第17話 公爵令嬢のマドレーヌ
自室へと戻ったエレノアは事情をシルバーにも説明する。
話を聞いたシルバーはベッドの上で青い瞳を輝かせ、嬉しそうにしっぽをパタパタと振って答えた。
《そうか、この場に訪れる者が増えるのか! 神への祈りを捧げる者が増えることで神の存在はより安定され、世界もまた秩序を保つ。流石、我が選びし清らかな魂の子だ!》
確かに菓子を販売し、人々が足を運びやすい場になることで神に祈りを捧げる者も増えるだろう。どうやら、エレノアの行動はシルバーやこの国のためになることに繋がるようだ。
だが一つ、今後菓子を作っていくにあたり、どうしても欲しいものがある。それはエレノア、天海ハルにとって今までの努力の象徴だ。
そして、これからの菓子作りにはそれが必要不可欠なのだ。
「ねぇ、シルバー? 私の魔法ってお菓子を作りたいっていう願いに関係していれば、属性にかかわらず使えるものなんだよね」
《うむ、そうだが。どうした?》
「私が大事にしていたレシピ本も魔法で再現できないかなって。それがないと複雑なお菓子は難しいと思うんだ」
ふむと一言呟いて小首を傾げたシルバーだったが、その答えは明快なものだ。
《そのようなこと、我と名づけの契約を交わした汝ならば容易いだろう。試してみるといい》
そう言うとシルバーは得意げに胸を逸らす。
カミラは奥で控えているが今のこの会話は日本語であり、彼女には話している内容は伝わらない。そもそも、シルバーの声はきゅうきゅうと鳴いているようにしか他の者には聞こえないのだ。
どうやらシルバーとは言語に限らず、会話することが出来るようだ。
カミラに聞かれてはまずい内容の時は、日本語に切り替えようとエレノアは決める。
エレノアが不可思議な言葉を扱う姿に、カミラはますますエレノアへの敬愛を深めている。彼女にとってエレノアは特別な存在、それは白い狐が顕現する前から揺らがないのだ。
エレノアは瞼を閉じて、願う。魔法を使うのは二度目だが、感覚としてわかるのは強く願うことが必要だという点だ。呪文や技法はない分、その願いの強さや想像する力が影響する。創造することには強い思いが必要となるのだ。
胸元に置いた手の中にずっしりとした重みを感じて、エレノアは目を開ける。
そこには見慣れた、少し汚れた分厚い手帳がそこにあった。それは天海ハルの努力の証、日々の中で書き溜めてきた菓子のレシピ集だ。
菓子を作ってはその材料を増減し、理想の形を求めてきたハルは様々な菓子のレシピをそこに綴ってきた。所々、汚れているのは菓子を作った際のもの、それもまたハルの思い出なのだ。
紫の瞳が潤み、ぽろぽろと涙となってこぼれ出る。
失いたくない祖父母はもういない。物に固執することがないハルが唯一大事に思っているのはこの自作のレシピ集なのだ。
この中には祖父母に初めて作った菓子も書かれている。そのときより、ずっと洗練されたレシピにはなったが、祖父母の笑顔の思い出は今でも失われることはない。
「……そうね、マドレーヌがいいかもしれない。親しみがあって、誰にも好まれる味だもの。正道院で販売するのはシンプルに、貴族の方に進呈するのは味を変えたり、華やかにしてみたらいいと思うの」
《む、我にはわからぬ。清らかな魂の子、それは旨いのか? 旨いものなのだな?》
「うん。きっと皆もシルバーにも気に入ってもらえると思うな」
《そうか! それは良いな。うむ、楽しみにしているぞ》
一方で、自身のわからぬ言葉が書かれた書籍を大事そうに抱えるエレノアの姿は、カミラにはどこか遠く思える。自分が知らないエレノアがいたことにカミラは寂しさを感じたのだ。
同時に今、目の前にいるエレノアと自分の知るエレノアの姿に違いがあるのではという戸惑い、不安がカミラの胸によぎる。
大事そうに汚れた冊子を抱きしめるエレノアの姿は喜びに満ちている。そんな主人の姿を心の底から喜べないカミラはただ黙ってその姿を見つめるのだった。
*****
エレノアの魔法で創造したシステムキッチンで、マドレーヌ作りは始まった。
小麦粉、砂糖、ハチミツに牛乳など、必要な材料は正道院の貴族用厨房から分けて貰った。魔法で殺菌消毒した新鮮な牛乳、質の良いハチミツにエレノアは目を輝かせる。限られた素材で作るからこそ、良い食材を用意する必要があるのだ。
「マドレーヌは基本的なお菓子なんだけど、だからこそ焼き加減も難しいわ」
《ほう、なるほど。バターとやらは溶かすのだな》
「そうよ。溶かしたバターを温めて置いて、その間に卵を混ぜて砂糖を入れてかき混ぜるの。そのあとにハチミツを加えて、また混ぜるのよ」
会話をする二人だが、シルバーはキッチンにはいない。隣の部屋のドアにくっつき、きゅうきゅうと鳴いているのだ。エレノアはその声と会話している。
実際にキッチンにいるのはエレノアとメイドのカミラだけだ。衛生的なことを考えたエレノアがキッチン立ち入り禁止令をシルバーに告げたのだ。
