第4話 二度目の輿入り

「ちょ、ちょっと雲朔、おろして! 私、歩けるから!」


 雲朔は私をお姫様抱っこして運んでいた。先に村を後にしていた禁軍の武官たちの元へ向かうためだ。

 二人きりならいざしらず、多くの人々の前でお姫様抱っこされている姿を晒すのは恥ずかしく、先ほどから私は抗議の声を上げているのに、雲朔は一向におろそうとしない。

 禁軍の武官の一人かと思っていたが、なんと新皇帝は雲朔だった。

 皇帝自ら、錦衣衛や禁軍の一部を引き連れて、たった一人の女性を探していた。こんな辺境な田舎にまで赴き、最愛の女性を見つけ出すために長い月日をかけて歩き回っていたのだという。

 そんなことに巻き込まれた武官たちは、ようやく探し人が見つかり都に帰れることになって喜びで溢れたらしい。


「本当に存在していたぞ」


「簡素な身なりながら美しい」


「そりゃ陛下の最愛人だぞ、美人に決まっている」


 好奇な目に晒され、色々な声が聞こえてくるので、お姫様抱っこされながら両手で顔を覆った。顔だけじゃなく耳も塞ぎたい。恥ずかしすぎる。

 村を焼いたのは、私の読み通り、流行り病のためだった。しかしながら、村人全員が殺されたと思っていたのは勘違いで、「こんな不衛生な環境では病が広がっても仕方がない」という皇帝の判断で村人全員を近隣の街に避難させていたのだ。

 もちろん、その中には亘々が含まれる。亘々の無事が分かった私は、心の底から安堵した。そして、心置きなく雲朔との再会を喜んだのだった。


「ここにも華蓮はいなくて、別の村に探しにいこうと諦めたけど、なんだか胸騒ぎして戻ったんだ。良かった、見つけられて」


 そう言って雲朔は微笑んだ。

 武官たちの中でどよめきが起こる。


「笑った、笑ったぞ、感情を一切表に出さないあの陛下が」


「俺は口の端すら動いているとこを見たことがないぞ」


 とんでもない言われようだ。どうやら雲朔の笑顔はとても貴重なものらしい。

 しかし、すぐに笑顔は消えて、私が聞いたこともないような迫力のある声で雲朔は武官たちに命令した。


「聞け、皆の者! この女性は私の大切な人であるゆえ、無礼は許さんぞ。私以上に丁重に扱え。もしも彼女になにかあったら、命はないと思え!」


 雲朔の言葉に、武官たちが一斉に地面に頭をつけた。

 あまりの雲朔の変貌ぶりに、私の顔が固まる。


(……この人は、誰?)


 声も姿も変わったとはいえ、雲朔の面影は確かにある。雲朔であることに間違いはないのだが、私の知っている雲朔ではない。

 昔の雲朔は、誰に対しても礼儀正しく、温厚で体が弱かった。異常な虫好きという変わった一面もある男の子だ。

 対して、今の雲朔は屈強な体に高い背丈。威圧的な雰囲気と溢れ出る自信を放っている。まるで正反対に成長した雲朔に、戸惑いを感じないはずがない。


(あの雲朔が皇帝に。剣を持つことすら嫌がっていたのに。雲朔が、冷酷非道で大量虐殺をした新皇帝? 虫一匹殺せないような男の子だったのに……)


 この八年で雲朔の身になにがあったのか。

 目の前の人物が雲朔だといわれても、妙な違和感を覚えるのだった。まるで、初めて会う人物のような……。

 


 数日をかけて雲朔と共に都に帰った。私は輿に乗せられ、恐縮するくらい丁寧に扱われた。私に気軽に話しかける者はいないし、私が話しかけると地面にひれ伏して答えるのだから、私から話しかけることはできない。

 唯一話せるのは雲朔のみなのだが、雲朔も昔のように気さくな雰囲気はなく、気おくれしてしまうのだった。

 もちろん雲朔は私に対して優しい。優しすぎるくらい優しい。でも、ずっと違和感が拭えないのだった。


 八年ぶりの宮廷は、全てが様変わりしていた。記憶にある宮廷は、もっとはつらつとしていて、活気に満ちていた。

 先の皇帝の座を奪った戦で多くの官民が死んだので、ひっそりとしている。八年前は、武官よりも文官が多かったのだが、今はほとんどが武官なのだという。

 後宮には妃どころか女官すらいない。


(簒奪帝の臣下や後宮妃を宮殿に閉じ込めて皆殺しにしたという噂は本当だったのね。あの雲朔がそんな残酷なことを……)


 あの温厚で優しかった雲朔がそんなことをするなんて想像もつかない。

 でも、今の雲朔であれば、しそうな気がした。それほど今の雲朔は皆に恐れられているし、圧倒的な威圧感を放っている。


 私一人だけのために大きな宮殿が用意されていた。紅閨宮こうけいぐうというらしい。

 中庭には薔薇や牡丹など様々な美しい植物が咲いていた。

 落ち着いた朱色の外観に金の飾りや調度品が飾られていて、見るからに豪奢な建物だが、上品で洗練されているのはさすがだ。


 内廊下を歩き、たくさんの部屋を通って最後に案内されたのは、翠帳紅閨すいちょうこうけいの最上級の寝室だ。金襴杢目きんらんもくめで彩られた壁や柱に、かわせみの緑の美しい羽で飾ったたれぎぬと、紅く塗られ飾られた寝台。

