第二章 第1話

 突如とつじょ、部室の扉が開く。

廊下の足音は聞こえていなかった。

 次いで、がりがまちで上履きを脱ぐ音が聞こえ、部室の入口が開く。

 海野うみのさんが迷いなくこちらを見る。

「まさか、こんなに早く見つかるとは思わなかったな」

 先程の叫び声は聞かれていたらしい。

海野さんの視線から逃れるように足元を見る。

 畳の上から紙片を取り上げる。暗号文あんごうぶん筆跡ひっせきは、海野さんのものによく似ている。

 また、暗号文の裏紙うらがみに普通の文を発見し、紙片をひっくり返す。そこには、秘密箱ひみつばこを開けた一般人に宛てた、お節介な手紙が書かれていた。


『森峰蓮の秘密箱を開けた君へ。

 どうか、秘密箱と暗号文を戻して、蓮に返してほしい。これは蓮への挑戦状なんだ。

 それから、蓮と友達になってほしい。この秘密箱を託すということは、君を信頼しているだろうから。』


 大翔ひろとの手紙があり、海野さんの暗号文があるということは――秘密箱の中には大翔の暗号文があり、海野さんは暗号文を解読した上で利用した可能性が高い。

「この暗号の意味は何か、教えてほしい」

 海野さんは、開きかけたくちつぐむ。しばし、沈黙が降りる。

森峰もりみねくんは、空閑大翔さんへがあると思い込んでいるでしょう?」

 その言葉に沈黙ちんもくする。事実、小説を通して、大翔に迷惑をかけた自分を否定してきた。

 それが思い込みであるというのか。

 合格発表の日から随分ずいぶん経った。あの日を過去の一つとして捉えたとき、それまでの日々と比べてみれば、大翔もまた感情が先走っていたと、いまなら頭で理解できる。

 それでも、的外れな善意から出た言葉で大翔を傷つけたことに変わりはない。

 だが、ひょっとすると秘密箱の中には、それさえ思い込みと言い切れる暗号文が入っているのではないだろうか。

「にわかには信じがたいけど、海野さんがそう言うなら、信じてみるよ」

 海野さんはほっと息を吐き、それから謝罪する。

「いままで黙っていてごめんなさい。こんな形でしか伝える方法が思いつかなかったの」

「確かに、この手紙の扱いは指示されていないし、『暗号文を戻す』は『平文ひらぶん復号ふくごうする』にもこじつけられる……いや、そんなことより、変なことに巻き込んでしまって申し訳ない」

 すると、海野さんは柔和にゅうわな笑顔を浮かべる。

「別々の高校に行く友人に暗号文あんごうぶんの入った秘密箱ひみつばこを贈る。わたしにとっては、理想的りそうてき普通ふつうな話だと思うよ」

 海野さんの決まり文句を創作ではなく現実で聞くと、なんだかこそばゆかった。

「森峰くんは、いますぐ中身を知りたい?」

「それは……」

 海野さんの提案は、秘密箱の開け方も暗号文の内容も教えられると言っているようなものだ。

 手紙にある『挑戦状』の文字から提案を断ろうとしたとき、ふと、暗号を作った当時を思い出す。

 中一の秋、大翔はシーザー暗号について蘊蓄うんちくれたあと、用意してきた暗号文で、4つ年上の好きな人ができたことを教えてくれた。

 以来、大翔の暗号文はいつだって口に出せない大事な用事に使われてきた。

「自分で中身を確かめるよ。暗号文が使われている以上、挑戦状を受けないわけにはいかない」

 海野さんは笑顔で首肯しゅこうする。

 お互い、いつも通り斜向はすむかいに座卓に着き、原稿用紙とシャーペンを用意する。

 秘密箱に挑むうちに自由時間は過ぎて、執筆しっぴつの時間になる。

「16時半だね、森峰くん」

「ああ、今日も執筆しよう」

 そう言ったものの、自己否定に代わるネタは浮かんでいない。

 ひとまず、今日も隣でスラスラと書く海野さんに元気を貰う。

 すると、秘密箱ひみつばこについて、過去に一度だけ大翔が話題にしたことを思い出した。

 大翔は図工の時間に本棚を作ることになった際、秘密箱を作ろうとして頓挫とんざしたことがある。スラスラと設計図を描いて先生に見せたところ、構造的こうぞうてき欠陥けっかんを指摘されつつやんわりと本棚を作るように言われていた。

