第27話 水鏡先生

 201年、劉備は荊州に入った。

 荊州牧は劉表である。南郡の襄陽城を居城とし、州を治めている。

 劉備は家臣と生き残りの兵四千を連れて襄陽城へ行き、劉表に会った。


「曹操に負けました。どうか荊州の隅にでも置いていただきたい。助けてください」

 劉備が率直に助けを乞うと、劉表は穏やかに微笑んだ。彼は142年生まれで、すでに老境にいる。

「曹操は侵略者だ。彼からこの荊州を守らなくてはならない。あなたを荊州の北部に置き、守りとしたい。引き受けてくれるか?」

 劉表は偉ぶらず、逆に劉備に頼むような姿勢を取った。

 劉備は劉表に好感を持った。

「私を助けてくれるだけでなく、役目を与えてくれるのですね。喜んで荊州の守備をさせていただきます」


 劉備は南陽郡の新野城を与えられた。

 広々とした原野に建てられた城。荊州の北の守りの要。

 新野県には豊かな農地といくつかの村落があり、のどかなところであった。

「いいところだな」

 城に到着し、開口一番に劉備は言った。

「劉表殿はよく荊州を守ってこられたようですね」と関羽は言った。

「ああ、そうだな。曹操が北の袁氏と争っているうちは、ここは平和だろう。やつが南下してきたら、大変なことになるだろうが」

「曹操なんて、いつかけちょんけちょんにしてやるぜ」

 張飛は意気軒昂だった。


 戦いに明け暮れ、流浪を重ねてきた劉備が、新野で久しぶりにのんびりとした。

 新野城のそばに美しい池があった。水は透明で、魚が泳いでいるのが見える。

 ひとりの老人がいつも釣りをしていた。若者がその周りに集い、楽しそうに話をしている。

「曹操は袁紹を倒し、次にこの荊州を襲ってくるにちがいありません」と若者が熱く語る。

「そうだのう」と老人は飄々と答える。

「荊州でも兵士を増やさねばなりません」と別の若者が言う。

「そうだのう」と答えながら、老人は鯉や鮒を釣り、その場で塩焼きにして、皆に食べさせていた。

「まあ食べろ。食べなければ生きていけん」

「水鏡先生、おれは酒を持ってきました」

「それはいいのう。よし、皆で飲もう」

 彼らは食べ、飲み、笑いさざめいた。

 劉備はその老人を、人生の達人ではないか、と思った。


「私もご一緒させてもらってよろしいですか」と劉備は言った。

「どうぞ。ちょうど鯉が焼けたところじゃよ」と老人はゆったりと答えた。

 劉備は鯉の塩焼きを食べた。塩加減が絶妙であった。

「私は劉備玄徳と言います。あなたの名前を教えてもらってもいいですか」

「司馬徽徳操という」

「おれたちは水鏡先生と呼んでいるよ」と若者のひとりが言った。

「では私も、水鏡先生と呼ばせてもらうことにします」

「よしよし」

 司馬徽はにっこりと笑って、酒を飲んだ。 


 劉備は池に通い、司馬徽と何度も会った。

「水鏡先生、こんにちは」

「劉備将軍、こんにちは」

「将軍はやめてください」

「しかし劉備殿は、将軍ではないか」

「先生の前では、ひとりの人間でありたいのです」

「よしよし。では、玄徳と呼ぶことにしよう」


 劉備は釣りをするようになった。

 司馬懿の隣で釣り竿を出す。

 水鏡先生は釣りの名人だった。劉備が一匹釣る間に、五匹釣った。

「先生はどうしてそんなに釣りが上手なのですか」

「魚の気持ちになってみればよいのじゃよ。そうすれば釣れる」

「魚の気持ちになどなれません」

「なれんかのう」

「私は人間ですから」

「玄徳は軍人だからのう。隠しているつもりでも殺気があるのじゃ。それでは魚が逃げてしまう。もっと心静かになれ。そうすれば釣れる」

 劉備は考え込んでしまった。

 殺気など出しているつもりはなかったが、水鏡先生にはそう見えるらしい。

 おれは軍人であるべきなのか、心静かに生きるべきなのか。


 劉備は新野で長く暮らした。

 甘夫人が身籠り、男の子を生んだ。

「この子がお腹の中にいたとき、北斗七星を飲み込む夢を見ましたわ」

「そうか。では、この子を阿斗と名付けよう」

 阿斗は幼名である。長じて劉禅と呼ばれるようになる。


 劉備は司馬徽と付き合いつづけた。

 207年、阿斗が生まれた年、彼は池の畔で言った。

「水鏡先生、私はやはり軍人です。乱世から目をそむけることはできません。戦って、この世に平穏を取り戻したいのです」

「そうだろうな。あなたはやはり劉備将軍だ」

「将軍はやめてください、先生」

「いや、将軍と呼ばせてもらう。劉備将軍、臥龍に会いに行きなさい」

「臥龍?」

「わしがつけたあだ名じゃよ。本名は諸葛亮孔明という。この近くの庵で、弟と一緒に晴耕雨読して暮らしておる。彼があなたの軍師となれば、将軍は曹操と戦えるようになるだろう」

「それほどの人なのですか?」

「若いが、才能がある。その才を発揮する場がなく、欝々としておる。彼を世に出してやってほしい。臥龍は少年時代、徐州琅邪国でひどい目にあったようだ。世の中を恨んでおる。心中に鬱屈がある。彼を救えるのは、劉備将軍だけだろう。そして、あなたを飛躍させることができるのは、臥龍だけであろう」

「琅邪国。曹操が大虐殺をした地……」

 司馬懿はそれには答えず、竿を立て、鮒を釣りあげた。

 劉備は、諸葛亮に会ってみようと思った。 

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