終章

母からは合宿の中止についてあまり追求されず、ベランダで皆既月食かいきげっしょく観測かんそくする。

 9時20分頃に半影食はんえいしょくが始まったらしいが、目視では違いがわからない。

 合宿では望遠鏡ぼうえんきょう双眼鏡そうがんきょうがあったのだろうか。

 1時間後、ぼんやりと月を眺めながら構想を練っていたところに、大翔ひろとから一報いっぽうはいる。

『月を仰げ。そろそろ部分月食が始まるぞ』

『もう観ているよ』

『……物好きだな。半影食から観ていたのか? 暇なら通話しようぜ』

 通話を繋げると、大翔も文芸部で月を御題おだいに出されたことを知る。最も、原稿は先日書き終えており、観測は趣味とのことだ。

「うちの天文部連中は色めき立っていたぜ。文芸部でも御題選びで議論があったが、俺は皆既月食にした」

 大翔は西行さいぎょうの『山家集さんかしゅう』にある和歌わかを下地に短編を書いたらしい。

 こちらも近況を聞かれたが、今日のことはおいそれと人に話せない。

 そこで編集長へんしゅうちょうとしてGW開けに冊子を作る話題を振る。すると大翔は向こうの文芸部を例に挙げながら、現状に合った策を一緒に練ってくれる。

 時間はあっという間に過ぎて0時13分頃、しょく最大さいだいを見届けて、大翔との通話を終える。

 赤銅色しゃくどうしょくの影の下、大翔との一連のやり取りを題材に、皆既月食の小説を書き始める。

 30分ほど過ぎたところで、脱稿だっこうとともに皆既月食も終わる。

 2時頃、部分月食の終わりを見届けて、眠気にあらがわず就寝しゅうしんする。

 翌月曜日、海野うみのさんは学校にいなかった。朝礼で出雲いずも先生は簡潔に海野さんの欠席を伝える。何事もなく授業が始まり、やがて放課後になる。

 職員室で鍵を借り、部室を開け、今日は座卓ざたくを棚の前につける。

 そうして編集長へんしゅうちょうの仕事に取り掛かる。

 バックナンバーを一冊ずつ取り出し、書体や書式を調べにかかる。

 しかし、ワードファイルは想定より容易に完成する。フォントは初期設定であり、B4用紙を縦向き縦書きで2段組みにするのが伝統らしい。

 16時半、まだまだ時間に余裕があるため、文字起もじおこしの作業に取り掛かる。

 これが予想外に時間がかかる。

 手書きの文字はAIでテキストファイルにできるが、細かな誤植ごしょくが大量に出てしまい、結局は一から読み直すことになる。また、読み直すうちに表現を変えたくなり、文章をいじりだすと、あっという間に時間は解ける。 

 18時半、なんとか2週間分の原稿を整えたところで、廊下から足音が聞こえてくる。

 扉を開けて現れたのは、少し息の上がった海野さんだ。

「こんにちは、森峰もりみねくん。昨日は、本当にありがとう」

 返事のわりにうなずき返す。

「海野さんはどうしてここに?」

「森峰くんと出雲いずも先生に、お礼を言いに来たの。そうしたら、出雲先生から提案があってね」

 海野さんは深呼吸で息を整える。

「これから一緒に満月を観測しよう」

「わかった。すぐに支度するよ」

 断る理由はない。それにしても、皆既月食の翌日が満月とは知らなかった。

 部室を締め、職員室に鍵を返し、そのまま特別塔の階段を5階屋上まで登る。

 扉を抜けて、夕空を仰ぐと、丸い満月が皓皓こうこうと輝いている。

そろったわね」

 屋上の一角、大きな望遠鏡ぼうえんきょうの横で、出雲先生が手招きする。

「あと30分くらいだけど、4月の満月を楽しんでね。下校時刻になったら、また呼びに来るわ」

 出雲先生はそれだけ言って颯爽さっそうと去っていく。

「お先にどうぞ、森峰くん」

「それじゃあ、遠慮なく」

 海野さんと交代しながら望遠鏡を覗く。レンズの中を移動する満月は、クレーターの陰影まではっきりと見える。昨日とは大違いで、ひとしきり満月を追う。

 ふいに、出雲先生の言い方に疑問を持つ。海野さんに聞きかけて、先に海野さんが口を開く。

「そういえば、森峰くんは今日、部室で何をしていたの?」

「ああ、冊子作りの準備を進めていたんだ。なんとか印刷前の形は整ったよ」

「さすが編集長へんしゅうちょう。それでバックナンバーを広げていたのね」

 海野さんは今日、何をしていたか。話の流れで聞いてしまいたい衝動しょうどうえる。それは海野さんが話したいときに話すべきことだろう。

 望遠鏡から顔を上げ、代わりの疑問を持ちかける。

「ところで、出雲先生は4月の満月って言ったけど、何か意味があるのかな?」

 望遠鏡を覗こうとした海野さんが一瞬固まる。

 その後、何事もなかったかのように、海野さんは体制を戻して解説してくれる。

「4月の満月は、ピンクムーンと呼ばれます。アメリカの先住民が由来で、北米では芝桜しばざくら桔梗ききょうなどピンクの花々が咲き乱れることから、そう呼ばれるようになりました」

「さすが部長ぶちょう。勉強になった」

 出雲先生がわざわざ言った理由を名前からなんとなく察しながら、二人で夕空を仰ぐ。

 海野さんは少し声を震わせる。

「今日の満月は、いい思い出になるね」

 いつかの海野さんの母親の話を明確に意識しながら、海野さんに向いて目を合わせる。

「うん、いい思い出になった」

「よかった……なんだか明日は筆が進みそう」

 暗がりの中、海野さんは嬉しそうに笑う。

 出雲先生が戻るまで、いつまでも二人でピンクムーンを見上げる。

 来年も、再来年も、こうして月を見上げられることを願う。

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『箱と文と月』 涼宮 和喣 @waku_suzumiya

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