 あのあと、もし大翔が構造的な欠陥を改善できていたら? それは反省を行動に活かす話になるかもしれない。

 そして、30分が経った。海野さんのシャーペンが止まる。想像するのにも時間は過ぎていくが、書くことは概ね決まっているため焦りはない。

 残り5分になる。本棚を作る主人公の横で秘密箱を作る友人が良い成績を収める話はスラスラと書きあがった。

 秘密箱について具体的な情報は調べていない。大翔の秘密箱を解いてから、また改めて秘密箱の話を書いてみたいと思う。

 最後に、誤字脱字の確認を済ませる。

「17時半だね、森峰くん」

「ああ、原稿を交換しよう」

 原稿を受け取り、カバンからフォルダーとルーズリーフを取り出す。

 初日以来、海野さんに誤字脱字はない。ルーズリーフはもっぱら感想を作るために使う。

 感想会かんそうかいは初日の通りに進める。

 良いところを箇条書きにして、要点をまとめ、感想に仕上げる。お互いに書き終えたのを確認してから、先に感想を伝える。

「誕生日に中華鍋をもらう子どもはなんだかんだどこかにいそう。棚の付箋ふせんに『ちゅーかなべ』と書いたまま今でも取ってある感じが理想的に普通だった。部室のがりがまちでバックナンバーの方を向きながら鍋の振り方を披露ひろうする場面が、違和感なく構成されていて凄かった。あと、一点気になることがある」

 海野さんは小首をかしげる。

「いまのところ七輪しちりんは皆勤賞だけど、なにか理由はあるの?」

「ああ、それは、わたしが身近なことを御題おだいにするからだよ。最近、家で七輪を買い替えたの」

「ああ、なるほどね」

 それで話し終えたとばかりに、海野さんはうやうやしくお辞儀する。

 明日も七輪が登場したら、また聞いてみようと思う。

「感想ありがとうございました。付箋ふせんが伝わったようで良かった! バックナンバーは次が最後になるよ。さて、これからも理想的りそうてき普通ふつうな話を書いていくからお楽しみに。次は、わたしの番だね」

 海野さんはメモを見ずに話しかけてくる。

「全編を通して――」

 初めて原稿をカットされなかった。

「――やや誇張が入っていそうなものの、ご友人の気骨きこつさがうかがい知れました。さしずめ、冒頭で先生が諦めるように促す場面が現実で、そこから構造的な欠陥を根性で解消していく展開が創作でしょうか。反省を行動に活かせていますね」

 現実と創作の境を言い当てられ、思わず舌を巻く。

「構造の考案ではなく欠陥の解消にうまく焦点が当てられていて、主人公のアメとムチが絶妙でした。特に、図工で独創性を高く評価される終わり方が、わたしからみて理想的りそうてき普通ふつうな話でした」

 自然と頭が下がり、感謝する。

「感想ありがとう。今後も反省を行動に活かす話を書いていくよ」

 自由時間じゆうじかんになり、常々疑問に思っていたことを聞いてみる。

「ところで、海野さんはよく『理想的に普通』を使うけど、なにか定義はあるの?」

「うん、あるよ。概ね森峰くんと共有できていると思うけどね」

 そう前置きして、海野さんは理想的に普通の定義を教えてくれる。

「理想とは、最善の目的、理念のこと。普通とは、ありふれたもの、多数ある同値のこと。理想の普通とは、対象の要素の中で最も多数と同値になる要素を対象そのものとすること」

「……すまない、もう少しわかりやすく頼む」

「偏っているけどあるあるだよね、って感じかな」

「ありがとう。それならわかりやすい。概ねそう捉えていたよ」

 そうして、噛み砕かれた表現に安易に納得して、最初に定義された言葉はすっかり頭から消える。

 海野さんが本当はどう考えていたのか、それはわからない。

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