七帝柔道記
増田俊也/小説 野性時代/小説 野性時代
第1話
私たちは練習量がすべてを決定する柔道を作り出そうとしていたのである。
──「青春放浪」井上
第1章 ひりつく冷気、香る雪
1
北の果て、北海道のディーゼル機関車は鉄塊のように重く、鉄塊のように硬く冷たい。その重厚な車体が、黒煙を吐きながらゆっくりゆっくりと
ディーゼル機関特有のガラガラというエンジン音が駅舎のトタン屋根に反響し、客車内が小刻みに震え続ける。過ぎゆく車窓から、ロングコートを羽織ってホームに立つ
私は急いで立ち上がった。荷棚からスポーツバッグを引きずり降ろし、
いつまでたってものろのろと動き続ける列車が停まるのを待ちきれず、デッキまで出た。ドアのガラス越しにホームを行き交う人たちが吐く白い息が見える。
列車が停まった。ドアが開いた。ホームに飛び降りた。頰が一瞬で乾き、
すぐに鷹山が気づき、片手を上げて近づいてきた。
「寒いな。雪がたくさん残ってるからびっくりしたよ」
私が言うと、鷹山は笑った。
「こっちはまだ冬みたいなもんだよ。札幌は北海道でも雪が多い豪雪地帯だから
一カ月前の受験時に会ったばかりなのに照れくさいのは、私の身分が二浪生から
地下鉄に乗り換えて北24条駅まで行き、そこから鷹山のアパートまで話しながら歩いた。街はすでに薄く暮れはじめていた。二人の言葉の数だけ白い息が上がっては消えていく。受験時はホテルに泊まったので鷹山のアパートへ行くのは初めてだった。
狭い路地奥にある北向きの鷹山のアパートの軒下には大量の雪があった。共同玄関を入ると安っぽいベニヤ張りの廊下が奥まで続き、左右に何十もの部屋が並んでいた。炊事場は部屋にあるが、トイレは共同だという。板張りの廊下を歩くと、靴下の生地越しに足先が凍えた。
鷹山の部屋に入るともわっとした暖気に包まれていた。
「おお。あったかいね」
私が言うと鷹山が隅にある巨大なストーブを指さした。
「さっきまでつけてたから。いまスイッチ入れるよ」
鷹山が火を入れた。煙突は太さ一五センチはある。北海道でストーブといえばこの煙突付きのもので、道外で一般に使われているものはこちらではポータブルストーブと呼ばれ予備用にしか使われないと鷹山が言った。
「こっちの人は冬でも室内じゃTシャツ一枚だ。変なところだろ」
言いながら鷹山がコートとセーターを脱いだ。そして床にあぐらをかき、冷蔵庫からお茶の缶を二つ出してひとつを私にくれた。私もTシャツ一枚になって座った。
「北海道の人は本州のことを内地って言うんだぞ」
鷹山が言った。
「それは面白いね」
「ここは満州かよって。馬鹿らしい」
「いや、そういうのがいいと思うけど」
「でも雑誌は向こうより二日遅れでしか読めないんだぞ。『うる星やつら』も『めぞん一刻』も二日遅れだ」
「それものんびりしてて北海道らしくていいじゃないか」
「やってられんよ、こんな田舎」
「だけどみんな飛行機代払って観光に来る街だぞ。それだけ魅力があるんだ」
「北大は二回生とか三回生とか言わずに二年目とか三年目って言うんだ。三年在籍して二年生だと三年目二年って言うんだぞ。なんでか知ってるか? 留年が多いから。笑えるよ、ほんと」
「そういう北大独自のものがいいんじゃないのかな……」
鷹山は北海道と北大の悪口ばかり延々と
「
しばらく困ったように黙っていた鷹山は、今度は北大に関係のない話ばかり振ってきた。
おニャン子クラブのメンバーやらタイガース優勝について語った。日航ジャンボ機墜落やスペースシャトルの爆発炎上事故について語った。私は床でごろごろしながら適当に話を合わせはじめた。鷹山が困っていることがわかったからだ。そのうち、部屋があまりにも暖かいので、知らないうちに
次の日の昼、北大生協でアパートを紹介してもらうために、鷹山と一緒に地下鉄南北線に乗った。
北大キャンパス内には生協がたくさんあり、不動産を紹介してくれるのは南端の北大生協クラーク会館店だけだと聞いていた。地下鉄では札幌駅か北12条駅が近いが、せっかくだからキャンパス内を歩きたいと私が言って北18条駅で降りた。日本一広い北大キャンパスは、隣接する地下鉄の駅が三つもあった。
北十八条の入り口からキャンパスに入ると、右手に教養部の建物があり、そこから南北を一直線に貫くメーンストリートがあった。目を凝らしても、かすんで向こうが見えない。
快晴だった。シャガールブルーの空と白い残雪が美しいコントラストを描いていた。
二人がかりでも抱えきれないだろう太い
頰を刺す冷気を楽しみながら雪があるところを選んで歩いた。巨木の陰に残るかき氷のような雪をざくざく踏んでその感触を楽しんだ。私は雪が大好きだった。ひりつく冷気と雪が好きだからここに来たのだ。
