第2話

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 柔道部を辞めたことを告白してすっきりしたようで、一升が空くと、鷹山はそのまま床の上で眠ってしまった。鷹山に毛布をかけてやりながら、私は三年前のめいだい杯のことを思い出していた。

 私が高校二年から三年になる春休みのことだ。名古屋大学柔道部が、近隣の進学校を集めて初めて大会を開いた。

 旭丘高校は三位に終わったが、そのことは当時愛知県で敵なしだった強豪のとうかい高校がいたのでしかたない。

 問題はそのあとの合同練習だ。

 私は名大生とのらんり(試合形式の実戦的練習で試合と同じルールで全力で戦う。ボクシングでいういわゆるスパーリング)で相手を投げようとしたところをいきなりわざに引きずり込まれて、まるで洗濯機の中で回される靴下のようにちやちやにされ、大きなショックを受けた。小柄な白帯選手にまで簡単に絞められ、関節技をめられ、おさまれた。インターハイに出ている東海高校の選手たちも同じようにやられていた。

 名大生たちの耳は一様に汚くつぶれていた。寝技乱取りをたくさんやると、相手の柔道衣や畳でこすれて耳に内出血を起こし、それがしわくちゃに盛り上がったまま固まるのだ。柔道界ではこういう耳は餃子ぎようざみみと呼ばれ、寝技が得意な柔道家の勲章と言われていた。

 試合後のレセプションで、名大の主将が立ち上がり、私たち高校生たちを前に長い熱弁を振るった。

「試合後の合同乱取りで気づいたと思いますが、実は名大は君たちがやっている普通の柔道とはまったく違うルールで柔道をやっています。寝技中心の七帝柔道というものです。いま普通に行われている柔道は、柔道の総本山『こうどうかん』の柔道、明治十五年つまり一八八二年にのうろうという人がち上げ、それが世界中に広がった講道館柔道です。全日本選手権や五輪、インターハイやインカレ、それらはすべてこの講道館柔道です。みなさんが高校でやっているのもこの講道館柔道です。この普通の柔道、つまり講道館柔道はなげわざで投げた後しか寝技への移行を認めていません。いわゆる『引き込み禁止』ルールです。でも、私たちがやっている七帝ルールでは、この『引き込み』が許されていて、組み合ってすぐに自分から寝転がって寝技にいってもいいことになっています。それから、寝技が十秒くらいこうちやくすると今の柔道では審判がすぐに『待て』と言って両者を立たせて、またたちわざから試合を再開させますよね。七帝ルールには、あの『待て』もないので試合でもはじめから終わりまで延々と寝技を戦い続けます。有効とか効果というポイントもありません。勝負は一本勝ちのみで、場内と場外の仕切りすらありません。これは、戦前のこうせん柔道という柔道の伝統を受け継ぐものです。今では七つの旧帝大だけ、つまり北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の七校だけが、年に一度、七月に七帝戦という大会を開いて戦っています。名大は一昨年おととし、前年優勝の京大と決勝を戦ってこれを追い詰めましたが決着が付かず両校優勝となりました。去年はなんとしても単独優勝したかったのですが、決勝で二年連続で京大と戦い、三人残しの大差で敗れてしまいました。京大はこれで三連覇です。京大を破り、この手に再びあの優勝旗を、こんの大優勝旗を握りたいのです。七帝戦は十五人の抜き勝負、総力戦です。君たちの力を貸してほしい。名大柔道部に入ってほしい」

 なぜここまで熱くなれるのかというほどのストレートな情熱だった。はじめのうちざわついていた百人以上の高校生たちは静まりかえった。

「井上やすしさんの『北の海』という自伝小説があります。これは、ぜひみなさんに読んでほしい本です。戦前の高専柔道の姿がリアルに描かれています。そのなかにおおてんじようという名前の豪傑の浪人生が出てきますが、その大天井のモデルになったのが、いま名大の師範をしてくださっているさかみつすけ先生です」

 主将が紹介すると、隣に座っていた肩幅の広い老人が立ち上がって頭を下げた。

 主将はさらに説明を続けた。

 君たちは、今日、名大生に寝技に持ち込まれて歯が立たなかったでしょう。何もできなかったでしょう。でも実はうちの部員の何割かは大学から柔道を始めた選手です。君たちも数年間この道場で寝技の猛練習に耐えれば、ああいった寝技を身に付けることができます。それが七帝柔道です──。


 名大杯のあの日、私はみんなと別れてから本屋へ行き、『北の海』を買った。

 そしてそのかなり分厚い文庫本を、地下鉄の中で読み、電車の中で読み、食事中も入浴中も読み、そのまま午前四時半までかけて読み切ってしまった。

 主人公のがみこうさく、すなわち井上靖は、きゆうせいぬま中学(現在の沼津東高校)を出て旧制静岡高校(現在の静岡大学)を受験して失敗、浪人しながら母校沼津中学で後輩たちに交じって柔道をやっていた。そこへ旧制こう(現在の金沢大学)の柔道部員がスカウトにやってくる。戦前の学制では、旧制中学は五年生まであったので旧制高校生が年齢的に今の大学生にあたる。だから洪作はこの時点で十八歳くらいだ。