マドレーヌの試食と交換にシルバーは渋々それを受け入れた。
「カミラ、振るった粉を貰える?」
「はい、お嬢さま。こちらです」
小麦粉とふくらし粉を振るった粉を卵のボウルへと加える。
振るった粉を入れた後、木べらで切るように混ぜていく。粉っぽさがなくなったら、魔法貯蔵庫に入れて生地を休ませる。
「生地を寝かせた後、焼き上げていくのよ。ここで販売する分にはこれでいいと思うんだけど、献上用は工夫が必要よね。庶民と同じものだと機嫌を損ねるかもしれないもの」
「はい。味や見た目を変えるなど、特別な形にすることをおすすめします」
「ええ、どんなものがいいか、もう少し考えてみるわ」
修道院や神社で菓子などを販売する風習は転生する前の世界でもあった。
同じようにこの聖リディール正道院と外の世界を繋ぐ菓子を、これから作っていきたらと思うエレノアであった。
コンコンというノックの音で、作業を中断してカミラは来訪者を迎え入れる。
訪れたのは正道院長とグレースだ。二人は貴族用の厨房にエレノアたちが訪れないと聞いて、やはり無理な願いであったかと自室まで来たのだ。
だが、部屋に入った二人は言葉を失う。
エレノアの部屋は見たことのない魔道具や家具が置かれ、一新されていたのだ。
「こ、これは何が起こっているのですか……!?」
「先程、許可を頂いたように部屋を好みに代えさせて頂いた結果です。お菓子作りもこちらで行うつもりなんです」
「確かに許可は致しました。ですが、このような品々をどうやって……」
「コールマンさまのお付きの方は、バッグ2つしかお持ちでなかったはずです」
そう、エレノアが正道院に到着した日、グレースは所持品がバッグ二つしかないことに驚いたのだ。
だが、今は別の意味で驚いている。数日のうちにどのようにこのような家具や魔道具らしきものを、エレノアは用意したのだろうと。
そんなとき、イライザとグレースは隣の部屋のドアから青い瞳がこちらを見つめている姿に気付く。白いモフモフとした毛並み、そしてちょこんと覗く三角の瞳に、ぶんぶんと振っているしっぽを持つその生き物に二人は驚愕する。
「あれは……狐? 白い狐ではありませんか……エ、エレノア嬢は聖女……? あぁ、私はなんということを聖女さまに頼んでしまったのでしょう」
「聖女さま……確かに今までのご令嬢とは異なります! なんてこと……そのお姿を拝見できるなんて……私はなんて幸福なのかしら!」
ちらりとエレノアがドアの隙間を見ると、シルバーはびくりと体を震わせる。
どうやら、菓子の制作状況が気になったシルバーは覗き見をしていたらしい。
そっと部屋の奥へ戻ろうとするシルバーをむんずと掴んだエレノアは、にこやかなよそいきの表情を浮かべ、イライザたちの前に白い狐を差し出す。
「よくご覧になってくださいな。白い狐ではありません。白い犬ですわ」
《な、我は狐でも犬でもなく、神の遣いで……!》
きゅうきゅうと白いモフモフが抗議するが、エレノアは笑みを崩さず、イライザとグレースに視線で問いかける。
瞬きをしつつ、白い狐を見つめていたイライザとグレースは一つの答えに辿り着く。そう、これは白い犬なのだ。
まさか白い狐が降臨し、聖女となるなどそんな奇跡のようなこと、自分たちの身近で起こるとは思えない。起こりえない真実より、起こりうる嘘の方が受け入れやすいものなのだ。
「そ、そうですね。お恥ずかしい。見間違えてしまうなんて……」
「ですが、コールマンさま。このお部屋の変わりようはどうなさったのですか?」
白い狐を白い犬だと言い逃れすることが出来ても、この部屋の変わりようは誤魔かしようのない事実だ。だが、エレノアは微笑みを崩すことはない。こちらにも前日から考えていた言い訳がある。
「これは生活魔法ですわ」
「せ、生活魔法と言いますと、あの水を出したり清掃に使う基礎的な魔法ですよね? ですが、あれは生活に使う最低限のものだと思うのですが……」
おずおずと尋ねるグレースに微笑みを称えたまま、エレノアは答える。
「私は魔力量も人より多いですし、幼い頃より生活魔法を使っているうちにこのようなことになりましたの。生活に使う最低限の魔法と言っても人それぞれに必要な規模は異なりますから」
エレノアの答えにイライザもグレースも納得する。公爵令嬢で魔力も多いエレノアであれば、確かに自分たちと必要な生活魔法も異なるのだろう。
正道院で真面目に日々を生きる二人は純粋でもあるのだ。
犬でも狐でもないと、きゅうきゅう抗議するシルバーの声はエレノアの「あとで一緒にマドレーヌを食べようね」そんな一言で聞こえなくなる。
こうしてエレノアは白い狐と規格外の生活魔法(?)を、正道院長であるイライザにも正式に認められた。
シルバーは白い犬として、エレノアと行動を共にすることが可能となったのだ。
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