雲朔の婚約者となったからだ。

 一ヵ月前の亘々は、二人が川で溺れかかったと聞いて、魂魄が口から出るんじゃないかと思ったほど悪い意味で衝撃を受けたらしい。

 ちなみに冷たい川の中に入った雲朔はそれから数日間熱を出して寝込んだが、私はまったく平気だった。


「こんなお転婆娘、嫁の貰い手なんていないんじゃないかと董大将の頭痛のタネだったのに。まさか皇子をお掴まえになるとは。しかも将来有望の第五皇子。ちょうどいいところですね」


「ちょうどいいってどういうこと?」


 私は粥を茶杓で掬い、フーフーと息を吹きかけながら言った。


「次期皇帝候補だったら大変ですよ。うっかり皇后になってしまったら莫大な責任感と忙しさですからね。とてもじゃないですけど、お嬢様には務まりません」


「失礼ね、私だってやればできるんだから。それに、皇子だろうが玉の輿だろうが関係ないの。もしも雲朔が農夫でも私は結婚するわよ」


 私の言葉に亘々はあきらかに嫌そうな顔を見せた。

 顔に「げっ」という言葉が書かれている。


「まあでも、雲朔様は神童ですからね。あれだけ頭が良ければ商人になっても成功するでしょう。玉の輿ですね、た・ま・の・こ・し!」


 再び亘々は不思議な垢抜けない舞を踊った。お世辞にも上手いとはいえない。


「ねえ、それより亘々はどうしていつも私の側にいるの? 女官の仕事が忙しいのではないの?」


 私の言葉に、亘々は両腕と片足を上げた体勢で固まった。


「お嬢様が大人しくしていないからですよ! 女官の仕事なんていいんです、命には代えられないんです! 亘々、意地でもお嬢様から離れませんからね」


 亘々の目がつり上がり、怒気を帯びた声で言われた。

 やばい、余計なこと言ってしまった。


「さあ、さっさと食べて用意をしなくちゃいけませんよ。今日は春節を祝う御華園ぎょかえんの賀会の前に、紫禁城の集まりにも出席することになったんですからね。思いっきりおめかしされないと」


 豪華絢爛で広大な紫禁城は外廷にある。内廷で暮らす後宮妃たちは本来出てはいけない場所だが、宮廷行事である皇后主催の賀会に華を添える名目で、今回特別に臣下一同が皇帝の春節の挨拶に立ち会えることになったのだ。


「女人禁制の外廷に入ることができるなんて、大家と娘々にゃんにゃんは本当に器が大きい。大栄漢国は安泰ですな」


 大家は皇帝で、娘々は皇后をさす尊称だ。

 今日の亘々は機嫌がいいわね、と私は思った。

 しかしながら、亘々の機嫌が良かったのはこの時までで、それからは怒涛のように支度に急かされた。

 豪奢な上襦下裙じょうじゅかくんを身にまとい、光に当たると宝石のような粒が煌めく披帛ひはくを肩にかけ、髪は双鬟そうかんを結び、七宝胡蝶しっぽうこちょうかんざしを挿した。


