第4話 襲撃
午後3時きっかりに橙野亜漣はやってきた。
日香里は、奥の席でふんぞり返っている寅吉に向かって、私の勝ちだという風に親指を立てて見せた。すると彼も親指を立てて笑った。それで、賭けの商品を決めていなかったことを思い出した。彩弓が渋い表情で茶を淹れに立った。
亜漣は昨日と違ってモスグリーンのジャケットを羽織っていたが、ネクタイは同じものだった。彼のお気に入りなのだろうと思って
「オレンジ色のネクタイがお似合いですね」
「違いますよ」
彼は人差指を立てて左右に振る。何が違うと指摘されているのか、分からなかった。ポカンとしていると、「これは
「ダイダイ色……、もしかしたら、苗字に橙の字が入っているからですか?」
「ご名答。私のラッキーカラーです」
彼が運や占いのようなものを信じるのを意外に思いながら、賃貸契約の手続きに入った。重要事項の説明を行うのは、不動産売買の資格を持つ寅吉だ。
重要事項説明書を交付し、売買契約を締結する。
「では、手付金を」
日香里が告げると、裕次郎がボストンバッグを開けて札束をテーブルに積んだ。一つや二つではなかった。驚くべきことに、彼は手付金だけでなく、残金と媒介手数料の合計額を現金で用意していた。テーブルの上に100万円の札束が山を作った。
日香里は目を丸くしたが、寅吉は細めた。
「今現在をもちまして、あの部屋は橙野様のものです」
彼は満面の笑みをつくって部屋の鍵を渡した。
「お引っ越しはいつごろの予定ですか?」
日香里は気を取り直して訊いた。
「明日か、明後日か……。気が向いたときにね」
それも占いで決めるのだろうか?……金持ちの考えることはわからないと思った。
「暇なときには遊びにいらっしゃい。いろいろありがとう」
彼は、日香里が、気が引けるほど丁寧に礼を言って席を立った。
彼が帰ってから、彼の人となりを面白おかしく想像して寅吉と彩弓が盛り上がった。亜漣が愛人と密会するためにマンションを買ったのだろう、という点で二人の意見は一致していた。
日香里は、賭けに勝ったのだから何か御馳走してくれと寅吉に迫ったが、彼は「ふーん」ととぼけた。
午後5時になると、寅吉は彩弓を誘って帰った。大金が入ったので、どこかで豪華な夕食でもとるのだろう。
いやいや、それじゃ横領だ。……想像を打ち消した。
日香里は2人が店を出るのをぼんやり見送った。哲夫はいつものように直帰で、日香里は午後8時まで店番をしなければならなかった。
来店者も問い合わせの電話もなく、定刻通りに戸締りをして店を出た。サイクリングロードの暗闇には小さなライトの灯りがひとつ。日香里は心細い思いでペダルを
突然、物陰から何かが飛び出して脇腹にぶつかった。ドンという衝撃……、それは音にはならなかったけれど、自転車ごと彼女を弾き飛ばした。
「キャッ……」
声とともに自転車が向きを変え、土手を走り落ちる。ライトは明るさを増した。日香里はパニックに陥りながらも反射的にハンドルを強く握り、懸命に自転車のコントロールを取り戻した。が、ブレーキを掛ける間もなく河原まで転がり落ちて草むらに倒れた。イヤホンがとれて闇の中に消えた。
「イタタタ……」
身体の心配をするより、ぶつかってきたものが何か、それを先に考えた。犬か人間か……、まさかイノシシではないだろう。恐怖を覚えながら振り返った。自転車のライトが消えたそこには、ただ闇があった。
「天乃日香里だな?」
闇の中から若い男性の声がする。
「誰?」
反射的に疑問が口をついた。ぶつかってきたのがその人物に違いない。イノシシや野犬のように言葉の通じない相手ではなさそうなので、少し安堵した。
「質問に応えろ?」
声が威圧感を増し、日香里は不安を覚えた。呼ばれた名前は自分のものだけれど、名字は違った。彼は何を求めているのだろう? それが性的なものなら?……身がすくんだ。
「応えろ。天乃日香里だな?」
「ち、違います」
「ん……」ザッという音がする。草を踏む音だ。
草むらの中から影が伸びた。それが、ザッ、ザッという音とともに近づいて成長したように見えた。
「自分が何者かも分からないのか?」
影が日香里を見おろしていた。その圧迫感は巨大なゴリラを連想させた。それが、すぐに襲ってくるようにも見えなかった。そう判断できる程度に日香里は落ち着きを取り戻していた。