 宮廷はひっそりとしているのに、私の住まいだけが妙に華やかだった。

 私付きの女官が十人以上いて、たった一人のためにそんなにいてもやることがないだろうと思う。


「どう? 気に入った?」


 驚き戸惑っている私の横で、雲朔は腕を組んで微笑んだ。


「私、女官は亘々だけで十分よ」


 亘々は隔離先の街から呼び寄せて、急ぎ宮廷に向かっているという。


 亘々が今の言葉を聞いたら、「こんな広い宮殿、どうやって一人で掃除するっていうんですか!」と怒りそうだ。


 本音をいうならば、こんなに豪華で広い室も持て余してしまう。ボロ小屋に住んでいた期間が長いため、贅沢に慣れない。


「華蓮には、最高の環境を用意してあげたいんだ。長いこと不遇の時を過ごさせてしまったから。待たせてごめんね」


「そんなこと……。約束通り、迎えに来てくれてありがとう」


「当然だ。華蓮のためなら国をも奪う」


 微笑んではいるけれど、鋭い目付きが、そのために何人も殺してきたのを物語っていた。

 自分のためにどれほどの人間が殺されたのか。

 想像するだけでぞっとしてしまって、素直に喜べない。


「妃は華蓮だけだから、後宮内全てが華蓮のものだよ」


「妃は私だけ? どうして?」


 私の問いに、雲朔の顔が曇った。


「妾をつくることは許さないと言ったのは華蓮だろう?」


「それは……」


 言いかけて、私は口を噤んだ。

 あの時は、雲朔が皇帝になるなんて思いもしなかった。とはいえ、今の雲朔に物申す勇気もなく、ただ黙って受け入れた。


(どうしよう、雲朔が怖い……)


 ようやく再会できたのに。生きていてくれただけで嬉しいのに。

 雲朔のことを怖いと感じる日が来るなんて思いもしなかった。

 雲朔は変わらず私のことを大事にしてくれている。むしろ、やりすぎだと思うくらいに。

 それなのに、どうして素直に喜ぶことができないのだろう。

 雲朔の隣にいることが、ひどく居心地が悪い。

 

 雲朔は宮廷に戻り、私は後宮に残された。女官たちがたくさんいるし、身の回りのことは全てやってくれる。至れり尽くせりの環境であるにも関わらず、私は孤独を感じていた。

この気持ちをどう表現したらいいのだろう。

 亘々が来れば変わるだろうか。

 亘々は、あの雲朔が残虐な新皇帝だったと知ってどう思っただろうか。

 雲朔が怖いと言ったら、なんというだろうか。


 浴室に案内されると、幻想的な光が室内から零れていた。浴室の壁は、陶製の連枝灯れんしとうが飾ってあり、そこから明るい光が放たれている。そして、青銅製の大きな浴槽には、女官たちがせっせと運んでくれたお湯がたっぷりと入っていた。

 ちょうど良いお湯加減になっているお風呂に浸かると、優しい香草の匂いがした。お湯は滑らかでとても気持ちがいい。

 ある女官は湯船に浸かっている私の髪を丁寧に洗い、また別の女官は爪を磨いていた。たくさんの女官に囲まれながらお風呂に入るのは慣れないが、女官たちの腕がいいのでだんだん気持ちよくなってきて力が抜けていく。

 お風呂を出たあとは、女官たちが一斉に支度に取りかかった。上等な上襦下裙を身に纏い、髪を丁寧にとかし、二重のまげを結い上げてくれた。煌びやかな髪飾りを何本も差し、化粧をほどこされる。


「光り輝くようなお美しさでございます。元々のお生まれのせいでしょうか、着せられたかんじは一切せず見事に着こなしていらっしゃいます」


 女官たちはうっとりと言った。褒められることは素直に嬉しいけれど、頭につけた簪も豪華な衣装も重たくって仕方ない。村にいた頃は綺麗な服が懐かしくて恋しかったけれど、実際に着てみると窮屈だったことを思い出した。

 どこからどう見ても、文句のつけようがない美しい妃だ、と女官たちが思っているのが伝わってくる。


(私が皇妃だなんて。そんなの、おかしい)


 自分が皇妃の器にないことは十分すぎるほどわかっている。

 でも、雲朔は皇帝で、お嫁さんになりたいと頼んだのは他でもない自分である。


(まさか皇帝になるなんて……)