「遅れる~!」


 と叫ぶ亘々の後を追いかけて、私は初めて紫禁城に足を踏み入れた。

 噂には聞いていたが、想像以上に広大だった。特に紫禁城で最大の正殿である太和殿たいわでんは、驚くほど絢爛華麗だった。

太和殿前の広場には、無数の官吏がずらりと並んでおり、それだけでも圧巻の光景だ。

後宮妃やそのお供をする女官たちは太和殿の隣の殿舎の中にいた。私たちから官吏や武官の姿は見えるけれど、彼らからは後宮妃の姿を見ることはできない。

太和殿の中には、皇帝と重臣、そして皇子たちがいた。一瞬目にしただけだけれど、雲朔がいるのを確認できた。それだけで私の心は満たされ、自然と頬が緩む。

後宮妃たちは春節のお祝いで気分が華やいでいるのが見た目からも分かった。皆が美しく着飾り、お喋りに興じている。

でも、広場にいる官吏や武官の一部は妙に緊張感が漂っていて、忙しげに辺りを見回している者たちがいることに私は気がついた。

でも、禁軍大将の私の父が笑顔だったので、すぐにそのことは忘れてしまった。


皇帝が太和殿の殿上に立たれて臣下に御顔を見せると、群臣は三跪九叩頭さんききゅうこうとうをした。

そして皇帝が下がり、太和殿の中にある玉座に座った。

するとその途端、玉座真上にある軒轅鏡けんえんきょうが落ちた。

軒轅鏡とは、龍がくわえた鉄の球だ。天命を受けていない者、つまり、皇帝に値しない者が玉座に座ると軒轅鏡が落下しその者を殺してしまうといわれている。


その、軒轅鏡が落下したのである。


一瞬の出来事だった。ドンっという地響きが聞こえ、太和殿の隣の殿舎にいた私はなにが起こったのか最初は分からなかった。


「天命だ! 逆賊たちを皆殺しにしろ!」


 紫禁城内に響き渡らせるように宰相である盾公は叫んだ。

 それを合図としてか、広場にいた臣下たちが一斉に殺し合いを始めた。

 目の前で人々が次々と死んでいく。紫禁城はまたたく間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 後宮妃たちの悲鳴が上がり、殿舎内は混乱していた。私もなにが起きているのかわからず、なにをすればいいのかもわからない。

 父の姿を探すと、急に攻撃してきた臣下たちと必死で戦っていた。


「お父様!」


 ありったけの声を出して叫ぶも、私の声は周りの悲鳴でかき消された。


「お嬢様、逃げますよ!」


 亘々は私の手を引いて、取り乱す後宮妃の中をかいくぐって出口へと急ぐ。


「でも、お父様が……」


「主君は禁軍大将です。戦争の場で逃げることはできません」


 ……戦争。これは、戦争なのね。

 血しぶきが飛び、首が刎ねられる。先ほどまで元気だった人達が無残に殺されていく。

 こんな残酷なことがあっていいのだろうか。

 目の前の出来事が現実とは思えず、涙も出ない。

 私は黙って亘々に引っ張られるまま紫禁城から抜け出した。

 後宮へと戻り、自らの殿舎へと帰りつく。


「とにかく、着替えましょう。逃げやすいかっこうを」


「逃げるってどこに? ここは安全ではないの?」


 私は不安げに問いかけた。


「わかりません。私にも、これからどうなるか……」


 細筒のを穿き、分厚い深衣には、路銀や簪などを入るだけ詰め込んだ。


「でも、どこから逃げ出すというの? 後宮が一番安全ではないの?」


 泣きそうになりながら亘々に訴える。亘々は私の目を見てはくれない。


「わかりません、どこが安全なのか。皇帝派が逆賊として殺されている中、外に出られたとしても捕まって殺される可能性があります。後宮妃たちのほとんどは皇帝と親しい家柄がほとんどですから、後宮妃たちを見逃してくれるとは思えない……」


