第16話 エレノアのするべきこと
目を瞬かせるエレノアだが、イライザの様子は真剣そのもの。今もまっすぐエレノアを見つめ、その返答を待っている。
ちらりとグレースに視線を移すと胸の前で手を組み、申し訳なさそうに頷く。
どうやら、菓子が作れるということはここから伝わったらしい。
貴族用の厨房で確かにエレノアはその場にあった材料でトライフルを作り上げた。
だが、どうして正道院長自ら、エレノアに菓子作りを依頼されるのかが不明である。
「正道院長、返答の前に事情をお聞かせ願えますか? どうして菓子作りをする必要があるのか、誰のためなのか、私には事情がよくわかりませんので」
エレノアの言葉にイライザもグレースもハッとしたようだ。
どうやら菓子作りが出来る人物を見つけ、依頼することしか頭になく、このように慌ただしいことになってしまったらしい。
「……あなたの言うとおりね。急を要する話で慌ててしまっていたわ。どうぞ、後ろのソファーにお座りになって。事情を説明いたします」
イライザに促されたエレノアはソファーに腰掛ける。エレノアの前の席に座ったイライザは今回の事情を説明し出す。公爵令嬢に菓子作りを依頼する。そんな突拍子もない頼みをするにはそれなりの事情があるのだ。
「さて、貴族用厨房の菓子職人が逃げ出した話は聞いていますね」
「いえ、いないとは聞いておりますが、逃げ出したとは……」
正道院長イライザはちらりとグレースに視線を移すと、ハッと気付いたグレースが困ったような表情に変わる。どうやら、行き違いがあったらしい。
気を取り直した正道院長イライザは再び、エレノアに説明を始めた。
「元々、正道院で作る菓子は人気があり、貴族の方に進呈もしておりました。その返礼として砂糖や小麦粉、または運営資金などを頂いていたのです」
確かにハルの記憶の中でも、修道院などは菓子を作って販売することもある。そこから名物が生まれ、施設の名と共に評判になっていくというのもよく聞く話だ。正道院も同じように、信仰会以外からの資金以外にも寄付を募って運営をしているのだろうとエレノアは思う。
「元は貴族の家の料理人や正道院のみが菓子を作り、その地、独自の菓子を作っていました。それぞれの誇りの菓子があったり……ですが、近年その風習が変わっていってしまったのです」
「それは……貴族研修士ヴェイリスが影響しているのですか?」
「……あなたが聡明な方で助かります。えぇ、そこが大きな理由なんです」
エレノアがヴェイリスが関わっていると感じた理由は二つある。
一つは公爵令嬢であるエレノアに菓子を作るよう打ち明けた後もイライザの態度には心苦しさがあったこと、もう一つは平民研修士ラディリスのエレノアへの態度だ。
必要以上に丁重に扱われることから、この場にいるのは謹慎のためにも関わらず、貴族令嬢たちは今までと変わりなく過ごしているのだろうと推測したのだ。
「菓子職人というのは限られた者しかおりません。この正道院にもかつては研修士が菓子を作っていましたが、時代と共に失われました。そのため、菓子職人を雇っていたのです」
「その職人がここを去ってしまったのですね」
「えぇ、ヴェイリスたちの注文の多さに辟易したようで……何度も引き留めていたのですが、ついにいなくなってしまって。現在、雇用している者は菓子の知識などありません。新たに雇用する者を探している最中に、貴族の方から菓子を希望する文が届いたのです」
それにしても公爵令嬢であるエレノアに依頼するなど、思い切った話である。身分で言えば、エレノアがこの正道院に置いて最も高い。にもかかわらず、このような願いを言ったのは果たしてその貴族だけが理由なのかと思うエレノアに、慌てたようなグレースの声が届く。
「今現在、多くの正道院は貴族の方からの寄付、それもヴェイリスのご家庭より寄付を頂いております。それはこの聖リディール正道院にいるヴェイリスのため、そのことに関する危機感を我々は抱いています!」
「グレース! 待ちなさい、まだ話が終わっていません」
「ですが、コールマンさまに本来の私たちの目的をお伝えするべきだと思います」
どうやら、彼女たちには貴族に菓子を進呈する以外にも、菓子作りを進めたい理由があるようだ。
真剣なグレースの様子にイライザも折れたようだ。ふぅと息を吐いた後、エレノアに真摯な目を向ける。