 日が暮れて、夜になった。

 寝衣に着替えて、寝る準備をしていると、急に後宮内が慌ただしくなった。


「娘々、急ぎこちらに着替えてください」


 渡されたのは、豪奢な衣。きらきらと輝き、天女のように華やかだ。率直にいって、こんな衣で寝たら肌に細工が当たって寝づらいと思う。


「え……どうして?」


「大家がいらっしゃいます」


「雲朔が? どうして?」


 聞かれた女官は困ったような顔をして返事をしなかった。

 私だって、すでに十六歳。子供の時ならいざ知らず、夜の訪れがなにを意味しているのかは想像がつく。

 けれど、まだ正式に婚姻したわけではない。まさか雲朔が夜に訪れに来るとは思わなかった。


(どうしよう、まだ心の準備が……)


 拒むわけにはいかない。

 なにせ、私は雲朔のお嫁さんになるのだ。

 それを八年前懇願したのは私だ。そして雲朔は約束を守った。


(でも……)


 雲朔は八年前の優しい男の子ではない。

 何万人も惨殺し、皇帝とのぼりつめた男である。


(どうしよう亘々、怖い。どうしたらいいの?)


 一番側にいてほしい人物がいない。助言をもらうこともできない。

 言われるがままに、豪奢な衣に着替えて雲朔を待つ。

 心の準備をする暇もなく、雲朔は訪れた。

 雲朔が室に入ると、女官たちは出て行った。二人きりとなってしまって、不安と緊張で胸がいっぱいだ。


「ごめんね、華蓮。遅くなってしまって」


 雲朔は最初から訪れるつもりだったらしい。

 私は顔を強張らせたまま、曖昧に頷くだけだった。


「どうしたの? 顔色が良くない。女官たちになにか粗相そそうがあった?」


 雲朔の顔が険しくなった。途端に変わった雰囲気に、背筋が凍る。


「とんでもない! みんなとても良くしてくれるわ!」


 私は慌てて否定した。ここでしっかり否定しなければ、彼女たちの命が危ない。


「そうか、それなら良かった。じゃあ、どうしてそんなに浮かない顔をしているの?」


「それは……」


 言えるわけがない。あなたが怖いなどと。約束を守り、見つけ出してくれた恩人に向かって、そんな失礼なこと。

 再会した時は、感動で胸がいっぱいになった。雲朔に抱きしめられて幸せだった。

 でも、何万人もの命を無慈悲に奪った人物だと思うと、心が拒絶してしまうのだ。

 私が泣きそうになって俯くと、雲朔はにこやかに笑った。


「わかった、緊張しているんだね。大丈夫だよ、正式な婚姻の儀が終わるまでなにもしないよ」


 ほっとして顔を上げる。雲朔と目が合ったとき、こんなにあからさまな態度だと、怖がっていたことが気付かれるんじゃないかと思って、慌ててまた顔を伏せた。


「可愛いな、華蓮は。俺になにかされるとでも思った?」


 雲朔は近付いて、私の顔を覗き込んだ。


「そ、れは……」


「大丈夫だよ、華蓮の嫌がることはなにもしない。俺は華蓮を幸せにするためにここにいるんだ」


 雲朔は優しい。それは変わらない。それなのに、どうして怖いと思ってしまうんだろう。

 雲朔は、私の額に軽く口付けした。

 あの日のことを思い出す。全てが変わってしまった、あの悪夢のような一日を。

 あの時、雲朔がしてくれた額の口付けは、私の胸をドキドキさせた。涙も一発で止まるほど、嬉しい出来事だった。

 それなのに、今の私の心はまったく動かない。ドキドキもしないし、嬉しいという感情も湧き上がらない。

 幸か不幸か、雲朔はそんな私に気がつかなかった。

 優しい笑顔を向けて、昔のように私の頭をなでた。


「もう行くね。ゆっくり休んで」


 そう言って雲朔は帰っていった。雲朔がいなくなってほっとしたのはいうまでもない。


(どうしたらいいの、私……)


 変わってしまったのは雲朔ではなく、自分なのか……。

 以前のようなときめきを雲朔に感じなくなってしまったことに気がついた。


(どうしよう、もうすぐ結婚するのに……)


 雲朔との結婚を誰よりも望んでいたのはずなのに。夢が叶って嬉しいはずなのに。

 雲朔の後ろに、志半ばで不遇の死を遂げた者たちの怨念を感じる。

 雲朔はたくさんの人を殺した。私のために。


(幸せになっていいのだろうか)