「雪って、香りがあるんだな」
私が言うと、鷹山が私のほうを見た。
「香り?」
「うん。なんかいい香りがする」
たしかに香っていた。
「そうかな」
「すごくいい匂いだ」
深い雪に埋もれていた三月頭の受験時にはなかった香りが、広いキャンパス内に満ちていた。雪が解けて蒸発するときに、その下にある土や
北十八条から北大生協クラーク会館店に着くまでにたっぷり四十分かかった。そこで物件をいくつか紹介してもらい、まずは北二十一条西六丁目の西村アパートを見に行った。外見は一軒家にしか見えない古い建物だった。
大家の
一階に四人家族が住む3DKがあり、上には廊下を挟んで学生の部屋が二つだけある変則的な造りである。下が家族持ちだと夜静かにしなければならないし、床も壁もひどく傾いていた。それに、これだと向かいの学生と二人きりで顔を突き合わせた共同生活になりそうで嫌だった。パスして次の物件を見に行こうとすると、大家が私の機嫌を
「向かいの学生さんは獣医学部の女性で三年目の方です。びっくりするくらい
春休みで愛媛に帰省しているという。見ると、扉の上に小さな表札があった。タカラジェンヌのような流麗な名前だった。すぐに私は翻意した。
「ここに決めるかな」
私が言うと、鷹山が小声で
2
最後にひとつだけ幽霊が出ないことを大家に確認し、その場で
鷹山は私に見せたいと言ってチャン大と呼ばれるチャーハンの大盛りと
「それ、全部食うのか」
鷹山は笑って
食べ終わった後も鷹山は立ち上がろうとせず、コップの水を一口含んでは口の中で転がしていた。
そして、ついに言いにくそうに言った。
「実はさ……俺、柔道部辞めてんだよね……」
「うん」
「知ってたのか?」
鷹山は驚いたようだった。
「このあいだ受験に来たときに、手を見て」
「手……?」
「柔道やってる手じゃなかったから。指のタコがないし、爪が伸びてるから」
空手家の
鷹山はしばらく黙っていた。話しにくかろうと思い、私はテーブルに視線を落とした。鷹山は小声で、しかし訴えるように話しだした。
「ほんとにきついんだ。寝技ばっかりやってんだから……」
「
「だけど、あそこまで徹底しているとは思わんかったんだよ。あんなの柔道じゃない」
鷹山が語気を強めて続けた。
「寝技はほんとにきつい。練習時間が長いし、
そして、十人以上いた同期が次々と辞め、鷹山を含めて三人だけになってしまったこと、しかもそのうちの一人は腰を傷めて練習に参加できなくなってしまったこと、もう一人は水産系で二年目の秋には水産学部に移行して
私が
「それにさ、
「なんだそれ」
「抜き役は勝ちにいく選手で、分け役は引き分ける選手だよ。はじめからそれが決まってんだ。分け役は絶対に攻めちゃいかんって言うんだぞ。そんな柔道ってあるか?」
柔道の団体戦には点取り試合と抜き試合のふたつの方式がある。インターハイなど高校の団体戦のほとんどは五人の点取りで、
大学になると二人増えて七人の点取りで戦う。全日本学生柔道優勝大会と呼ばれる団体戦、つまりインカレ団体戦はこの方式だ。
だが、
「最初から決まってるのか、その抜き役と分け役が」
私が聞くと、鷹山が言った。
「そうだよ。おかしいと思わんか?」
「その分け役ってのはどうやって分けるんだ」
「カメだよ、カメ。入部早々、カメだけ練習してろって言うんだぞ。おかしいだろ」
カメとは、亀のように畳に四つん
「一日中カメになって先輩に背中につかれて
鷹山は「落とすんだぞ」というところで
「おまえ、参ったしないのか?」
「参ったするよ。するけど離してくれない」
「どうして……」
「信じられんだろ……死にたくなるくらい苦しいんだ……」
柔道の絞め技は、腕や道衣、脚などを使って相手の
私は高校時代に落としたことも落とされたこともなかったし、人が落とされたのも見たことがなかった。テレビで五輪や全日本選手権を観ていてもそんな場面はない。絞めが入ればみんな参ったするし、参ったすれば技をかけた方は技を
鷹山はそこから練習の厳しさを延々と訴えた。練習がきつすぎると訴えた。苦しすぎると訴えた。だから辞めたんだと話し続けた。訴え続けた。
私はテーブルの上に右手を差し出した。鷹山はしばらく意味がわからないようだったが、気づいてそれを握った。
「いいよ、気にしなくて。柔道やってようがやってなかろうが友達だよ」
私が言うと、鷹山は「ごめん」とうつむいた。
受験の際に鷹山の手を見て退部したのを確信していたので、それに関してはなんとも思わなかった。
それよりも、私が気になったのは二年目が一人しか残っていないことだった。
帰り、酒屋で
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