第三章 第4話

 翌金曜日、七限目終わりの放課後に、準備万端で部室に入る。

「なんだかご機嫌ね」

「そうかな? そうかも」

 笑顔を返すと、海野うみのさんも少し笑う。

 しかし、定位置に着くころには、海野さんの眉はハの字になってしまう。

「最近、わたしだけ書けなくてごめんね」

「海野さん。いつも部室を準備してくれて、小説を読んでくれて、ありがとう」

「そんな、お礼を言われるほどのことはしてないよ……ところで、森峰もりみねくんは今日も御題おだいを聞くのかな」

「今日は用意してきたよ」

「……それは良かった」

 ハの字の眉がほっとした表情に変わる。

 御題は重荷おもにしただけに終わった。

 だが、落ち込む暇はない。伝えたいことを書くしかないと開き直る。

 17時、宿題に取り組む海野さんの斜向はすむかいで、一人シャーペンを握る。

 主人公は友人から貰った秘密箱に何度も心が折れかける。その度に、同じ文芸部員は主人公を励ましてくれる。主人公がやる気を取り戻すと、文系部員は決まって笑顔を向けてくれる。主人公はその笑顔に支えられながら遂には秘密箱の解錠に成功する。主人公はこれからも文芸部員の笑顔を見たいと願う。

 いざ書き上げてみると恋文然としていて焦る。細かな修正を試みるも、物語調になる気がしない。

 17時半は修正案が浮かぶ前に訪れる。

「海野さん、もう少し待ってくれるかな」

「もちろん。直しがうまくいくなら、いつまでも待つよ」

 その言葉で心に余裕が生まれ、作品を俯瞰ふかんできる。

 直すなら一から直すことになる。だが、残り時間は足りない。そして、この作品は合宿前に読んでもらうことに意味があると感じる。

 誤字脱字だけ確認して、仕方なく原稿を渡す。

 海野さんが読み進める度に頬が熱くなり、徐々じょじょ赤面せきめんしていくのを感じる。海野さんをとても見ていられず、視線は座卓ざたくに落ちる。

 ――その時、座卓に一滴の涙が落ちる。

 顔を上げると、海野さんは原稿用紙で顔を隠している。そうする合間に、また一滴の涙が落ちる。

「海野さん、何があったのか、話してくれないかな」

「ちょっとだけ、待ってほしい」

 海野さんは何回か鼻をすすって深呼吸したあとに原稿を降ろし、晴れやかな笑顔をのぞかせる。

 胸の鼓動が、大きく脈を打つ。その意味は明確だが、いまは海野さんの言葉を待つ。

「……わたしは母の言葉を信じて、理想的りそうてき普通ふつうを追い求めた。でも、本当はただ、母の笑顔が見たかったんだ」

 理想的な普通は、母の笑顔に置き換わった。それがわかって、脈動みゃくどうは落ち着き、心から安心する。

「海野さんならできるよ」

 海野さんは涙を拭いながら照れ笑いを浮かべる。

 それから海野さんは、母の笑顔がどんなに素敵か、事細ことこまかに話してくれる。

 問題に直面してひるんだとき、あと一つ後押しが欲しいとき、成し遂げたことを共有したいとき、母は必ずそばで笑ってくれる。

 18時半を過ぎるまで、海野さんは母の話を続けた。

 部室を施錠せじょうして学校を出る。どこかうわそらな海野さんと並んで歩くと、海野さんの家まであっという間に着く。

「海野さん。いまから合宿が楽しみだね」

 そのとき、海野さんはハッとして、開きかけたくちつぐんだ。そこに一抹の不安を覚える。

 海野さんは夕空の丸い月を見上げて口を開ける。

「そうだね。資料を集めて、小説を執筆して、連休明けは印刷作業で、きっと忙しくなるね」

 薄暗い裏路地で、海野さんに柔和にゅうわな笑顔を向けられる。

「そうそう、読み合わせも忘れずにね。約束だよ」

「ああ、約束する」

 互いに手を振り合って別れるそのとき、春風はるかぜが背中からつぶやきを運ぶ。

「またね、森峰くん」

 振り返ったとき、海野さんの家の扉が静かに閉じた。

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