 雲朔が帰ったあとも、心のもやもやは残り続けた。



 次の日、ようやく亘々が後宮入りした。


「亘々!」


「お嬢様!」


 私たちは駆け寄って、しっかりと抱き合った。


「亘々、良かった。無事だったのね」


「お嬢様こそご無事でなによりです。それに麗しいその姿! 高価なお召し物がよくお似合いで。妃になるためにお生まれになったのでしょうね」


「婆くさいこと言わないでよ」


 私たちは再会をいつもの雰囲気で喜びあった後、私の殿舎に亘々を案内した。


「うっっわ、なんですかこの豪華さは!」


 亘々は、絢爛豪華、朱色が目に鮮やかで美しい宮殿内の廊下を歩いた。

 一介の女官である亘々を客間に通し、上等な椅子に座って共にお茶を飲む。


「なんですか、この待遇は……」


亘々は甘い香りのするお茶をすすりながら言った。


「まあ、悪くないっすね」


 と満更でもなさそうな笑みを浮かべる。


「まさか雲朔様が新皇帝になられたとは。玉の輿どころの話じゃなかったですね」


 雲朔の話が出たので、私の顔が一瞬固まった。


「そうなの。雲朔に再会した時、私、気がつかなかった……」


「お嬢様が?」


 亘々は驚いて私を見たので、ばつが悪そうに頷いた。


「雰囲気も体格も別人のようだったわ。顔立ちは名残りがあるけれど。亘々は会った?」


「いえ、これからです。お嬢様に会ってから、外廷に来るように言われています。会えなかった間、お嬢様がどのように過ごされていたのか聞きたいそうです」


「そうなの……」


「大家はとんでもなく綺麗な顔立ちをしていると聞きましたよ」


「そうね、とても男らしくなっていたわ」


「あの一風変わった雲朔様が、盾公を討って皇帝になるなんて。新皇帝が誕生したと聞いた時、まさかそれが雲朔様だなんて頭をよぎりもしませんでしたよ」


「私もよ……」


 亘々は華蓮の顔をじっと見つめた。


「お嬢様、あんまり嬉しそうじゃないですね」


「そんなことないわ! 会えて嬉しい。生きていたことがわかっただけでも本当にありがたい。ただ……」


「ただ?」


「……少しだけ、怖いの」


 私は目を伏せて言った。こんなことを思ってしまう自分に罪悪感があった。


「雲朔様が?」


 亘々の問いに、小さく頷く。


「残虐帝と呼ばれているらしいですね。でも、きっとなにかの勘違いですよ。だって、あの雲朔様ですよ? 皇子の中でも一番お優しくて穏やかだった方です。八年の間、色々あったのでしょうけれど、根っこは変わっていないはずです」


 亘々は明るく言った。心からそう信じている様子が伝わってきて、私も少し安心した。


「そうよね。雲朔は雲朔よね」


「もしも変わってしまわれたのなら、お嬢様を探しに行きませんよ。こんな豪邸も与えられて、変わらず雲朔様に愛されるお嬢様は国一番の幸せものです」


「ふふふ、そうね、亘々の言う通りだわ」


これ以上、なにを望むというのか。父の仇である憎き盾公を討ち果たし、国を取り戻した雲朔。望んでいた以上のことをしてくれた。


(まさか、皇帝になるなんて)


 虫一匹のために命懸けで冷たい川に飛び込むような優しい少年が、国を奪い取るだなんて想像もできなかった。


(そうよ、雲朔は雲朔よ。大丈夫、根の部分は変わっていないはずだわ)



 ようやく雲朔を受け入れる心持ちがついたのに、数刻後にその気持ちが再び振り出しへと戻ってしまう出来事が起きた。


「まずいです、お嬢様。あれ誰ですか? 雲朔様が目の前で立っているだけで、怖くてちびりそうでした。めちゃくちゃ怖いじゃないですか、言っといてくださいよ!」


 私と話し終わったあと、雲朔に呼ばれていたので外廷へと行ってきた亘々は、真っ青な顔をして帰ってきた。


「言ったじゃない! 少しだけ、怖いって」


「あれのどこが少しですか! もう別人じゃないですか! ただ質問されているだけなのに拷問受けた気分ですよ」


 亘々は興奮状態で私を責めた。よっぽど怖かったらしい。

 ずっと好きだった人に再会できたのに、怖いと思ってしまう自分に罪悪感を抱えていたので、少し気分が軽くなった。

 やっぱり怖いよね、というのが本音だ。でも、亘々と賛同してしまっては、あまりに雲朔がかわいそうだと思った。


「雰囲気は怖いけど、笑顔は優しいのよ」


「笑うんですか⁉ 私と話していた時は終始鉄仮面でしたよ! しかもお嬢様が虐げられていたって伝えてから、どんどん機嫌が悪くなって……」


「そんなことまで言ったの⁉」


「言いましたよ、お嬢様のことは全て知っておきたいって雲朔様が言うから。むしろそんな大事なことを隠していたら、私の命が危ないです」


 これは喜ぶべきところなんだろうか。

 全てを知っておきたいというのは、大切に思われている証拠なんだろうけれど、なんだから怖い気もする。


「田舎で隠れていた八年間のことを伝えれば伝えるほど、雲朔様の眉間の皺が深くなっていって。眼力だけで殺されるんじゃないかと本気で思いました。地獄のような時間でした」