彼は何かを探っている。そう思った。
眼が暗闇に慣れ、周囲に
「名前を言え」
ゴリラの顔が目の前にあった。思いのほか白い顏と、獣のような瞳があった。キラッと光を放つものがある。彼の耳についたリンゴ型のピアスだった。
「……須能……日香里です」
「母親の名前は?」
「
「ん……」
ゴリラが黙った。人違いだと気づいたようだ。日香里はホッとした、……のもつかの間のことだった。彼はものすごい力で頭を、いや、日香里の身体全体を持ち上げた。
「イタ……」
首がちぎれそうな痛みを覚えて立ち上がったが、頭は更に持ち上げられた。爪先立ちになっても引っ張りあげられる。腕にぶら下がるようにしてキングコングを蹴ってみた。が、彼のクレーンのような動きが止まることはなかった。
死んじゃう。……遠ざかる意識が
「
太い声がして、誰かが日香里を持ち上げる影の腕を
頭が解放された日香里はその場に座り込んだ。痛む首に手を当てる。残念なことに、あの癒しの力は発動しなかった。
――ガツ――
――ゴン――
――ボコ――
傍らでは戦いが繰り広げられていた。「止めろ」「邪魔をするな」といった声もするが、それがどういうことなのか、意識がもうろうとしていて理解できなかった。
意識がはっきりしたのは、静寂が訪れたからかもしれない。
「無事ですか?」
耳元でしたのは亜漣の声に違いなかった。
「はい、どうして……」ここにいるのですか、と訊こうとする声は、ゴホゴホと
「ジョギングしていたのですよ」
彼の優しい手が日香里の背中をさすって咳を止めた。
「さっきの男の人は?」
自分を殺そうとした人物がどうしているのか気になった。
「そこに倒れています」
「えっ?」
「彼は、もうダメでしょう」
亜漣が、自分のために罪を犯したのだろうか?……驚いて、そこに向かった。彼が言った通り、立派な体格の男性があおむけに倒れている。息はあるがとても微かだった。
胸の奥底から、嫌だ、という思いが突き上げてくる。誰であれ、命を奪い、奪われるのは嫌だ。
日香里は倒れた男性の胸に手を当てた。あの力が発動してくれたら……。そう願った。
「手当をしたところで無理だと思う。毒が回っているのです」
背後から声がした。
「ドク?」
その言葉の意味が理解できなかった。それは、日香里の日常と縁遠い言葉だった。倒れた男性の胸に手を当てながら振り返る。
「橙野さんは、この男の人を知っているのですよね? 確か……、赤池と呼んでいました」
日香里はぼんやりした記憶の中から、彼の名前を引っ張り出した。
「聞こえていましたか……。
「どうして……」
亜漣は彼を殺したのか?……聞こうとして言葉が詰まった。それは自分を助けるためだとわかっている。
「……この人は、私を襲ったのですか?」
「あなたが、特別な人だからですよ」
「どういうことですか?」
「彼は、あなたが故郷に戻ることを恐れている。私は、あなたが今のままこの町で暮らしてくれたらいいと考えている。そういうことです」
彼の話は、日香里の記憶と
「全然、意味が分からないんですけど……」
その時、倒れていた男がむっくりと上半身を起こした。銀のピアスが光った。
日香里は驚いて彼と距離を取った。また、襲われてはたまらない。
「奇跡だな」
そう言って亜漣が翔の隣に屈む。
「彼女に感謝するのだな。お前の命を救ってくれた」
「まさか……」
翔は大きな瞳で日香里を見つめた。それから、ふらつく足で立ち上がると土手を上って行く。
「礼ぐらい言わないか」
亜漣が背後から声をかけても彼が足を止めることはなかった。土手を上り切ると、その向こう側に消えた。
「すまないな。筋肉馬鹿なのだ」
彼に変わって亜漣が詫び、倒れていた自転車をかついで土手を上がった。
「ちゃんと教えてください」
日香里は説明を求めたが、「君には分からないことだよ」と言い残し、彼は街の方に向かって歩き出した。日香里の家とは反対の方角だ。
日香里はしばらく亜漣の背中を見送っていたが、また襲われるかもしれないと気づいて慌てて自転車に跨った。それから自宅まで、必死にペダルを漕いだ。
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