「それって、つまり……」


「私たちは今、殺される運命にあるということです」


 怖ろしさに震えた。ほんの数刻前までは、春節のお祝いに包まれ、平和で幸せだったのに。軒轅鏡が落下した瞬間から世界が変わってしまった。


「お父様が……お父様が私たちを逆賊呼ばわりした者たちを倒してくれるわ!」


「そうですね、それを、祈るしか……」


 亘々と話していると、殿舎に向かって走ってくる足音が聞こえた。亘々が顔色を変え、懐から短剣を出す。


「華蓮っ! 華蓮はいるか!」


 息を荒げながら殿舎に入ってきたのは雲朔だった。


「雲朔っ!」


 私は雲朔に抱きついた。


「良かった、無事だったんだね」


 亘々は短剣を懐に仕舞い、「雲朔様こそ、ご無事でなによりです」と言って目と目を交わしあった。


「着替えたんだね。逃げる準備はできてる?」


「亘々が着替えろっていうから……。でも、どうやって逃げるの?」


「さすが亘々だ。あの状況をすぐに察したんだね。その通り、このままだと皆殺しにされる」


「でも、お父様がいるわ! お父様が皆を助けてくれる!」


「そうだね、今はそれに望みを託すしかない。でも、万が一ということもある。そのために、逃げるんだ、いいね」


 有無を言わせぬほどの迫力で雲朔は言った。私は頷くしかなかった。


「さあ、行くよ」


雲朔は私の手を引っ張って歩き出した。遠くから悲鳴や剣などの武器のぶつかる音がする。その点、後宮はまだ静かだった。武官も来ていないし、ここにいた方が安全に思えた。

 でも、雲朔と亘々はそう思っていないようなので、私は大人しく従った。


「どこから逃げるのですか? やはり外廷を通って?」


 亘々が雲朔に尋ねると、雲朔は首を振って否定した。


「外廷は戦場と化している。そこに行くのは危険すぎる。後宮内から外に出るんだ」


「後宮から外に出る道はありませんよ。門は閉ざされています」


「地下から出るんだ」


「地下? そんな道が?」


「道じゃないよ。暗渠だ」


 亘々はなるほど、という顔で雲朔を見た。


「あんきょ?」


 聞き慣れない言葉に、私が口を挟む。


「排水口のことだよ。工事や修復する時のために人が通れるようになっているんだ。ただ、汚いし臭いけど、生き延びるためだから我慢して」


 そして草木に隠されるようにひっそりと、ほりの石垣に暗渠の排水口はあった。重い排水口の蓋を、亘々と雲朔の二人がかりで持ち上げる。

 中は真っ暗で歩けるような道など見えない。

 雲朔は懐から小さな手燭てしょくを取り出し灯りをつけた。暗渠の中を手燭で照らすと、簡易な梯子がついていた。

 手燭を口に挟んで、雲朔はゆっくりと降りていく。最後にバシャリという音がして、無事におりられたことが分かる。


「うん、思っていた通りだ。人が通れるように足場がある。足先は水に浸かるけど歩けないことはない」


 雲朔が無事であることを確認した亘々も暗渠の中に入る。私も後に続いた。

 冷たい水の感触よりも、くさい匂いの方が嫌だった。でも今は、そんな我儘を言える状況ではない。私たちは暗い闇の中を歩き出した。


「暗渠の中は、こんなに道が分かれているとは思いませんでした。よく正確な方向が分かりますね」


 亘々が感心しながら言うと、


「水利図は頭に入っている。こんな所で役立つとはね」


 と、雲朔は事もなげに返した。

 水利図を完璧に暗記している雲朔の頭の良さに亘々は驚いていた。本当に心強い味方だ。

 どれほど歩いたのか、足の感覚がなくなり始めた頃、地下水道は運河の川面に辿り着いた。

 ようやく地上に出られたというのに、外はすでに日が落ちかけていた。


「ここまで来れば安全だ。しばらくは城外で隠れているように」


「雲朔は?」


「僕は宮廷に戻る。やらなきゃいけないことがまだ残っているんだ」


「駄目よ、そんなの! 危険すぎるわ!」


「万が一のために、華蓮が生き延びるために必要なことなんだ。それに、僕は皇子だから。僕だって男だ、ここで逃げるわけにはいかない」


 雲朔の決意は固いようで、私の説得に耳を傾けるようには思えなかった。それでも、私は引き下がらなかった。


「嫌よ、絶対に行っては駄目! 私と結婚するって約束したでしょう?」


 涙目になりながら雲朔の腕を掴み引きとめる私に、雲朔は困ったような笑顔を向けた。


「約束するよ、絶対に迎えに行くから。どこにいても、僕が華蓮を見つけるよ」


「でも……」


 雲朔は私から目を逸らし、亘々の顔を見た。


「亘々、もしも皇帝派が負けたら、なるべく遠くへ行くんだ。誰も宮廷にいた人物を知らないような田舎がいい。そこで身分を隠し生活していくんだ。僕が華蓮を迎えにいくまで。いいね、華蓮を任せたよ」


「御意」


 雲朔は私の手を取って、引き離そうとしたけれど、私は意地でも離そうとしなかった。絶対に嫌だ、こんなの、嫌だ。


「嫌よ、怖い……」


 ついに私は大粒の涙を零してしまった。必死で我慢してきたものが溢れだし止まらない。


(ここで手を離したら、二度と会えないかもしれない……)