 亘々はその時のことを思い出したのか、両手で体を包み込むようにして、ぶるりと震えた。


「宮廷に着くまで、ずっと雲朔様と一緒だったんですよね。よく精神耐えられましたね」


 すごい言い草だ。近くに女官がいないことをいいことに、言いたい放題だ。


「私にはとても優しいのよ。でもやっぱり、二人きりだと緊張する……」


 亘々は「気持ちは痛いほどわかる」という同情の目で私を見た。

 数刻前まで、国一番の幸せ者と言われていたのに、なんだこの落差は。


「実はお嬢様に報告しないといけないことがあったのですが、ちょっとやめておこうかな」


「なによ、そこまで言っておいて言わない気?」


「でも、さらに雲朔様のことが怖くなってしまうかもしれないですし……」


「私は雲朔のお嫁さんになるのよ。私だって雲朔のことを全て知る権利はあるわ」


 亘々は「それもそうか」と独り言ちして、小さな声で告げた。


「お嬢様を虐げていた村人たち。島流しにするそうです」


「え⁉」


 私はびっくりして大きな声がでた。


「皆殺しにしないだけ寛大だと思えとおっしゃっていました。でも、島流しされたら生きていられるんですかね? 逆に残酷だなと思っちゃったんですけど」


「そんな……」


 血の気が引いていくのが自分でもわかった。

 島流しの刑。正直、村人たちにはずっと酷い目にあわされてきた。何度も泣かされたし、人間の扱いをしてもらえなかった。

 村人たちが生活できるのは、私の高価な簪や路銀のおかげなのにと恨む気持ちもあった。

 でも、だからといって、自分のせいで人が苦しむというのは、いい気持ちがするものではない。


「やっぱり雲朔は変わってしまったのかしら……」


 ぽつりと零した言葉に、亘々は返事をせず、心配そうな目で見つめた。



 その日の夜も、雲朔は会いに来た。

 夜に訪れるとはいっても、ただ私の顔を見にきてすぐに帰っていくと、亘々に教えていた。

 身支度を整えて雲朔が到着するのを待つ。

 昨日とは違う緊張感が襲ってきて、落ち着かない。そんな私の手を亘々は握りしめた。


「お嬢様、頑張って。お嬢様ならできる!」


「なにを?」


 まるで戦いに挑む前の応援のような言葉がけに、私は笑って肩の力が抜けた。


(やっぱり、亘々がいてくれると心強い。大丈夫よ、相手は雲朔ですもの)


 頬に赤みが戻ってきた。その顔色を見て、亘々は安心して部屋を下がった。

 亘々がいなくなって、入れ替わるように雲朔がやってきた。


「やあ華蓮、今日は顔色も良くなって一段と綺麗だね」


 歯の浮くような台詞を、一切の恥ずかしげもなく言い放てるのだからさすがだ。

 雲朔は、漆黒の室内着で肩に濃灰のうかいほうを掛けている。

 結い上げた髪をおろしている姿は、怖ろしさを感じるほど美しい。

 私の前では笑顔なので、萎縮してしまうほどの怖さはない。それに雲朔は、私にはこの上なく優しいし激甘だ。


「おかげさまで。亘々が来てくれたおかげよ。ありがとう」


「喜んでくれて良かった。華蓮が望むなら、なんでも取り寄せるよ。なにが欲しい?」


 雲朔は私の頭を柔らかになでた。

 昔もこうしてよく、頭をなでてくれた。雲朔になでられるのが大好きだった。

 でも今は、触れられると少し怖い。そう思っていることを雲朔に悟られないように努めて普通を装った。


「十分満足よ。女官たちも親切で優しいし、宮殿も私には広すぎるくらいだわ」


「華蓮には苦労をかけたからね。これくらいは当然だ。もっと強欲になっていいんだよ」


「だめよ、妲己だっきになってしまうわ」


 妲己とは、王朝を滅亡に導いた悪女の名である。


「華蓮になら、振り回されてみたいな」


 冗談ではなく、本気でそう思っていそうなので厄介だ。溺愛してくれるのは嬉しいけれど、限度がある。苦笑いするしかなかった。

「昔はよく、私の行動をたしなめていたのに」


「それは華蓮が危ない行動ばっかりするからだよ。さすがにもうしないだろ?」


「わからないわよ。慣れてきたら後宮を走りまわるかもしれない」


「それなら、華蓮が怪我をしないように女官を数百人新たに投入しよう」


 さらりと言われた言葉に私は青くなった。

 本気でやりそうだから怖い。


「あのね、雲朔。私のことを思ってくれるのは嬉しいんだけど、ちょっと、やりすぎじゃないかしら?」


「やりすぎ? さっきも言ったけど、足りないくらいだと思うよ」


「でも、ほら……村人たちを島流しにしたこととか……」


 私の口から村人たちのことを話した途端、それまで柔和に微笑んでいた雲朔の顔が変わった。

 雲朔の顔から笑顔が消えると、殺気だった雰囲気が体から溢れだしていた。

 突然変わった雰囲気に、背筋が凍った。


「奴らは、華蓮を長年いじめていたそうだね。華蓮に跪いて身の世話をするならともかく、俺の大事な華蓮を傷つけていたなんて、万死に値する」


「あ、あの……」


「百万回殺してもこの怒りは解けない。でも、優しい華蓮のことだから、奴らを死罪にしたら心を痛めるかなと思ったんだ。華蓮が望むならもっとも残虐な死刑にしてもいいんだよ。妲己のように、村人たちが泣き叫びながら死ぬ姿を見て喜んだとしても、俺は華蓮を悪女だとは思わないよ」


 私の顔からどんどん血の気が引いていった。


(なにを言っているの?)


