第3話 友人

 日香里は落ち着かない昼休みを過ごした。午後、世里奈が来るからだ。勉強もスポーツも出来て容姿も優れた彼女は、同級生たちの憧れのような存在だった。


「こんにちは」


 世里奈は、約束の5分前に姿を見せた。店の前で〝笑いすぎ症候群〟対策のイヤホンを外し、ガラス扉を開けた。


 春風が吹き込んだ。甘い香りが一緒だった。世里奈のスーツ姿は、ファッション雑誌のモデルのようだ。高いヒールが、コンと小さな音をたてた。


「並木世里奈です。少し早すぎましたでしょうか?」


 その澄んだ声は少しだけ緊張しているようだった。


「並木さん……」


 日香里は慌てて立ち上がった。それを上回る勢いで寅吉が前に出た。


「いやいや、5分前だ。ベストなタイミングですよ」


 日頃は仏頂面の寅吉が満面の笑み。今にも揉み手をしそうな様子だった。それだけ彼女は魅力的だ。


「須能君、お茶を、いや、コーヒーを淹れてくれ。では、あちらへ……」


 彼は世里奈の肩を軽く押し、打ち合わせ室へ案内した。


「コーヒーですか?」


 桜餅を用意していた日香里はお茶にしたかった。が、彼女が言い終わる前に、打ち合わせ室のドアが閉まっていた。


「桜井さん、どうしましょう? 私、桜餅を用意しておいたのですが……」


「あら、気が利くわね。福松屋の桜餅じゃない。いい香り……。お茶にしましょう」


 彩弓は桜餅の包みを取って匂いを嗅ぐと、断言した。


「店長はコーヒーって言ったのですが……」


「美人が来たからいいところを見せたいだけよ。桜餅があるなら、お茶でも文句は言わないわよ」


「そうなんですね」


「日香里ちゃんも、はやく男の扱い方を覚えないといけないわよ。お茶は私が運ぶから、仕事をしていらっしゃい。初めての大仕事なのだから、間違えたりしないようにね」


 日香里は彼女の言葉に甘えることにした。桜餅の包みをほどくと二つ取り、ひとつを哲夫の机に置いた。


「須能さんの同級生だって? すごい美人だね」


 哲夫が目尻を下げていた。


「はい。私の同級生ではNO1です。お母さんも美人なんですよ」


「お母さんの情報はいらないよ。そんなことより店長の猛アタックが始まりそうだ。彼女の心中も穏やかじゃないだろう」


 彼はそう言って茶を淹れている彩弓の横顔を目で指した。


「そうでしょうか?」


「まぁ、並木さんには須能さんから注意しておいた方がいいよ。店長のセクハラと、桜井さんの新人いびりにね。小さな店の中でギスギスされたら、こっちも仕事がやり難くなる」


 自分も新人いびりをされているのだろうか? セクハラは受けた記憶がないけど。……考えながら自分の席についた。ふた口で桜餅を平らげ、橙野亜漣の売買契約書の作成に取り掛かった。


 1時間ほどすると打ち合わせ室のドアが開き、目尻の下がった寅吉と緊張を和らげた世里奈が姿を見せた。


「よろしくお願いします」


 彼女の声を耳にして、日香里は視線を上げた。書類作成の作業を中断して彼女のもとに足を運ぶ。寅吉の顔を見る限り良い結果だと分かるが、「どうでした?」と尋ねた。


「明日からでも来てくれということだったけど、1週間後からということにしてもらったわ。東京の部屋を引き払わないといけないし……。でも、ありがとう。須能さんには助けられたわ」


 世里奈が日香里の手を取った。そんな行動は寅吉のやり方に似ているような気がした。


「並木さんと一緒に働けるなんて、嬉しいです」


 それは本心だった。


「私もよ。日香里さんがいるから心強いわ」


 日香里は窓際のテーブルに彼女を誘った。そこで商店街のことや桜餅が福松屋のものだということ、みつ子が昨年のミス狸小路商店街になったといったことを話した。


 世間話に花を咲かせていると寅吉がやってきて、話に加わろうとした。哲夫が言ったとおり、彼は世里奈に接近しようとしているのだ。


「2人は子供のころから仲が良かったのかい?」


 寅吉が訊いた。日香里は返事にきゅうしたが、世里奈は違った。


「はい。仲良くさせてもらっています。それじゃ、お仕事の邪魔をしては申し訳ありませんから……」


 彼女は距離のある言い方をして立った。


「私は時間があるよ」


 寅吉はそう応じた。日香里も話したかったが、時間はなかった。


「それもそうですね。私、書類を作らなくちゃいけなかった」


 世里奈に話を合わせ、彼女を見送った。


「なんだ、冷たいな」


 寅吉の声が耳元でする。


「店長、露骨に迫ると嫌われますよ」


 店の奥から彩弓の声がした。


 午後8時、時計のチャイムが鳴った。店舗の営業時間は午前10時から午後8時だ。日香里の勤務時間は午後6時までだが、仕事が多い時や男性社員が全員外出する時は残業で店番をすることになっている。その日は、売買契約書と関連書類を作成するために残業した。


「どれ、帰るか……。戸締りを頼むよ」


 寅吉が手提げ金庫を大金庫にしまい、日香里はシャッターを下ろした。哲夫は営業に出たまま直帰している。いつものことだ。


「明日は来るかな?」


 寅吉がからかうように言う。


「橙野さんですね。必ず来ますよ。真面目な人だと思います」


「賭けるか? 日香里ちゃんの唇」


「店長、それはセクハラです」


 店長が本気でないことは分かっている。


「かたいこと言うものじゃないよ。唇は柔らかいんだから」


 彼がカラカラ笑った。


「あぁー、二度目、レッドカードです」


「ほい、ほい。退場しますよ」


 2人は通用口から通りに出た。寅吉は社用車に乗りこみ、日香里は制服のまま自転車にまたがった。高校生のころから愛用しているママチャリだ。阿工藤不動産は、給料は安いけれど、自宅から通えるのが最大のメリットだった。


「気をつけて帰れよ」


 寅吉が車の中から声を投げて走り去る。日香里はテールライトを目にしてホッとため息をついた。それからイヤホンを装着した。自宅まで人通りは少ないが、念のためだ。


 体重をかけてペダルを漕ぐ。家までは20分の距離だ。商店街をまっすぐ進んで突きあたりを左折、加見川沿いのサイクリングロードに入る。木立の上にはカラスが群れていて、通り過ぎる日香里を見おろしていた。シャッター商店街には街灯があるが、サイクリングロードにはそれがない。自転車の小さな灯りだけが頼りだ。夜はとても心細いけれど、高校生のころから走り慣れた道だった。

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