第29話 三顧

 207年冬、劉備は関羽と張飛を護衛にして、諸葛亮の家を訪ねた。

 家の周りに田んぼがあった。すでに稲刈りが終わっている。


「頼もう」と劉備は言った。

 諸葛均が門に出てきた。

「私は劉備玄徳という者だ。諸葛亮殿に会いたい」

「兄はいま昼寝しております。起こしますね」

「いや、睡眠の邪魔をしたくない。起きるまでここで待っていてよいだろうか」

「はい。では、兄が起きたら、お呼びいたします」

「よろしく頼む」

 

 劉備は門に立って待った。

 一時間経っても、諸葛亮はまだ眠っている。

「兄者、相手は二十歳も年下の若者です。起こしてもよいのではありませんか」

「いや、おれは諸葛亮殿に教えを乞いに来たのだ。待つのが礼儀である」 

 二時間待ち、諸葛亮が起床して、均が呼びに来た。

「おまえたちはここで待っていてくれ」

 劉備は関羽と張飛を門に残し、家の中に入った。


 客間で、諸葛亮は正座していた。

 劉備も対面で正座した。

「お待たせして申し訳ありません、劉備将軍」

「こちらこそ突然押しかけて申し訳なかった」

 諸葛亮は微笑んでいたが、暗いまなざしをしていた。

「どのようなご用ですか?」

「あなたに天下国家のことを教えてもらいたい」と劉備はいきなり言った。

「ははははは」と諸葛亮は笑った。「私は若輩者です。天下のことなどわかりません」


「では農業のことでよい。今年の実りはどうでした?」

「よく収穫できました。ここは平和ですからね。落ち着いて田の手入れができます」

「しかし、いずれ荊州にも曹操が攻めてきます。そのときはどうなさる?」

「曹操……」

 諸葛亮の声が低くなった。 

「私は母を曹操に殺されました。しかし、彼はとうとう袁氏を滅ぼし、八州の主となりました。もはや抵抗はできません」

「曹操の支配下で、農耕をつづけますか?」

「それ以外にどのような選択肢がありましょうか」

「そうですか。あなたに軍師となってもらい、曹操と戦いたかったのだが……」

「私は一介の農民に過ぎません。軍師などつとまりませんよ。お引き取りください」

「今日は帰ります。また教えを乞いに来ます」


 劉備は義弟たちと新野城に帰った。

「劉備兄貴、なんの話をしたんですか?」

「世間話だ」と劉備は言った。

 あの若者は本心を隠している、と彼は感じていた。


 一か月後、「諸葛亮に会いに行く」と劉備は言った。

「また行くのですか」と関羽は言い、張飛は嫌そうな顔をした。

「行きたくないなら、供は子龍に頼む」

「兄貴が行くなら、喜んでお供をしますよ!」と張飛はあわてて答えた。


 諸葛亮は庭で梁父吟を歌っていた。故郷徐州の古い歌。

「こんにちは、また来ました」と劉備は声をかけた。

「将軍、こんにちは」

 亮は客間へ行き、再び対面した。


「天下国家のことを教えてください」と劉備はまた言った。

 諸葛亮は暗い瞳を新野城主に向けた。

「曹操はこの国の北部を押さえました。彼と戦うのは容易ではありません」

「だが、まだ彼が天下の主となったわけではない」

「そうですね。中国南部は曹操の支配を受けていません。揚州には孫権がいて、勢いがあります。そして荊州には劉表が、益州には劉璋がいます」

「私は劉表殿を助けて、曹操に対抗すべきでしょうか」

「ははははは、劉表様は、とうてい曹操と戦える器ではありません」

 亮は笑った。

「どうすれば、曹操に勝てますか?」

「すぐに曹操を倒す方法はありません。しかし、対抗できないわけではありません。将軍が劉表と劉璋を倒し、天下を三分すればよいのです」

「天下三分……」

 劉備はごくりと唾を飲んだ。

「曹操、孫権、そして劉備将軍で天下を分け合う。まずはそこまで持っていって、ようやく曹操と戦えるようになります」

「ものすごい構想を聞いた気がする。諸葛亮殿、私と一緒に戦ってください」

 劉備は身を乗り出したが、諸葛亮は首を振った。

「私は人殺しをしたくないのです。お引き取りください」


 劉備は諸葛亮の家から出た。

「兄者、今日はなんの話を?」

 関羽が聞いたが、劉備はうわの空で、「天下三分、天下三分……」とつぶやき、まともに答えられなかった。


 208年正月、劉備は三たび諸葛亮を訪ねた。

 関羽と張飛は半ば呆れながら供をした。劉備がどうして無名の若者に執着するのか、理由がわからなかった。


「諸葛亮殿、また来てしまった」と劉備は言った。

 亮は微笑み、劉備を客間へいざなった。

 流浪の将軍は、しばらく声もなく、暗い瞳を持つ眉目秀麗な若者を見つめていた。そして突然、強く言った。

「諸葛亮殿、あなたとともに曹操を倒したい」

 亮は雷に打たれたような顔をした。

「あなたは曹操を殺したいと思っているはずだ。お母さんを殺され、故郷を追われたのだから。おれを利用して、仇を討てばよい。おれはあなたの才を利用して、天下に平穏をもたらしたいと思っている。漢の皇帝を意のままにし、徐州で大虐殺をした曹操には、この国を渡したくないのだ。どうかおれを助けてくれ、諸葛亮殿!」

 劉備にそう言われて、亮は呆然とした。

 私はこの人に人生を捧げるしかない、となぜか思った。


「新野城へ行きます」と諸葛亮は言った。

「おお……おれの軍師となってくれるか、諸葛亮殿」

「孔明とお呼びください、殿」

 孔明は立ちあがった。

「均、私は劉備玄徳様とともに行く。いまからこの家の主はおまえだ。家も田も好きにしろ。どこかへ行きたくなったら、捨ててもよい」と彼は弟に告げた。

 劉備と孔明は、並んで門を出た。

 関羽と張飛は、堂々としている若者の背後で龍が飛んでいる幻覚を見て、目をこすった。 

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