 それは予感のようなものだった。

 雲朔が死んでしまう気がした。


「大丈夫、約束する。僕は絶対に死なない。華蓮をお嫁さんにすることを諦めたりはしない」


 そう言って、雲朔は私の額に口付けを落とした。

 驚いて涙が止まる。雲朔は優しい笑顔を向けて、私の手をそっと離した。

 そして、無言で暗渠の暗闇に再び入っていく。


「約束よ、約束だからね雲朔!」


 雲朔の背中に向かって体から絞り出すように声を上げた。雲朔の姿が闇に消えていく。


「さあ、お嬢様いきましょう。我々もまだ完全に助かったわけじゃないんですよ」


亘々は私の手を取り、足早に歩き出した。


 ◆


僕は長く続く暗渠の暗闇の道を戻りながら、冷静に戦況を考えていた。


(おそらく、皇帝派は負けるだろう。この戦争は仕組まれたものだ。最近の宰相の動きは怪しかった。なんらかの仕掛けを軒轅鏡にほどこし落下させ、父上を殺した。綿密に計画されていたのなら、なんの対策もせず奇襲をくらった皇帝派が勝てるわけがない)


 僕の息が上がる。元々体が弱く、無理はきかない。体力はもう限界だった。


(僕は、負けた後のことを考えなければいけない。宰相は皇帝派を根絶やしにするだろう。皇帝の信頼が厚い禁軍大将の娘が生き残っていると知ったら、草の根をかきわけても探し出し処刑するに違いない。それに、皇帝は天命により亡くなったとする筋書きにするならば、次期皇帝は、血筋関係ない宰相がなるはずだ。あんな奴に皇位を継がせてなるものか)


 胸の奥から湧き上がる憎悪に突き動かされ、僕は歩いていた。

 父を殺され、そしておそらく母も、兄弟も殺されているだろう。

 武力も体力もない非力な自分になにができるのか。僕は必死に頭を巡らせた。


(絶対に許さない……。盾公、お前の好きにはさせない)


 僕の目は血走り、赤く充血していた。

 ようやく元来た道を歩き終え、梯子を使って後宮内に這い上がる。

 外はもう夜だった。暗渠から出られたのに暗闇で、まるで暗渠がまだ続いているようだった。


(むしろ、地獄はこれからかもしれない)


 疲れはとっくに限界を越し、僕の体は熱を帯びていた。でも、休むわけにはいかないし、ここで倒れるわけにもいかない。気力だけで僕は動いていた。

 後宮内は静まり返っていた。しかし、誰もいないわけではない。

 後宮妃や女官など、たくさんの女性がいた。ただ、彼女たちが動いていないだけだ。

 無残に殺された遺体がそこかしこに転がっている。

 静まり返っていたのは、惨殺を終えたからだった。


(殺された妃の末路は悲惨だ。死した後、劉辱りゅうじょくされることもあるし、柔らかい肌は、人肉として食されたりもすると歴史書で読んだことがある)


 若い命を理不尽に絶たれ、死んでもなおはずかしめを受ける……。

 恐怖の顔を浮かべながら血を流す彼女たちを見ながら、僕は歩み続ける。


(せめて、名誉ある死を……)


 僕は宿舎に火を放っていった。片っ端から火をつけて、後宮内を火の海にしていく。

 後宮内に火を放ったのは、彼女たちの死後、辱めを受けないためだけではない。

 一番大きな理由は、死体が誰かをわからなくするためだ。

 華蓮の死体がなければ、盾公が怪しむだろう。どんな手を使っても探し出すに違いない。あの男には、そういう執念深いところがある。

 後宮内を焼き尽くした僕は、以前見つけた宮城の見取り図に書かれてあった秘密通路に入った。

 外廷も静かだった。つまりはもう、戦は終わったのだ。みんな殺された。

 皇帝の居室へと続く秘密通路は鉄で覆われている立派なものだった。広さも二、三人が横に並んで歩けるほどだ。網目のように分かれ道があり、間違えた道にいくと行き止まりになる。まるで迷路のような通路を、一度も間違えずに目的地へと急ぐ。

 目の前に大きな扉が現れた。ようやく目的地に着いたのである。

 しかしながら、扉の鍵穴が目に入り、僕は落胆した。


(ここまで来たのに……)


 一縷の望みをかけ、扉に手をかける。すると扉が鈍い音と共に開いた。


(よし、天は味方してくれている!)


 音を立てないようにして中に入ると、そこは皇帝の私室だった。

 豪奢な部屋は広く、高級な調度品が飾られている。何度か入ったことがあったが、この扉が秘密通路に繋がっているとは思いもしなかった。

 大きく息を吐き、心を落ち着かせてから目的の物を探す。


(おそらく、あるとしたらここだ)


 黒檜の執務机の引き出しを開ける。思った通り、そこには目的の品物があった。


 ……玉璽ぎょくじだ。


 鴛家が皇位に就くより前から代々継承されてきた唯一無二の皇帝の印。

 四角い判の上には、龍の像がついている。手に持つとどっしりと重く、歴史を感じさせた。

 僕は玉璽を布袋に入れ、懐に仕舞った。


(今度こそ逃げるぞ)


 辺りを見渡し、亡き父の私室だった思い出の場所に別れを告げる。

 突然、目の前で亡くなった父。

 大きな軒轅鏡が落ちた床からは大量の血が流れだしていた。

 息子たちには厳しかったが、偉大で賢帝だった父。さぞかし無念だっただろうと思うと、目に熱いものが込み上げてきた。

 懐にしまった玉璽に手をかけ、僕は誓った。


(再び、ここに戻ってきます)


 その時だった。数人が走ってくる音が聞こえ、僕は慌てて秘密通路の扉を開けて暗闇に紛れ込んだ。

 真っ暗闇の中で、自身の鼓動が耳に届くほど一気に緊張感が増した。


(誰だ、まさか、玉璽を取りに?)


 僕が耳を澄ますと、聞いたことのある声が怒鳴っていた。


「探せ! 必ず見つけだせ! 雲朔の遺体を持ってこなければお前たちの命はないぞ!」


(僕を探している……!)


 声の主は宰相の盾公だった。

玉璽ではなく僕を探しているのは、考えてみれば必然だった。玉璽が必要となるのは、盾公が皇帝になってから。それまでは玉璽のことなんて考えもしないだろう。皇位に就くために重要なことは山ほどある。

しかし、ついに皇帝となった時、玉璽の重要性を思い知るのだ。玉璽がなくても皇帝にはなれる。だが、歴代から続く由緒正しき玉璽を失った皇帝は、民たちからの信頼が薄まる。皇帝を決めるのは天命であるという考えが根付くこの国で、玉璽の存在というのはそれほど大きい。

軒轅鏡を故意に落とし、これが天命であると声高に言い放ち、敵となりそうな勢力を皆殺しにしようとしている盾公。

天からの授けものであると考えられている玉璽を失い、慌てふためく様子を想像して溜飲を下げる。


「どこにもいません!」


 半泣きの声を上げる盾公の臣下たち。


「いないはずがないだろう! 秘密通路は⁉ もう一度隈なく探せ!」


(しまった、盾公は秘密通路の場所を知っていたんだ。だからさっき鍵が開いていたのか!)


 僕はすばやく秘密通路の分かれ道に走った。そしてわざと間違えた道を選ぶ。

 彼らは一度秘密通路内を探索している。探すなら正しい道を選ぶだろうと思った。

 僕の読みは当たり、僕を見つけ出さねば自分たちの命はない臣下たちは真っ青になって秘密通路を駆け抜けていった。

 さあ、どうするか、僕は必死に考えた。


(どうやって秘密通路から抜け出す? 多くの臣下が通路内を探している中、それらの目をかいくぐって抜け出すことは不可能に近い。それに、出口を見張られたら終わりだ。どうする? どうすれば……)


 考えれば考えるほど絶望的に思えた。


(生き延びなくちゃいけないのに。華蓮を迎えにいくって約束したのに……)


 打つ手がない。ほとんど勝機はないが、一か八かやってみるしかない。覚悟を決めて歩き出そうとするが、足が震えて動かなかった。


(動いたら、殺される)


 僕の冷静沈着な脳は、一か八かの判断を拒否していた。それでも、動かなくてはいけない。ここにいたとしても遅かれ早かれ殺される。

 足を踏み出そうとした時、地面に金色の蜥蜴がいることに気がついた。


(お前、あの時の……)


 小川に落ちて溺れ死にしかけているところを僕が助けた蜥蜴だ。まあ、僕も死にかけたけれど。

 蜥蜴は僕をじっと見つめ、そしてこっちに来いと言いたげに歩き出した。


(道案内してくれるのか?)


 この不思議な蜥蜴に賭けてみようと思った。足の震えは止まっていた。

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