そして、正道院長であるイライザは兼ねてより抱えていた問題を、初めてグレース以外の者に打ち明ける決意をするのだった。
*****
ことりと置かれたカップからは紅茶の香りが漂う。
グレースが入れてくれたものだが、茶葉を入れていた缶から決して高価なものではないことがわかる。
だが、そんな紅茶を正道院長であるイライザが飲んでいる姿を、エレノアは好もしく思った。慎ましやかで堅実な姿勢は第一庭園で作業をしていたラディリスたちにも通ずるものがある。
それは貴族令嬢であるヴェイリスたちとは対照的だ。
おそらく、彼女たちが抱く危機感というものはそこに関係してくるのだろう。
「先程、グレースが申した通り、貴族令嬢であるヴェイリスと平民出身のラディリスではここでの在り方が異なります。本来は自然と共に過ごし、感謝をするのが研修士の在り方なのです」
そう言われてエレノアの頭の浮かぶのは第一庭園で働いていたラディリスたちの自然と調和した美しい姿だ。確かにあの姿はイライザが語った研修士の在り方と同じものである。
「令嬢たちをここで引き受けているのも、ここでの暮らしで心身ともに清らかに過ごす力となれればという考えからでした。ですが、現状は金銭的な寄付の影響で彼女たちの行動を規制出来ずにおります。情けないことですが、上からの指示もあるのです。私はこの現状からもう一度、原点に立ち返り、『聖なる甘味作り』を目指したいのです」
正道院長イライザはその思いの丈を正直にエレノアに打ち明けた。
本来ならば、同じ貴族令嬢であるエレノアにヴェイリスのことを言うのは躊躇われた。だが、グレースから聞いていた人となり、また正直に話すことが誠意だとイライザには思えたのだ。
話を聞いたエレノアは表情を変えず、沈黙を保つ。
やはり無謀で非礼なことであったと自らの行為を顧みる――そのときだった。
「素晴らしい。素晴らしいですわ! 私、賛同いたします! 自給自足のスローライフですね!」
「え、ええ、すろー、なんとかはわかりませんが、菓子を進呈しその評判が良ければ自給自足で菓子を作って、それを貴族だけではなく街の人々にも販売していくことを考えています」
「ますます素晴らしいですね! ぜひ協力させてください!」
喜色満面に溢れたエレノアの表情に、イライザもグレースも驚く。それは気難しいという噂とは異なり、気取らず愛らしい姿である。
無礼だと受け取られても仕方のない菓子を作るという依頼を、公爵令嬢であるエレノアは嬉しそうに引き受けると言ったのだ。
「その……本当によろしいのですか?」
「えぇ、もちろん!」
そんなエレノアに後方で控えていたカミラがそっと話しかける。この場で言っておいた方が良いことが一つあるのだ。
「エレノアさま、ペットを飼われたことは報告いたしましたが……自室をエレノアさまのお好みに変えた件もご報告が必要かと思います」
「そのようなこと、他の令嬢たちもなさっています。気にする必要はありません」
カミラの言葉に、イライザは笑って首を振る。様々に華美なものや不要なものを持ち込む令嬢はいるのだ。
このような無理で不躾なことを、笑顔で引き受けてくれた公爵令嬢エレノアに敢えて些細な注意をする気はイライザにはない。グレースもエレノアの微笑ましい報告に口元は弧を描く。
「ありがとうございます! それでは先程、お話し頂いた貴族の方へ進呈する菓子にさっそく取り掛かりますね!」
「こちらこそ、無理を申し上げたのに快諾頂けてありがたいわ」
「ありがとうございます! コールマンさま」
こうして、エレノアは白い狐を飼うことに続き、自室を好みに変えた(大規模な改築)も正道院長の許可を得た。
後々、面倒なことになっても正式に許可をとったことは揺るがない。そんなカミラの意図があるのだ。
一方のエレノアは自分の思い描くスローライフの実現に目を輝かせる。
第一庭園のハーブ、養蜂で採れるハチミツに牛を育てているのだ、新鮮な牛乳にバターなど菓子作りに向いたものも豊富にあるだろう。
作った菓子を貴族だけではなく、街の人々にも食べて貰える。カミラが言った通り、父や兄に送っても喜ばれるだろう。
「いえ、私も菓子作りが出来ることが嬉しいですわ」
エレノアの紫の瞳はいきいきとした輝きを放つ。
こうして、公爵令嬢エレノアは謹慎するはずの正道院で、菓子作りに勤しむことになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます