第3話
第2章
1
初めてのひとり暮らしを始めた私は、しかしその日から何もやることがなくて困った。
地下鉄に乗ってススキノへ出たり、近くの古書店で本を買ってきたりしたが、すぐにそんなことには飽きてしまった。とにかく暇で暇でしかたなかった。
大家が「びっくりするくらい
四月五日、まずはとにかく大学生気分というものを味わってみようと、アパートから歩いて十分くらいのところにある北大教養部の食堂まで昼飯を食いにいった。
定食をプラスチックトレイに載せて座る場所を探していると、頭を短く丸めた目つきの悪い男がいた。ふてぶてしく椅子の上にあぐらをかき、食い物を口に運んでは、不機嫌そうに口を
しかし、濃紺に赤いラインが入ったその毛玉だらけの服は、どうみても柔道ジャージだ。
横目で確認すると胸に〈北大柔道〉と赤い
男がこちらの視線に気づき、ぎろりと私を見た。慌てて視線をそらし、離れたところに座った。
しばらくして目を上げると、その男はまだ私をじっと
2
四月八日は昼過ぎに起き、二時過ぎにアパートを出た。
入学式をどこでやるのかは知らなかったが、おそらく体育館でやったのだろう、着飾った学生たちがまだ何人か構内をうろうろしていた。体育館の陰にはたくさんの雪が残っていた。
私は高校時代に柔道部で揃えて作ったジャージを着てそのあたりを行ったりきたりしていた。体育館の裏にある武道館に入る決心がつかなかったのである。一度入部すれば四年目の引退の日まで縛られるのだ。
武道館を外から眺めると、二階の右の窓に「柔道部」と大書した紙が貼ってある。その左側に「剣道部」、その下の一階には「空手部」とあった。
さんざん悩んだ末、武道館に入った。
入り口ホールで何十人もの学生が少林寺
ホールの自販機で缶ジュースを買い、それを飲みながら階段の脇に座った。二階の様子を
「君は新入生か。見学に来たのか」
「私は剣道部のOBだが、何か」
「あ……すいません……」
「気にしなくてもいい。一生懸命やりなさい。学生時代は一度きりなんだから」
彼は赤くなって頭を下げ、走って練習に戻っていった。
水を飲みに来るのかトイレに来るのか、ときどき耳の潰れた柔道部員が
柔道場に上がるかアパートに戻るか──。
悩みに悩んだ。
剣道部の男からも声をかけられた。今度は「俺は少林寺拳法部のOBだ。見てわからないのかね、君は」と叱ってやった。剣道部員は驚いて「失礼しました!」と頭を下げ、行ってしまった。
さらにそこから一時間近く
その瞬間、湿度の高い空気が私の顔を覆った。
広い道場で、まばらに十数人が
入部はやはり明日にしよう……。
そっとドアを閉めようとすると、ストップウオッチを持った男が私を見つけて小走りにやって来た。
「新入生かい?」
柔道家にはみえないほどすらりと背が高く、理系の学者のような雰囲気だった。
「はい……」
「入ってこいよ」
もう逃げられない。私は道場に入り、後ろ手にドアを閉めた。
男は眼鏡を人差し指で上げながら、
「ここに出身校と名前、住所を書いてくれ」
壁に新聞紙大の紙が三枚貼ってあり、上から数人の名前が書いてあった。しかたなく出身校や名前を書いていくと、「君、もしかして鷹山の
「はい、そうですが……」
「鷹山に昔からよく聞いてたよ。そうか、受かったのか。よかったな」と私の背中を叩いた。そして「俺は二年目の
杉田先輩に促されて、二台あるベンチプレス台の一つに座った。脇に大量のバーベルプレートやダンベルが無造作に置いてあった。
「昨日、もう二人入部してるよ」
壁の紙をよく見ると、たしかに二人の名前の左に花丸が描いてあった。
「その二人はどこにいますか」
私が聞くと、杉田先輩が笑った。
