第1泳

 グリンという名の男の人魚は、砂に穴を掘って、そこを住みかにしているのだった。そこへ住み始めてから、人間の感覚でいうと長い年月が経つ。しかし、グリンは永久に近い寿命を持つ人魚という種族に生まれた。だから住みかの新旧など、気にしたことはなかった。

 この男の人魚が家に入って寝てしまったあと、海水の流れはやさしく、住みかの出入り口を埋める。それで、グリンが起きてすぐにすることは、両手で砂を払いのけて住みかから出ることだった。

 今日も、グリンは両手で砂煙を立てながら、穴ぐらから出てきたのだった。


 ちょうど通りかかった魚群は、グリンの立てた砂埃をさっと避けていった。

「みた? おれのはやい動き!」

「ばっちり避けてたね!」

 魚群はあっという間に遠ざかりながら、仲間の機敏な泳ぎをうわさした。


 グリンは両手で、顔に張り付いた砂を払った。

 右手と左手の大きさは、どちらも体の割に小さい。右手の指の長さは、左手のおよそ二倍もあり、ゴムを引っ張って伸ばしたように不自然に伸びている。

 反対に、左手の指はごつごつして関節も指幅も太い。両手の形も大きさも、それぞれにちがうグリンであった。


 頭を左右に、肩をぐるぐると回し、グリンは寝起きの体を軽くほぐした。それから近くの谷が見えるところで寝そべった。

 谷は深く、奥は見通せないほど深い。細かい砂が水流に乗って、音もなく落ちていく。谷が全てを飲み込んで底などないかのように振るまうのを時々見やりながら、海面から注ぐやわらかい日を浴びて寝転がる。それが、グリンのお気に入りの過ごし方だった。


 うつぶせになって腕を前で組み、グリンは顎を乗せてくつろいだ。背中や尾にやさしい日射しが降りかかる。じんわりとあたたかくて、なんとも気持ちが良い。


 グリンの住むあたりは、よく魚群が通る。魚の種類によって、ゆっくり泳ぐもの、矢のように通り過ぎるものと特色がちがっている。しかし魚群というものは噂話が好きなものだ。同じ群れの中でもいつでも何かを喋っているが、特に魚群と魚群が交わって泳ぐとき、おしゃべりはいっそう盛んになるのだった。

 大きな群れがいくつかグリンの上でぶつかって、一緒になって泳いだりすれちがったりしはじめた。噂話はもちろんグリンにも聞こえていた。

「ねえ! オンドロ海峡のドクターの話、聞いた?」

「ドクター?」

「なんでも治してくださるんだって!」

「切れたヒレも、ハゲうろこも、なんでも!」

「すごいお医者さまねえ!」

 グリンの尾は切れている箇所があるし、下半身を覆う鱗はハゲている。魚たちがそれを指したかどうかは不明だが、もしそうでも、グリンは外見を気にしないタチである。それに、このあたりの小さな魚たちというものは性格が単純で、嫌味なところがないのであった。


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