第12話 平原国の相
田楷と高幹の戦いは、一進一退で推移した。
実質的には、劉備と曹操の戦いのようなものだった。両軍の中で、その二隊が抜群に強い。
劉備は関羽と張飛を擁していたが、曹操配下には曹洪、曹仁、夏侯惇、夏侯淵がいて、戦力は拮抗していた。
「曹操はまだ小さい勢力だが、いずれ大きくなりそうだ。中国広しといえども、あれほどの将はなかなかおるまい」
劉備は戦いを通じて、曹操に畏敬の念を持つようになった。
「関羽と張飛は恐るべき武将だが、彼らを心服させている劉備は、もっとすごい男なのかもしれん」
曹操は周囲にそう語った。
この戦役は、引き分けのまま終わった。
袁紹と公孫瓚の全面戦争である界橋の戦いが勃発したためである。高幹と田楷は、界橋へ行った。
劉備と曹操は、その戦いには参加しなかった。
劉備は平原国の相を務めるよう命じられ、曹操は黒山賊との戦いに赴いた。
平原国は青州にある。
国とは、郡と同等の地方自治体である。ただし、太守ではなく、諸侯王が治めている。
相とは、諸侯王を補佐して、行政をつかさどる役職。
「界橋は大変だろうが、平原も楽じゃねえ。黄巾賊の残党が跋扈していやがる」
劉備は赴任してすぐに、大忙しとなった。
「相よ、頼むぞ。余は交際で忙しい」
平原国王はぼんくらで、仕事を丸投げしてきた。
国内には課題が山積していた。
黄巾賊対策。
汚職官吏の摘発。
農民の逃散。
「くっそめんどくせえが、民が困っている。真面目に仕事するぞ」
劉備は国軍を二隊に分け、関羽と張飛に指揮させて、黄巾賊を討伐した。
「簡雍、汚濁役人を見つけてくれ」
簡雍には交渉力があり、情報を得る能力が高い。悪い役人を見つけることができ、良い官吏を見抜くこともできた。
劉備は簡雍を信頼し、その進言を受けて役人を追放し、良吏をその後釜にした。
黄巾賊の討伐に成功し、治安がよくなると、避難していた農民が故郷に戻ってきた。
劉備の行政は成功した。多くの民が、彼を慕うようになった。
一方、曹操は黒山賊の制圧に成功し、東郡の太守となった。
その地にいた黄巾賊の残党も征伐し、さらに兗州牧に出世した。
劉備の予想どおり、彼は着々と力を伸ばしていった。
192年、冀州界橋で袁紹軍と公孫瓚軍が激突した。
界橋は、鉅鹿郡と清河国の境界を流れる清河に架けられた橋である。
西の鉅鹿郡に、袁紹軍が布陣した。二万の歩兵と八百の楯兵、一千の強弩兵がいた。
東の清河国では、公孫瓚の歩兵三万が方陣を組んだ。その左右で五千ずつの騎兵が突撃態勢を取った。
この騎兵隊は白馬義従と呼ばれる公孫瓚軍の主力である。白い馬ばかりの美しい軍隊。
白馬義従が突進した。楯兵が押しとどめ、強弩が騎兵を薙ぎ払った。
袁紹の歩兵隊が橋を渡った。
乱戦になった。袁紹の本営を、白馬義従二千が襲った。
袁紹は踏ん張った。
「大丈夫たる者は、前に向かって討ち死にするものだ。逃げ隠れして生き延びることなどできようか」と叫んだ。
袁紹軍は白馬義従を撃退し、敵歩兵も撃ち破った。
公孫瓚は敗れ、逃走した。
その後、袁紹軍は幽州涿郡に進出した。
公孫瓚はしぶとく抵抗し、涿郡巨馬水において、数万の袁紹軍を撃ち破り、八千人を戦死させた。
河北における袁紹と公孫瓚の攻防は、長くつづいた。
漁陽郡で鮑丘の戦いが勃発し、今度は袁紹軍が勝利した。
公孫瓚は巨大な易京城に逃亡し、籠城した。城内で農業を行い、十年雌伏できる状況を整えた。
劉備は、公孫瓚の支援をしつづけた。
平原国から兵糧を送った。
公孫瓚は、徐州牧の陶謙と同盟していた。
193年、陶謙の部下が曹操の父を殺すという事件があった。
曹操は怒り狂った。兗州軍を徐州に侵攻させ、人民を大虐殺した。
陶謙は曹操軍をとどめられず、公孫瓚に救援を要請した。
公孫瓚は、劉備を徐州に送ることにした。
「やれやれ、今度は徐州か」
劉備たちは、手勢とともに陶謙がいる徐州下邳国へ向かった。
曹操が暴れまくる徐州から、ひとりの聡明な少年が荊州へ避難している。
その少年の名は、諸葛亮孔明。
大虐殺に巻き込まれ、母親が殺された。曹操の暴虐を憎んだ。いつか復讐してやると心に誓いながら、命からがら逃走した。
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