「おい。そういえば今日、入学式だって言ってたぞ。君は出てないのか」
「はい」
「はっははは。鷹山に聞いたとおり、いい加減なやつだな」
杉田先輩が部室内から『北大柔道』という厚さ一センチほどの書物を持ってきて「これ、一冊やるから持って帰りな」と言い、もう一つのベンチプレス台に座った。毎年現役とOB全員に配られる年刊誌だという。巻末にOBや部員の名簿が載っており、それを見ながらいろいろ教えてくれた。
「二年目は杉田先輩だけだって鷹山から聞いたんですが……大変ですね」
「いや、鷹山が十一月に
三人いると聞いて少しほっとした。しかし入部したばかりなら一年目と実力的には同じだ。
それから杉田先輩は名前の後ろに先輩とはつけなくていいと言った。うちの部は、名前の下にさん付けするだけでいいのだと言った。
顔中に
「ほう。新入生かい」
乱れた道衣の隙間から見える胸の筋肉が女の
「道衣を着てみたらどうだ」
仁王が言った。
私は慌てた。
「いえ、二浪なんでとてもまだ無理です」
「いいだろう。なあ杉田、柔道衣持ってきてやれ」
杉田さんが部室に入っていって、汚い道衣を持ってきた。受け取るとひどい臭いがした。仁王はすぐに乱取りに戻っていった。
杉田さんが、あれは四年目の副主将で斉藤
しばらく話していると、別の男が乱取りを抜けてやってきた。それを見て、私はびっくりした。教養食堂で私を睨んでいた、あの目つきの悪い男だ。眼光
「杉田、この男、新入生かいね?」
その男が怒ったように言って私をじろじろ見た。強い
「三年目の
杉田さんが教えてくれた。
「怖そうな人ですね……」
「はっはは。怖くない怖くない。優しい人だよ」
座り直して『北大柔道』をめくった。和泉唯信と書いてあった。
杉田さんがそれを見て言った。
「下の名前は音読みでユイシンて読むんだ。坊さんなんだよ、家が」
なるほど、それで頭を丸めているのだ。部員はそれぞれ好き勝手な髪型をしていた。
「和泉さんてハーフですか?」
練習は鷹山に聞いたとおり寝技ばかりだった。
ときどきほどけた帯を結び直すために立ち上がる以外は、みんな寝たまま上になったり下になったりしていた。今まで見たこともない未知の関節技や絞め技がたくさんあった。みな全身から汗の蒸気とともに
「ファイトだ」
先輩たちは道衣を直しているとき、青い顔でそうかすれた声を上げた。「ファイトです」と「です」をつけているのは二年目だろう。人数が少ないのでそういう言葉にも威勢の良さより痛々しさと
一年目がひとりで心細いのがわかったのだろう、杉田さんがずっと話し相手をしてくれた。北大の全学生の道内道外出身者の割合は半々だが、なぜか柔道部員の八割以上が道外出身者だとか、そういった話もしてくれた。
結局、道衣を着ないまま最後まで練習を見た。
寝技乱取りが終わると、全員が道衣を脱いで上半身裸になった。みなボディビルダーのような
その後、高い天井から下がるロープ登りを交代で何度も繰り返した。
「整列!」
主将らしき男の声で、部員たちがいっせいに
「神前に礼! お互いに礼!」
続けて「ミーティング!」という声で、サッと全員が立ち上がり、部室に入っていく。
「君も来いよ」
一人が走ってきて手招きした。
「いえ。いいです」
「
杉田さんもやって来て、笑いながら腕を軽く引いた。しかたなくついていった。
全員が入ると、ガタンとドアが閉じられた。
その大きな音が、私には死刑台の床が開く音に聞こえた。
二十畳くらいの細長い部室だった。その中で部員たちは
端整な顔立ちの主将が言った。
「いよいよ七帝が近づいてきた。これから合宿や延長練習が続き、練習はますますきつくなっていく。怪我をしないよう、体のケアに努めること。新入生も何人か入った。気合いのこもった練習を見せようじゃないか。なにか意見ある者は」
