第三章 第1話

 週が開けて月曜日の放課後、海野うみのさんは白紙の原稿用紙に向かってうつむいていた。

 改めて、先日の不用意な発言に責任を感じる。慎重しんちょうに様子を見る必要がありそうだ。

「海野さん。お陰様かげさまで秘密箱が解けたよ。ありがとう」

 海野さんは緩慢かんまんとした動きで、やや疲れを感じる笑みを浮かべる。

「良かったね、森峰もりみねくん」

 それだけ言って、またうつむいてしまう。

大翔ひろとに連絡がついたんだ。それで、文化祭で再会しようって話になって……全部、海野さんのおかげだよ」

 心ここにあらずといった様子で、言葉が届かないと感じる。大翔の話は止めにする。

 ひとまずカバンから原稿用紙と筆記用具を出す。

 不意に、海野さんはこちらを向く。その眼差まなざしに淡い期待を感じる。

「ねえ、森峰くん。合宿前にさ、うちで一緒に焼き肉しない?」

 瞬時に遠慮えんりょまさる。

「魅力的なお誘いだけど、遠慮させてもらうよ」

「そっか……そうだよね。いや、むしろ、それで正解かもしれないよ」

 海野さんは苦笑いして、まだ明るい空を見上げるように窓へ向き直る。

 その横顔を盗み見ながら、前言撤回ぜんげんてっかいするか悶々もんもんと悩むうちに時間は過ぎていく。

 やがて16時半になる。

 しかし、海野さんのシャーペンは、ちゅうで止まって動かない。

 思わず海野さんを見上げると、困り顔を向けられる。

「あはは……題材が思いつかなくて……何も書けないの」

「スランプって言うんだっけ? なら仕方ないよ」

 できるだけ明るい声で答えてなごませるが、内心は焦りを感じる。海野さんは、日常の中に題材がある。題材がないなら日常もない、とも取れる。

 海野さんの中から理想的りそうてき普通ふつうは消えてしまったのだろうか。

 先週のことも合わせて聞こうとしたとき、海野さんに先手を打たれる。

「わたしのことは気にしないで、森峰くんは原稿を書いて」

 まずは自分を立てろ。大翔の手紙にはそうあった。

 海野さんがそのことを言ったのか定かではない。

 ただ、原稿を書いて欲しいのは確かだと感じる。

 だから、まずは原稿を書こう。

 題材は、悩んだ末に、秘密箱のお礼ではなく七輪に決める。

 子供の頃、サンマをうちわであおぎたいがために七輪を買ってもらった思い出を軸に、理想的りそうてき普通ふつうな話で仕上げる。

 そうして海野さんが望む世界の存在証明を試みる。

 30分が経った。執筆前のくわだては、いざ書き上げてみると満足感がない。

 残りの30分で細かな修正を加えるも、不安だけが残る結果となる。

 壁掛け時計を見ると、17時半を少し過ぎていた。

 海野さんは深くうつむいて、白紙の原稿用紙に向かっている。声を掛けるか、しばし悩む。

「17時半過ぎだよ、海野さん」

 海野さんはハッとして壁掛け時計を見て、肩を落とす。

感想会かんそうかいだね。わたしは間に合わなかったよ……だけど、森峰くんの原稿は読むからね」

「ご、ご一読ください」

 海野さんが原稿を読み進める――その表情は最後までどこかうれいをびていた。

「サンマは贅沢な秋の味覚ですから、古風な食べ方にこだわる気持ちも伝わってきました。七輪の調達からご近所への気配りまで、ご両親が子どものために奔走ほんそうする姿も愛に溢れていると思います。余談ですが、七輪は土なので、雨に濡れないように保管すると、作中より長持ちしますよ」

 期待した言葉は、感想に使われなかった。

 理想的りそうてき普通ふつうは、海野さんの中から失われたと確信する。

 返答にきゅうする内に、海野さんに原稿を返される。

「それじゃあ、わたしはギリギリまで原稿と戦うよ。森峰くんは、自由時間じゆうじかん満喫まんきつしてね」

「感想ありがとう。海野さんも無理しないでね」

 自由時間は宿題にあてたものの、まるで集中できなかった。

 18時半のチャイムが鳴り、海野さんが白紙の原稿用紙をしまう。部室を施錠せじょうし、二人で帰路につく。

「海野さん。金曜日のこと、気にしてない?」

「気にするというよりは、感謝しているかな」

 金曜日の発言を訂正する言葉は飲み込まざるを得ない。また、何を感謝されたかもわからない。頭が真っ白になる。

 海野さんもそれだけ言って沈黙する。

 次の言葉を探す内に、すぐに海野さんの家に着いてしまった。

「それじゃあね、森峰くん」

「待って、海野さん」

 扉に手をかけた海野さんが振り返る。

「何か悩みがあるなら、出雲いずも先生に相談するといいかもしれない。たぶん、国語科準備室で待っているからさ」

「それは……確かにそうかもね」

 黄昏時の裏路地で、海野さんはかすかに笑った気がする。

「また明日、小説の感想をくれるかな」

「うん。また明日」

 互いに小さく手を降って別れる。

 ひとまず小説は読んでもらえる。この際、海野さんから御題おだいだけもらおうか。理想的に普通な話がダメなら、反省を行動に活かす話を試してみよう。

 ただ、海野さんが自分を取り戻す手助けができれぱとせつねがう。

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