第18話 公爵令嬢のマドレーヌ 2
エレノアの部屋には菓子の焼きあがった甘い香りが満ちていく。
それは部屋の外、廊下にまで漂う食欲をそそる香りだ。
貝型の型もエレノアの魔法で創り出した。どうやら菓子に関わることならば、魔法の制限はないらしい。
「こ、これをお嬢さまが……天才です! 苦境の中で咲く美しき花のごとく、お嬢さまは新天地で新たな才能を開花させたのですね!」
「大げさね。菓子としては基本のものなのよ。まだ、熱いけど試食してみる?」
その言葉に反応したのはカミラではなく、ドアの隙間から覗いていたシルバーだ。目を輝かせ、鼻をすんすんと動かし、しっぽもパタパタとせわしなく動く。
《清らかな魂の子よ、でかしたぞ! なかなかに良い出来栄えだな!》
「カミラに言ったのよ。シルバーは食べても平気かしら、熱いわよ」
《うむ、我は獣ではないのでな。熱いものも食べられるぞ》
ぱふぱふとしっぽを振るシルバーの口元に、そっとエレノアは小さくちぎったマドレーヌを近付ける。はむっとマドレーヌを口にしたシルバーの青い瞳はキラキラと輝いた。
《旨い! これもまた旨いな! 甘くしっかりとした味わいだが、後を引く! 清らかな魂の子、もう一口!》
「よかった。口に合ったみたいだね、カミラはどう? ……カミラ?」
カミラはその黒い瞳に涙を称え、エレノアを見つめる。
熱さにやけどでもしたのかと心配するエレノアだが、カミラの口から出たのは称賛の言葉だ。
「見事な出来栄えです。素朴な見た目でありながら、豊かな風味でこれであれば皆、喜んで買うはずかと思います」
「良かったわ……。他の日との意見も聞きたいから、貴族用の厨房にも持って行こうかと思っているの」
「……わかりました。かごに入れて支度を致しますね」
シルバーにもカミラにも好評を得たマドレーヌだが、他の者の意見も聞きたい。正道会で販売するにはこれでいいが、貴族に進呈する菓子ならば見た目の華やかさも必要となるだろう。
マドレーヌは焼き色もこっくりとした落ち着いた色合いだ。デコレーションすることや味を変える方法でより華やかで、特別なものにする方法を考えるエレノアだった。
*****
「へぇ、これがそのマドレーヌっていう菓子かい?」
カゴに入ったマドレーヌを皆が珍しそうに見つめる中、アレッタがエレノアに尋ねる。先日、エレノアが余った素材だけで、トライフルを作り上げたのを目の当たりにしている調理人たちは、エレノアが菓子を作る話をすんなり受け入れた。
調理人と言っても中には街の人々が多く含まれる。菓子職人だけではなく、料理人も数人逃げ出しているのだ。
「はい、皆さんに試食して頂いてご意見を頂けたらと思いまして」
そんなエレノアの言葉にアレッタは呆れたようにため息を吐く。
アレッタたちはマドレーヌという菓子を食べた。その味は文句のつけようがない程、完成された味だったのだ。
「こんな旨いもんにあたしらが意見なんて言えやしないよ。これをこの施設で平民にも販売するってんだから、お貴族さまっていうのは大胆だねぇ」
「だからこそ、皆さんのご意見を聞きたいんです。こうであれば気軽に買いやすいとか……今回は貴族の方に作るので、その違いも出したいんです」
「お貴族さま向けとの違いか。確かに味はいい。だけど、平民向けと一緒じゃお貴族さまは納得しないだろうね。無礼な話になっちまうよ」
アレッタの言葉に他の料理人も皆頷く。
この菓子は十分味も良く、このまま販売できる品だ。しかし、同じものを貴族用に進呈するわけにはいかないだろう。
「でも、こんなに美味しい菓子を私たちも買えるなんて楽しみね」
「私、このお菓子半分だけ残して持って帰るわ」
だが、どうやらエレノアが作ったマドレーヌは皆の味覚にも合うものだったようだ。それがわかっただけでも十分、エレノアとしては満足である。
場合によっては、材料のことなど彼女たちにも頼ることになるかもしれないのだ。
エレノアは途中で会う平民研修士ラディラスにマドレーヌを配りながら、部屋へと戻り、貴族用のマドレーヌを考えるのだった。
真夜中にエレノアはそっと自室を出る。
今日はカミラも一緒で、ガウン姿ではなく簡素だが私服のドレスを着ていた。
カミラの腕にはカゴに入ったマドレーヌがある。
使用人用の厨房に向かう途中、ふとエレノアは足を止めた。今夜も祈祷舎には灯りが見える。きっと今夜も誰かが、真摯に祈りを捧げているのだろう。
慈しむようにエレノアは微笑みを浮かべる。
再び、使用人用の厨房に歩みを進めるエレノアは、いつかその人に会ってみたい。そんな思いを抱くのだった。
「コールマン公爵令嬢!」
慌てたように立ち上がろうとするメイドたちに、エレノアは穏やかな微笑みを返す。そこにいたのはマーサ、エヴェリン、ペトゥラの三人。エレノアにすれば、真夜中の菓子作り仲間、秘密の関係であったものたちだ。
「まぁ、カミラには知られていたのだけれどね」
後ろに控えるカミラをちらりと見ると、お嬢さまのことならば当然だという顔で控えている。
戸惑うペトゥラたちにエレノアは今夜訪れた理由を告げる。
「皆にも試食して貰って意見を聞きたいの」
「何の試食ですか!?」
「マーサ! ……申し訳ありません。私の指導が行き届かずに」
ペトゥラの注意に反省したように首を竦めるマーサの様子は微笑ましい。それだけ、フレンチトーストやウェルッシュケーキを気に入った証でもあるのだろう。