誰も手を上げない。主将が私を見た。
「よし。じゃあ挨拶してくれ」
「え、僕ですか……」
「ほらほら、立って」
杉田さんに促されて立ち上がったが、柔道衣姿の先輩たちに囲まれて頭の中が真っ白になってしまった。
「増田といいます。名古屋の旭丘高校出身です……」
ここで詰まった。
「頑張れ」
誰かが言った。
「……僕は北大に柔道をやりに来ました。ですから、水産系ですが四年間は
ほう、と声がいくつか上がった。いいじゃねえか、と声が上がった。
「彼に質問があったら言ってくれ」
主将が言った。
「はい」
ごつい先輩が手を挙げた。
「好きな女性芸能人を教えてください」
みんなにやつきながら答を待っている。
「
沸いた。
「よし。解散!」
主将の声で一斉に立ち上がって着替えだした。人数は少ないが、一つひとつの動作がてきぱきしていて、高校と違って新鮮だった。
部室から出ると、すでに合気道部らしき学生たち四、五十人が道場いっぱいに広がって練習を始めていた。柔道部が十人あまりで殺伐とした練習をしているのとは対照的だった。しかも半分近くが女子部員だった。一階で少林寺
中量級くらいの優しそうな柔道部員が部室から出てきて、解いた帯をぐるぐる回しながら話しかけてきた。
「おいおい増田君。俺も入部のとき檀ふみが好きだって言ったんだよな」
耳がひどい形に
「増田君はここがどういう柔道部か知ってて来たのかい?」
「…………?」
「七帝柔道といってな、特別なルールでやってんだよ。寝技ばっかりだ」
「それは知ってます」
「へえ。なんで知ってるんだ?」
「
「ほう、面白いやつが来たな。しかし大変だぞ、ここの練習は。一年目は二年目になるまでにほとんど辞めていくんだ」
後ろから杉田さんがやってきて紹介してくれた。
「この人は
「鷹山の? あいつ一浪だろ。じゃあ増田君は二浪か」
「はい」
「おお、それも俺と一緒だ。気が合いそうだな」
松浦さんが
「おいおい、松浦。なに言って新入生いじめてんだよ」
さっき好きな芸能人は誰かと質問したごつい人が肩を揺すりながらやってきた。髪は角刈りで、肩幅が広くて胸が厚い、いかにもの柔道体型である。ごつい人は「ひい」と言って続けた。
「おかしなこと言ったら辞めちまうじゃねえかよ。七帝ルール知って入部してくるなんて
「
松浦さんはそう言って笑い、また帯をぐるぐると二、三度回した。
「あのなあ松浦、俺たち、ただでさえおかしく思われてんだぞ。空手部のやつに言われちまったよ。『柔道部って仏教の修行者の集まりみたいですね』ってよ。大昔のルールできつい寝技ばっかりやってんだからな。言われてもしかたねえぞ」
ひい、と言うのが岡田さんの癖のようで話しながら途中で何度か言った。
そこに上半身裸の和泉さんがやってきた。軽量級だが、首の左右に広がる
「あんた、今日これから用事あるん?」
ぶっきらぼうに聞いた。鋭い眼光を私の目からそらさない。
「別にないですが……」
「ちょっと、わしと行こうや」
「はい?」
「なんか食いに行こうで」
「いいすよ、和泉さん。われわれ二年目がおごりますから」
横から杉田さんが言った。
「ええよ。今日はわしが連れてくけ」
和泉さんはぶすっとしたまま部室に戻っていった。
しばらくすると、教養食堂で着ていた紺色のジャージの上に分厚いコートを羽織った和泉さんが出てきた。そして、何も言わずそのまま階段を降りていった。私は入部早々怖い先輩につかまってしまった悲運を嘆きながら、急いで後を追った。
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