 かつての争いを好まない、優しく温和な少年はどこにいってしまったのか。


「雲朔……私はそんなことを望んでいないわ」


 怖いを通り越して、悲しくなってきた。

 雲朔は、私が妲己のような悪女になっても受け入れると言っている。そんなの、受け入れないでほしい。そうなってしまったら、幻滅してほしいし、怒ってほしい。

 泣き出しそうになっている私を見て、雲朔はハッとして抱きしめた。


「辛かったね。ごめんね、迎えにいくのが遅くなって」


 違う、全然違う。

 悲しくて泣きそうになっているのは、それが理由なんかじゃない。

 でも、そのことを雲朔に伝えることはできなかった。なにを言ってもわかってもらえないと思ったからだ。

 雲朔に抱きしめられながら、この人を愛すことはできるのだろうかと思った。

 恋焦がれて、結婚を熱望した雲朔はもういない。

 どうしたらいいのだろうと絶望だけが押し寄せる。



 次の日、一人で寝るには広すぎる寝台で、私は目を覚ました。

 雲朔は、私の負担にならないようにと早々に帰っていった。どこまでも私に甘いし、私が嫌がることや怖がることは決してしない。

 それなのに、どんどん雲朔が怖く感じてしまうのだから困った。


(どうしたらいいのかしら。私、雲朔のことを好きじゃなくなっている)


 はっきりと自覚してしまった自分の気持ち。

 好きとか好きじゃないとか、そんな感情で結婚を反故することはできない。

 雲朔は皇帝で、雲朔が望むなら、私が奴隷に落ちることも、一夜の遊び相手になることも、殺されることになったとしても文句一つ言えない身だ。

 離れていた数年の歳月は、あまりにも長かった。人が変わるには十分すぎるほどに。


「お嬢様~、朝餉の準備ができましたよ」


 呑気な声で、いつも通り明るく部屋に入ってきた亘々だったが、深刻そうな私の顔を見て、思わず固まった。


「どうしたんですか、お嬢様」


 亘々を見ると、ほっとして、ずっと堪えてきた緊張の糸が切れた。

 どういう感情なのか自分でもよく分からないのだが、なぜだか涙が零れてくる。


「ちょ、ちょ、ちょっと! お嬢様! 一体どうしたっていうんですか!」


 亘々は慌てふためきながら私の側に駆け寄る。


「わからない、自分でもどうしたらいいのかわからないのよ」


「雲朔様になにか酷いことをされたのですか?」


 泣きながら、首を横に振った。


「雲朔はとても優しくて、私のことを大切に扱ってくれる。それが余計に辛くて……」


 雲朔に対して申し訳ないという気持ちがあるのだと、亘々に話しているうちにわかった。


「雲朔様は、やっぱり以前の雲朔様ではないということですか?」


「わからない、雲朔が変わってしまったのか、私が変わってしまったのか。変わってしまった雲朔を愛せない私がいけないのか……」


 雲朔は、たとえ私が妲己のような悪女になったとしても好きでいてくれると言った。

 自分はそうなれない。その程度の気持ちだったのだろうか。


「……もしかしたら雲朔様は、尸鬼しきに体を乗っ取られてしまったのかもしれません」


 亘々は神妙な面持ちで告げた。


「尸鬼? あの古い言い伝えの? でも、憎しみや恨みが増幅して尸鬼になってしまったら、体も鬼になるはずじゃない」


「詳しいことはわかりませんが、雲朔様が尸鬼になってしまったと考えたら全ての辻褄が合うと思いませんか? ひ弱で武道はてんで駄目だった雲朔様が、禁軍大将をも上回る武力を手にし、国を取り戻したのですよ? なにか不思議な力を手にしたとしか思えません」


「それもそうだけど……。でも、尸鬼なんて……」


 尸鬼は元々邪悪な性格の人間がなるものだ。人間誰しも、憎んだり羨んだり、負の感情に苛まれることはある。そうなった時に、みんなが尸鬼になってしまったら大変だ。尸鬼になってしまう人間は、元からそういう悪い素質を持っていた者だけがなる。雲朔は善良な人間だったと断言できる。


「調べる価値はあると思います」


 亘々は、雲朔が尸鬼になってしまったという考えに自信があるようだった。

 まさか雲朔が、と思う気持ちもあるが、否定するだけの根拠はない。


「もしも尸鬼に体を乗っ取られてしまっていた場合、助けられるのはお嬢様だけかもしれませんよ? 雲朔様が完全な尸鬼になる前に助け出しましょう」


(雲朔を助ける……)


 そう言われると、俄然やる気が出てくる。もしも本当に雲朔が尸鬼に体を乗っ取られてしまっていたのなら、昔の雲朔に戻る可能性もあるということだ。


「そうね、調べる価値はありそうね」


 私は覚悟を決めた。

 その日は亘々と二人で、雲朔の評判を聞いてまわった。とはいえ、後宮から出ることはできないので、女官からの情報になる。

 雲朔の評判は真っ二つに割れた。残虐非道で冷酷無比な皇帝という噂と、慈悲深く身内思いの賢帝という噂だ。

 いったん部屋に戻って、これら情報を精査する。


「女官たちは直接雲朔と関わったことがあるわけではないから、どれも噂にすぎないわね」


 花茶を飲みながら私は言った。


「そうですけど、慈悲深く身内思いの帝っていう評判があるのは意外でした。まあ、皇帝のことを悪く言ったらどうなるかわからないから、とりあえず褒めたたえたって可能性もありますが」