 小柄なそのはすという白帯選手と乱取りした洪作は、組み合うやすぐに寝技に引きずり込まれて子供扱いされ、がくぜんとする。この蓮実の寝技中心の異形の柔道こそ、戦前、寝技技術の圧倒的高さで、柔道の総本山である講道館や、古流柔術諸派の大家が集う大日本武徳会とその付属のプロ養成機関「せん(武道専門学校)」をも脅かしていた高専柔道であった。体格や才能にすぐれた講道館や武専の専門家たちを寝技だけに特化した圧倒的な練習量で脅かしていた高専柔道であった。

 洪作を、蓮実はこうかきいた。

「金沢へ来ませんか。毎日、昼は道場で僕らと一緒に練習し、朝と夜は受験準備をする。僕らもはいって貰いたいから応援しますよ。そして、あわてないで、三、四年がかりで合格することを考える。三、四年勉強すれば必ずはいれますよ。それでだめなら、五、六年がかりにする。はいると、すぐ選手として使える」

 そういう浪人生が金沢にはたくさんいるという。あまりにすさまじい柔道への情熱だった。当時、旧制高校への進学率は〇・五パーセント程度で、現在の感覚では考えられないほどのスーパーエリートたちであった。そういった青年たちがここまで柔道のことばかりを考えていたとは、いったいどういうことなのか──。

 蓮実は、自分たちの柔道に対する考えをこう話した。

「練習量がすべてを決定する柔道というのを、僕たちは造ろうとしている。そういう柔道があると思うんです。そういう柔道があるかどうかは、僕たちが自分でやってみないことには判らない。それをやろうと思っている。僕などは体は小さいし、力はないし、素質は全くない。四高へはいって、初めて柔道着というものを着た。練習量にものを言わせる以外、いかなるすべもないわけです」

 蓮実はどうしても自分たちは宿敵六高(現在の岡山大学)に勝って高専柔道大会の覇権を取り戻したいのだと言った。

 洪作は浪人生の身でありながら誘われて金沢に赴き、そこで四高の夏合宿に参加する。四高はその年も六高に勝てずに連覇を許したため、練習は壮絶を極めた──。

 私が『北の海』にかれたのは、作中の四高生たちが、目指す高専大会というものに対し、おどろくほどしんだったからだ。洪作を口説く文句も、とにかく六高に勝ちたい、高専大会で優勝したい、ただそれだけのまっすぐのものだ。彼ら旧制高校生たちをそれほどのめりこませた高専柔道とはいったいどんなものだったのか。

 その答を持つ名大生たちに私は実際に会ってしまったのだ。戦前の高専柔道を受け継いで特殊なルールで世間に知られずやっている七帝柔道という存在を知ってしまったのだ。

 名大杯ではキャプテンの全高校生を前にした熱弁だけではなく、帰り際、私は何人もの名大の上級生たちに直接声をかけられた。

「待ってるから。必ず入ってくれ。力を貸してほしいんだ」

 彼らの眼はみな自信に満ちていた。それは寝技が強いからという単純な理由とは明らかに違った。自分たちがやっていることそのものに対する自信に満ちていた。私がそれまでの人生で一度も会ったことがない種類の魅力的な男たちだった。

 いったい、彼らのこの自信はどこから来るのか。

 私はこの名大杯の二カ月後、五月にインターハイの愛知県予選に出て、なんとなく勝てるだろうと思っていたらなんとなく負けてしまった。

 旭丘からはけいおう大の柔道部に行く先輩が何人かいた。なんとなく、自分も何年か浪人して慶應か早稲田の柔道部にいきたいなと思っていた。なんとなくばかりだった。七帝柔道はなんとなくばかりの人生に私が初めてみつけた目的だった。私はすでに自分のたちわざの才能のなさに見切りをつけていた。東海高校などにどうしても勝てない選手が何人も何人も何人もいた。立技をやる大学へ行っても自分の伸びしろでは知れている。でも、寝技なら──と思った。私を練習でぼろぼろにした名大の白帯の学生のように、寝技なら何かが変わるのではないか。そしてなによりも、あの名大生たちの自信に満ちた眼の理由も知りたかった。なぜあそこまで七帝戦というものに真摯に向き合っているのか知りたかった。

 家を離れて暮らしたかった。どこか遠くへ行ってみたかった。だから北大か東北大か九大を目指そうと思った。それまで私は柔道ばかりやっていて受験勉強どころか勉強そのものをまったくしていなかったが、のんびり二、三年浪人していればそのうちどこかに受かるだろうと思った。とりあえず一年目は観光気分で一番遠い北大を受けた。

 しかしその受験時に、なにもかも純白の雪で塗り固められた札幌の街のけいに魅せられ、そしてひりつく冷気に魅せられて、この土地に移り住みたいと強く思い、机の前に「目標、北海道大学柔道部」と書いた大きな紙を貼って一浪、二浪と北大だけを三回受け続けたのだ。

 鷹山の寝顔を見ながら、私もこれで前に進めると思った。友達の鷹山が言いにくいこと──柔道部を辞めたことを、自分の口で言ってくれたのだ。

 次の日、私は鷹山の部屋を出て西村アパートに移った。

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