第一章 第3話

「それじゃあ、はじめよう」

「ああ、そうだね」

 使い慣れたシャーペンは、ちゅうでピタリと止まる。一方、海野さんのシャーペンは気持ちよさそうに原稿用紙の上を走っている。

 そして、30分が経った。海野うみのさんがシャーペンを止めたタイミングで、ふと見上げた壁掛け時計に呆然ぼうぜんとする。

 数少ない読書体験も、先週のバックナンバーも、早々にどこかへ消えてしまった。書けないストレスが増大した結果、いまは大翔ひろとへの鬱々うつうつとした記憶が頭の中を占めている。

 それをそのまま書くしかない。

 自己否定を題材に決めると、あとは早かった。

 本を借りて雨に濡らしてしまったこと、好きな子を他人にバラしてしまったこと、間違えて覚えた英単語をテスト前に教えたこと……不注意ふちゅういで、迂闊うかつで、無知むちで、友人に対してどれだけ最低な主人公かを書き明かす。

 15分も経つと、原稿用紙は五枚目に突入した。

 気持ちに余裕ができて、救われないままの主人公に同情する気持ちが湧いてくる。ただらしめるだけか、何か都合よく終わらせるか。

 両者が拮抗きっこうして、残り5分。海野さんがトンと原稿用紙をまとめて、ほがらかにため息をついた。その途端、気持ちはなんとなく後者にかたむく。主人公は最後に悔い改め、二度目に正しい行いをする。それを時間内になんとか書き切る。

「17時半だね、森峰もりみねくん」

「なんとかできた……海野さんは余裕ありそうだったね」

「土日に色々と考えてきたよ。わたしは理想的りそうてき普通ふつうな話を書きたいから、日常の中に題材があるんだ。森峰くんはどんな題材で書いたの?」

「題材は、苦い思い出かな」

 とっさに自己否定をうまく言い換える。最後にいい話みたいにまとめたから、嘘ではない。

 不意に、30分が1時間半の三等分した時間と気づく。色々と考えてきたという一言に、海野さんはどれくらい意味を忍ばせたのだろう。

「それじゃあ森峰くん、原稿げんこうを交換しよう」

 海野さんに原稿を手渡したときに気づく。

「……あれ? この感想会かんそうかいって、二人だから成り立つのか?」

「うん、実はそうだよ。一人増えるたびに、読む原稿も感想も増えていくからね。でもまあ、それはそのときに相談しよう」

「……色々と考えてくれて、ありがとう」

 海野さんは困り笑顔を浮かべたあと、何も言わずに原稿に目を落とした。それにならって、海野さんの原稿を読み始める。

 その内容は、宣言通りだった。

 コミカルな日常を描き、いかに理想的りそうてき普通ふつうかが一言でまとめられていた。

 高級なお肉を買ってきたら七輪しちりんが見つからなくて大慌て。家中の段ボールから様々な品が飛び出すたびに目的を忘れそうになりながら、なんとか七輪を見つける。夕食で七輪の焼肉に舌鼓したつづみを打つ贅沢ぜいたくこそ理想的りそうてき普通ふつうというお話。

 海野さんは先に読み終えて、感想会の進行を確認していた。

「読み合わせは10分くらいかかるね。感想は10分ずつになりそうだけど……普通ふつうは何を話せばいいのかな? 森峰くんは何を話したい?」

 一応、読み合わせのときに、細かな誤字脱字はメモした。だが、メモを渡せば済む話でもある。

「良かったところを話したいかな……考えをまとめるのにも時間はかかるし、どうせなら良いところを具体的に話したい」

「いいね! 森峰くんは先と後、どっちに話す?」

「それじゃあ、先に話そうかな。ちょっと要点をまとめるから、待ってほしい」

 記憶が新しいうちに、良かったところをルーズリーフに箇条書きする。それらをまとめて、感想に仕上げる。

理想的りそうてき普通ふつうが一種の誇張表現として面白かった。日本のどこかに七輪の焼き肉を贅沢にする家庭はあると思うし、その人たちなら七輪を家中探し回りそうな気がした。あと、段ボールの中身が多彩で、ふうを開けるときにワクワクしたかな」

 感想を言い終えると、海野さんはうやうやしくお辞儀する。

「感想ありがとうございます。これからも理想的りそうてき普通ふつうな話を書いていくからお楽しみに。次は、わたしの番だね」

 海野さんはすでにメモされた内容を確認する。

「苦い思い出から自責の念に囚われながらも――」

 原稿用紙四枚にわたる自己否定は、ばっさりとカットされる。

「――過ちを二度起こさない怒涛どとうの展開が良かったです。ビニール袋にしまった本で、sweepの正しい意味を学び、友人と好きな子に二人だけの秘密の時間を演出する。たしか、sweepの熟語に『sweep someome off their feet』で『誰々の心を奪う』といった意味がありますから、伏せられた二人のその後も容易に想像がつきます」

 sweepにそんな熟語があるとは知らなかった。

「何よりも、失敗談がごくありふれていて、わたしからみて理想的りそうてき普通ふつうでした。また、主人公の反省が行動に活かされている点も大変素晴らしかったです」

 自然と頭が下がり、感謝と訂正を伝える。

「感想ありがとう。海野さんのおかげで、少し自信がついた。あと、sweepのスラングは知らなかったから、偶然ぐうぜん産物さんぶつだった。今後は、反省が行動に活かされるような話を目指していきたいと思う」

 18時になり、感想会かんそうかいは海野さんの柔和にゅうわな笑顔とともに終わった。

 自由時間じゆうじかんになり、作品づくりに活かすべく、バックナンバーを読んで過ごす。

 今日も海野さんは最新刊を読み始める。その横で、古い方の冊子を手に取り、短編を読みながら連載を追う。途中、海野さんの感想を頭の中で反芻はんすうして、ニヤつくのをおさえる……今日もバックナンバーは作品づくりに活かされないだろう。

 下校時刻の18時半はあっという間に訪れる。先週と同様に部室を施錠せじょうし、海野さんの家まで二人で下校する。下校途中、話題は少なくても、秘密箱は開かなくても、沈黙は心地よく感じられた。

 ……そんな文芸部の日常が過ぎていく。

 部室には必ず海野さんが先にいて、時間まで一緒に宿題を済ませる。

 その後、四苦八苦しくはっくしながら執筆して、斜め上の感想に驚かされる。四苦八苦という言葉も、4×9+8×9で108の煩悩ぼんのうに繋がると教わった。

 一方、海野さんはスラスラと執筆して、感想に淡白な反応を示す。いつも想定通りといった印象の表情を浮かべている。

 18時半のチャイムまでバックナンバーを読んで、部室を閉める。そうして、雑談しながら帰り、海野さんの家の前で別れる。

 ……一人きりの帰り道、電車の車窓に葉桜はざくらが並ぶ河川敷かせんじきを見下ろしながら、そんな文芸部の日常に大翔がいればと考えてしまう。

 大翔ひろとなら、震災で家族と再会する話に、姉に溶岩プレートを仕送りする話に、どんな感想を返しただろう。

 伝言通りパンケーキをホットサンドメーカーで焼く場面は? 色々詰め込みすぎた段ボールをなんとか梱包こんぽうできた場面は? ここまで皆勤賞かいきんしょう七輪しちりんについては?

 きっと、大翔なら知己ちきんだ感想を返して、海野さんも今より楽しめたに違いない。

 最も、全ては妄想に過ぎない。

 秘密箱は、寄木細工よせぎざいく意匠いしょうが見事な部屋の置物になりつつある。最新刊は、古い方から読み進めればいつか読むことになる。

 おそらく大翔は、学校見学か文化祭あたりで、文芸部の廃部の危機を知っていたことだろう。

 しかし、廃部を食い止めること以上に、色んな作品を書いて、誰かと感想を伝え合う活動をしてみたかったんだと思う。

 そして、それはくぬぎ高校でなくてもできる。

 だから大翔なら、いま通っている私立高校で文芸部の活動を謳歌おうかしているに違いない。最早、合格発表日の真相解明に急ぐ必要はない。

 やがて電車がホームに着く。人混みに揉まれながら駅を抜ける。そうして、温かな街のあかりの中を歩いて帰る。

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