 亘々はお茶菓子を頬張りながら、身も蓋もない話をする。


「もしかしたら雲朔は二面性があるんじゃないかしら。まだ完全に尸鬼に乗っ取られているわけではないのかも」


一日中雲朔の情報を集めていたら、だんだんと雲朔が尸鬼に乗っ取られたという仮説を信じるようになっていた。まだ仮説でしかないのに、私たちの会話はすっかりそれが真実だという前提で進められている。


「二人でいる時、昔の雲朔様だって思うような場面ありましたか?」


 亘々の問いに、私は首を傾げて記憶を辿った。


「う~ん、とっても優しいのだけれど、これじゃない感の方が強いのよね。一緒にいると緊張しちゃって落ち着かないし」


「それならやっぱり元の雲朔様じゃないと思います。体を乗っ取った尸鬼なら、昔の記憶を知らないかもしれませんよ。どうやってお嬢様の情報を手に入れたのかはわかりませんが、昔の偽りの出来事を話したら乗ってくるかもしれない」


「でも、八年前の記憶よ? 雲朔も忘れているかもしれない」


「ちょっとお嬢様。記憶力抜群の超絶賢い雲朔様が、お嬢様に関する記憶を忘れるとでも?」


 じとっとした目で見つめられ、私は苦笑いを浮かべた。


「そ、それもそうね……」


「よし、そうと決まれば今夜が楽しみですね!尸鬼の尻尾を掴んできてください!」


「わかったわ!」


 そして私たちは、雲朔を迎い入れる準備に取りかかった。雲朔と会うのは気が進まなかったけれど、目的があるなら別だ。好きな人に会うとは別の高揚感に包まれた。



 今夜も雲朔は訪れた。

 相変わらず、気おくれするほど整った顔立ちだ。でも、もしかしたら中身は鬼かもしれないと思うと恐怖よりも怒りが湧き上がってくる。


(雲朔を取り戻すのよ!)


 強い決意を持って、雲朔に対峙した。


「華蓮、会いたかったよ。日中、職務を放り出して華蓮に会いに行きたいと思う気持ちを抑えるのが大変だった」


 雲朔は恥ずかしげもなく甘い言葉を放つ。


「ありがとう。では今日は、いつもより長く一緒にいない?」


 私は心の内を悟られないように、偽りの笑顔を浮かべて言った。


「それは嬉しい提案だ」


 雲朔は不審に思う様子もなく、心から嬉しそうな表情を浮かべた。


(今、私と話しているのが鬼だとしたら、なんて白々しいのかしら)


 部屋の奥に雲朔を案内して、用意していた酒肴を卓に並べる。


「お酒も用意してくれたのかい? ありがとう」


 卓の前に座った雲朔に、小さな杯を持たせ、上等な酒を注ぐ。


「華蓮は飲まないの?」


「私は飲めないから。あ、毒見役が必要かしら? ごめんなさい、気がまわらなくて。今呼んでくるわね」


 立ち上がろうとした私を制し、雲朔は穏やかな微笑みを浮かべる。


「大丈夫だよ。たとえ毒が入っていたとしても、華蓮が注いでくれたお酒を他の人に飲ませたくはない。これは俺のだ」


 雲朔は嬉しそうにお酒を一気に仰いだ。

 まるで、私に殺されるなら本望だと言いたげな態度。

 それほど愛していると言いたいのだろうが、逆に恐怖だ。

 満足気に飲みほした雲朔を見て、思わず苦笑いが零れる。もちろん、毒など入っていないので、空になった杯にもう一度酒を注ぐ。


「ねえ、雲朔。覚えている? 私たちが川で溺れたこと」


「もちろんだよ。あの一件で婚約が決まったのだから」


(ちゃんと知っているのね。でもどこまで知っているのかしら)


 懐かしい思い出話をしているように見せかけて、慎重に探りを入れていく。


「あんな冷たい川に飛び込んだものだから、私たち風邪をひいてしまったわよね」


「違うよ、風邪をひいて寝込んだのは俺だけだった。華蓮は次の日から元気に走りまわっていた」


「ああ、そうだったわね。雲朔は体が弱かったのに、私を助けるために川に飛び込んでくれた」


「……違うよ、華蓮は俺を助けるために川に飛び込んだんだ」


「そうね、助けてもらったっていう印象が強くて忘れていたわ。私は川に飛び込んだけれど、雲朔を助けられなくて、結局最後は雲朔に助けてもらった。なにしに川に飛び込んだのかわからないわよね」


 私はなんでもないように取り繕い、ふふふと笑った。

 雲朔はそんな私の顔を訝しげに見ている。


「……華蓮、なにを探っているんだい?」


 どきりとして肩が上がった。


(さすが雲朔、鋭い……)


