第四章 第1話

 二〇三二年四月二五日、今日は皆既月食かいきげっしょくが起こる。

 文芸部では、その全過程を約6時間かけて観測かんそくし、後日、皆既月食を題材にした作品を発表する。

 皆既月食の始めは23時40分頃だが、集合時間は学校の施錠せじょうの都合で19時となる。長い自由時間に何をするかは決まっていない。

 夕食は家で早めに済ませ、持参物に着替えと月曜日の勉強道具を用意し、いざ学校に向かう。

「ちょっと、れん! 忘れ物だよ」

「……それ、本当に持って行かなきゃダメかな」

 母さんはお菓子袋を差し出す――見たことないくらい大きなビニール袋は、大量のお菓子でふくがっている。

 しばらく玄関先で苦言くげんていしたが、結局は強引に手渡される。

「……行ってきまぁす」

「ちゃんと帰って来なさいよ!」

「帰るのは明日の夕方だよ」

「わかってるわよ、それくらい」

 登校中ずっと衆目しゅうもくさらされて18時半、予定より早く学校に到着する。

 夕空を仰ぐが、まだ月は見えない。

 日中の部活動を終えた生徒たちとすれ違いながら、いつもと違う順路で部室に向かう。

「あれ? 開かない……海野うみのさん、まだ来てないのか」

 きびすかえし、鍵を取りに行く。

 がらんとした職員室で鍵を借りる。隣の国語科準備室に寄ると珈琲の匂いが充満していたが、出雲先生はいない。

 急ぎの用もないので部室に戻る。

 久方ぶりに部室の鍵を開け、座卓を用意する。暗号文あんごうぶんを見つけた日をぼんやりと思い出し、ふと『ショーガツ・カイキ』をまだ読んでいなかったことに気づく。

 最新刊を手に取り、座卓の定位置で読み進める。

 怪奇に快気に皆既……カイキと読む15個の単語と注釈をやや強引に取り入れた意欲作いよくさくは、皆既月食を諸悪しょあく根源こんげんにしつつ爽快そうかい痛快つうかい寝正月ねしょうがつを描いていた。

 19時まであと数分、海野さんはまだ来ない。連絡先は交換していないから、この機会に聞こうと思う。

 壁掛け時計の秒針を見つめながら座して待つ。すると、ようやく廊下から足音が聞こえ、部室の扉が開かれる。

 しかし、現れたのは出雲いずも先生だ。

「こんばんは、森峰もりみねくん。海野さんはまだ来てないの?」

「こんばんは。海野さんはまだ来ていません。珍しいですね」

「あらそう……わかったわ。あんまり遅くなるようなら、私から連絡してみます」

 出雲先生は心配顔を止めてニヤニヤと笑う。

「それ! ずいぶん大きなお菓子袋ね。親御おやごさんに買ってもらったの?」

 思わず苦笑いを返す。

「そんなところです。出雲先生もいかがですか? 良かったら、たくさん持っていってください」

「それじゃあ、遠慮なく!」

 お菓子袋を差し出すと、出雲先生は両腕をねじ込んで持てるだけ持っていってくれる。

「ありがとさん。ところで、森峰くんは海野さんから何か聞いていない?」

 金曜の別れ際が気になるものの、何か聞いたわけではない。

 そう伝えようとして、はたと思い出す。月曜に焼き肉に誘われていた。

「海野さん、今日は家で焼き肉らしいです」

 答えながら、遅れる理由にはならないと気づく。だが、出雲先生は話を繋げてくれる。

「焼き肉! いいわねぇ……いまごろ海野さんは美味しいお肉を食べているのね。先生もお腹が空いてきたわ。ともあれ、しばらく待つとしましょう」

 出雲先生は嬉しそうにお菓子を抱え直す。

「合宿の説明は、二人がそろってからにします。それじゃあ、お菓子ありがとね、森峰くん!」

 その去り際の横顔が一瞬、険しく映る……ただの見間違いだろうか。

 胸騒むなさわぎをしずめるように、海野さんが美味しそうに焼き肉を食べている姿を想像する。

「……ああ、食べに行くのが正解だったかなぁ」

 金曜の別れ際、海野さんは焼き肉に誘おうとしてくちつぐんだのかもしれない。あのとき、月曜のお誘いを思い出していれば、何かが変わっただろうか。

 頭の中で、海野さんがくちつぐむ仕草を反芻はんすうしていると、ふと、暗号文について聞いたときも同じ仕草を見せたことを思い出す。

 海野さんは暗号文で大翔へのを思い込みだと教えてくれた。いまにして思えば、海野さんは暗号を解読していたから直感ちょっかんを試したり肯定したりしてくれていたとわかる。

 ――暗号文の内容を、遠回しに暗号で残したのに、直接的に口頭で伝えることに違和感を覚える。

 例えば、海野さんの暗号の意味が大翔への思い込みでないとしたら、誰が何を思い込んだのか。

 誰がを海野さんがとしたとき、思い込みという言葉と皆勤賞の七輪しちりんが真っ先に繋がる。

 あると思って作品を読み直す。段ボールの封、災害時の伝言、段ボールの梱包、棚の付箋、土鍋の蓋の固定――全てテープが使われている。皆勤賞は、もう一つあった。

 海野さんは身近なことを御題おだいにする。それが七輪とテープを指していたのなら、海野さんは何を思い込んだのか。

 冷や汗とともに先週の御題が思い出される。勧めるか、止めるか。話すか、黙るか。ひとりか、ふたりか。

 最悪の状況が脳裏のうりよぎる。

「そうだ、焼き肉を食べに行こう」

 様子を見に行く口実はある。焼き肉に行かないことを正解とする海野さんの都合は考えない。

 手土産にお菓子を持って、部室を飛び出す。

 途中、中庭で資料を抱えた出雲先生とすれ違う。

「どうしたの? そんなに急いで――」

「海野さんを迎えに行ってきます!」


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