エレノアはカミラに目で合図を送り、カゴの中のマドレーヌを見せる。
小さく歓声を上げたマーサは慌てて口元を押さえている。
「今後、この聖リディール正道院でも菓子を販売していく考えがあるそうなの。それで、皆にも試食して貰えたらと思ったのよ」
「正道院でお菓子を作るのですか?」
驚いた様子のマーサとエヴェリンだが、ペトゥラは過去に『聖なる甘味作り』を行っていたことを知っていたらしく驚いた様子はない。
聖リディール正道院の聖なる菓子はかつては有名であったのだ。そうでなくなった一因に、貴族研修士ヴェイリスの存在があることはペトゥラも察してはいた。
若いマーサとエヴェリンは興味津々といった様子でマドレーヌを見つめる。
無作法だと再び注意しようとしたそのとき、カミラがマドレーヌをマーサに差し出す。
「こちら、頂いてもよろしいんですか?」
「えぇ、あなたもどうぞ」
「ありがとうございます」
「率直なご感想を頂けると嬉しいわ。さぁ、座って召し上がってみて」
二人は躊躇なくカミラからマドレーヌを受け取った。その姿にエレノアは好感を抱く。あの日、カミラを中傷したような者ばかりではないのだ。
ペトゥラもカミラから受け取る。三人とも受け取りはしたが、こちらを見ている。エレノアが着席しないため、誰も席に着けないのだ。
そのことに気付いたエレノアも席について、彼らにも着席を促し、自身もマドレーヌを口にした。
その様子にほっとしたようにマーサたちもマドレーヌを口にする。
「美味しい! バターの風味とハチミツの甘さが抜群ですね。これ、誰がお作りになったんですか?」
「私よ」
「へぇー……え! こちらもエレノアさまがお作りになったのですか!? 先日の菓子といい、なんて多才なの! これ、お店で販売できます!」
「マーサ、落ち着きなさい!」
だが、エレノアとしてはマーサの忖度のない素直な意見はありがたい。ここで変に気を遣われて後々、商品に問題があっても意味がないのだ。
エレノアは三人に聞いてみたかったことを尋ねる。
「味はいいと思うの。でもこれを貴族の方に進呈するには少し華やかさが足りないと思わない? 日頃、貴族の方と接する皆さんならわかるでしょう」
三人は目を合わせて、ためらいながら肯定の意を表すように目を伏せる。
見た目は十分に美味しそうな菓子ではあるが、貴族用となるとそれだけではいけないのだ。
そのとき、マーサがすっと手を上げる。その姿は授業中に教師に答えを言おうとする生徒のようだ。
「どうしたの、マーサ。何か気付いたことでも?」
「は、はい。実は私、とっておきのものを持っておりまして……コールマンさまにはお世話になっているので、お役に立てたらと」
そんなマーサにエヴェリンとペトゥラは不安そうに視線を交わす。この中で最年少のマーサは素直な性格だが、それゆえに行動があぶなっかしいのだ。
マーサは立ち上がると食品棚の奥をごそごそと探り出す。公爵令嬢であるエレノアがいるにもかかわらず、大胆な行動にペトゥラは青ざめる。
マーサは大事なものを抱えるように持って来た丸い缶を、エレノアに差し出す。
「これ、マドレーヌに使ってください! スミレの花の砂糖漬けです」
「スミレの花の砂糖漬け……」
蓋を開けると缶の中には紫色の小さな花の砂糖漬けが入ってる。
スミレの花の砂糖漬けとはまた趣味の良い甘味だとエレノアは思う。季節の花を砂糖で閉じ込めたその菓子は、マーサにとって特別なものだっただろう。
「これは……本当に使わせて頂いていいの? あなたにとって大切だったでしょう」
「……これはお嬢さまが私にくださったんです。私の育った家の周りには、良くスミレの花が咲いていたって話したときに、それならって」
「そんなに大事なお菓子、ますます頂いていいのかしら」
エレノアが躊躇するとマーサはぶんぶんと首を振る。
ぴっと指を一本立てると、秘密を打ち明けるように小さな声で話し出す。
「……実は、もう半分は寝室に隠してるんです。これはお仕事中に元気がなくなったときに、そっと摘まむようです!」
「これから、元気がなくなったらどうするの?」
その顔はまだまだ無邪気で幼い。
スミレの花の砂糖漬けは、彼女にとって支えだったのではないか。そんな考えがエレノアに浮かぶ。
だが、マーサはエレノアの言葉ににっこりと笑う。
「今はもう、エヴェリンさんもペトゥラさんもいますから! それにお貴族の方にもお嬢さまやコールマンさまみたいな方もいらっしゃるってわかったんです。だから、こちらどうぞお使いください」
そう言って大事な小さな缶を差し出す、マーサの厚意を拒むことは出来ない。
柔らかな微笑みを浮かべながら、スミレの砂糖漬けを受け取った。
「これを使って、マドレーヌをより可愛く華やかにするわね」
「はい! お役に立てて嬉しいです」
笑ったマーサはエヴェリンとペトゥラを振り返って、自分の行為が間違っていないか視線で尋ねる。そんな彼女に、二人は微笑んで頷く。
受け取ったスミレの砂糖漬けはマドレーヌを彩る、素敵なアクセントになるだろう。
真夜中の菓子作りを手伝ってくれたマーサからの、思いがけない厚意にエレノアは自然と口元を緩めるのだった。
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