 しかし動揺を気付かれないように、努めて明るく接した。


「雲朔こそなにを言っているの? 八年も前のことよ、記憶がおぼろげになってもおかしくないわ」


「日中、俺の評判を聞いてまわっていたそうだね」


(そんなことまで知っているの⁉)


 思わず背筋が凍る。でもそれを悟られてはいけないので、笑顔を顔に張りつける。


「ええ、離れていた間の私の生活のことを雲朔が知りたがったように、私も雲朔がどんな生活をしていたのか知りたいの」


 雲朔は黙って、考え込んでいるようだった。確実に不審に思われている。背中に冷たい汗をかきながら、顔は笑顔を保つのに必死だった。


「俺の八年間が知りたい? 知ってどうするの?」


「どうするかは知った時に考えるわ。知りたいと思うのは当然でしょう?」


「俺が、昔と変わってしまったから?」


 本質を突かれて、言葉を失う。雲朔は畳みかけるように話を続ける。


「川に落ちたくらいで風邪をひいて寝込んでしまうくらいひ弱だった男が、剣を振りまわして皇帝の座を奪ったことが信じられない?」


 まるで心の中を読んでいるかのような言葉に、私はなにも言い返せなかった。


「俺は巷では、残虐非道な皇帝と恐れられているらしい。確かに俺は、目的のためなら手段を選ばない」


 雲朔は射るような眼差しで私を見つめた。怒らせたかもしれないと思って青くなる。


「強い男になって、華蓮を守りたかった。でも、華蓮は昔のなにもできない弱い俺の方が好き?」


「……雲朔は、なにもできない男じゃなかったわ。私を後宮から出して助けてくれた」


 私は絞り出すように言葉を続けた。


「雲朔は、とても勇敢で頼りになる、そんな人だった……」


 雲朔の目をしっかりと見つめて言った。


「過去形……だね」


 雲朔は自嘲するように薄く笑い、私から目を逸らした。


「上手くいかないものだな……。全てを手に入れたのに。一番大事なものが、俺の手から零れていく」


「雲朔……、なにがあったの? こんなに変わってしまうだなんて」


 雲朔は悲しそうな目で、私を横目に見た。


「変わることはいいことだと思っていた。変わらなきゃ駄目だと思っていた。それがまさか、華蓮から嫌われることになるとは」


「きらってなんか……」


「でも、怖いと思っているだろ?」


「それは……」


「気付いていたよ、最初から」


 絶句した。自分の気持ちが気付かれていたのだとしたら、きっと雲朔はずっと傷ついていたはずだ。


「知りたい? 俺の八年間」


 私はこくりと頷いた。


「楽しいものではないよ、それでも知りたい?」


「雲朔のことなら、どんなことだって知りたいわ」


 雲朔は少しだけ嬉しそうに笑った。その恥ずかしそうな柔和な微笑みが、昔の雲朔の笑顔と重なった。


「じゃあ、見せてあげる。おいで」


 雲朔は立ち上がって、私に手を出した。差し出された手を取り、私も立ち上がる。


「見せる? どういうこと?」


「修行の終わりの祝い品で貰った真眩鏡しんげんきょう。罪人の所業を知るために貰ったのに、まさか自分が最初に使うことになるとはね」


 雲朔は自嘲するように笑った。

 よく分からないけれど、とりあえずついていこうと思う。

 雲朔の過去が見られるならば見たい。それが、どんなものであろうとも。



 私たちは後宮を出て、内廷にある皇帝の宸室しんしつに行った。雲朔と一緒なので、後宮から出ても誰も文句はいわないし、宸室にもあっさりと入れた。

 宸室とはいっても、皇帝専属の部屋なので一つではない。様々な部屋を通り抜け、一番奥の部屋に辿り着いた。

 厳重な分厚い扉を鍵で開けて中へ入ると、二十畳ほどの広さの部屋だった。

 まるで執務室のようなその部屋は、壁一面に本が飾られていた。そして中央には黒檀の丸机が置かれている。

 雲朔は長方形の金庫の中から、顔よりも大きくて丸い黒鏡を取り出した。一見して古いものであることがわかる。しかし、鏡のふちは龍の形に縁取られ、とても高価なものであることが推察できた。

 雲朔はその鏡を黒檀の机の中央にそっと置いた。鏡は黒く、何も映っていない。


「これは真眩鏡といって、触れた人の過去を見ることができる。どの部分を見せたいかは触れた本人が決めることができるし、重要な部分だけゆっくり見せることもできる。さらに、数年を数秒で見せることもできる」


「数年を数秒で? どうやって?」


「まあ、見ていればわかるよ。元々は、罪なき罪人が自分の無実を証明するためのものだ。誰かの過去を見たいからといって自由に見られるものではなく、本人の意思が尊重される」


 雲朔は真眩鏡をじっと見つめ、そして静かに黒鏡に指先を触れた。

 すると鏡は水面のように揺らめき、そして私がよく知る幼き日の雲朔の姿を映し出した――


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