第2話 桜

 店へ帰る足が軽い。


 日香里は稲荷神社の桜が咲きほこる境内に入った。店へは境内を横切るのが近道だからだ。が、本当の目的は花見だった。桜は大好きな花だ。


 光煌めく白い花びらと金貨の輝きが重なった。それをもらっておけばよかったという後悔と、もらわなくて良かったのだという正義感のようなものが、頭の中で小競り合いを繰りひろげていた。


 ふと思った。そもそも高価な金貨をくれるって、彼にはなにか下心があったに違いない。そのことに気づかなかった自分って。……金貨に眼がくらんだ浅はかさを、自分で笑った。


 桜に酔う参拝客、いや、花見客が多かった。彼らはスマホで写真を撮るのに夢中だ。スマホから伸びたケーブルはイヤホンだった。誰もが〝笑いすぎ症候群〟という謎の病気を警戒していた。笑い声を聞かなければ、〝笑いすぎ症候群〟に感染するリスクは低減するのだ。


 ヤバイ!……メープルリーフコインと桜の輝きで頭がいっぱいだった日香里も、鞄からイヤホンを出して装着した。


 日香里は拝殿に足を運び、真鍮の輝きが眩しい5円玉を賽銭箱に投げ入れて初仕事が無事に済んだ礼を言った。頭をあげてから、賽銭があの金貨だったら、神様はもっと喜んでくれるのだろうと思った。


「ん?」


 境内の隅の柳の樹の下に鳩がうずくまっていた。


「どうしたの? そんなところにいたら、猫に襲われるわよ」


 日香里はそっと近づく。


 鳩は逃げようとしなかった。ボーガンででも射られたのだろうか、胸に大きな傷がある。


「怪我をしているのね。可哀そうに……」


 思わず鳩を抱き上げて両手で包んだ。


 元気になってね。


 彼女は、ただ願った。するとほどなく鳩は、翼を広げて飛んだ。


 良かった。……日香里は、青い空を舞う鳩を見送った。


「へー、不思議な力を持っているね」


 背後から声がした。振り返って、アッと驚いた。その顔には見覚えがある。店のカウンターからボーっと外を見ているときに何度か目にした男性だった。近所に住んでいるのだろう。いつもジーンズと白いシャツといったラフな服装をしている。フリーターだろうと推理し、勝手に〝ジーン〟とあだ名をつけていた。向かい合ってはじめて、額の真ん中、仏像の白毫びゃくごうのある位置にホクロがあるのに初めて気づいた。


「ヒーリングというやつかな?」


 ジーンのとび色の艶やかな瞳が矢のように日香里を射た。


「あ……、いえ、私は何もしていません」


「そうなのかい? ずいぶんひどい怪我をしていたようだったけど」


 彼はそう言って、鳩が飛んで行った空を見上げた。


「失礼します……」


 彼の視線がおりる前に、日香里はその場を離れた。背後に視線を感じる。それに気づかないふりをしながら店へ向かった。胸がひどくドキドキしていた。


 気づかれてしまったのかしら、あの力に……。幼いころ、使ってはいけないと母親に命じられた力だった。そういえば、と思う。その力を使うなと、幼いころはきつく叱られたのに、小学校に上がるすこし前から叱られたことがない。まるで母親の人格が変わってしまったように。……なぜだろう?


 答えが見つかる前に狸小路商店街に出た。道は石畳に覆われているが古いものではない。5年ほど前に商店街の活性化をもくろんでアスファルトから改修されたものだ。そんなイメージチェンジを図ってみたところで、客足が増えることはなかった。今では半数ほどの店のシャッターは下りたままだ。


 日香里は商店街の中ほどにある和菓子の店、福松屋に立ち寄った。創業から300年続いているという老舗だ。そこの看板娘のみつ子は保育園から中学校まで一緒だった。


 彼女と仲の良かった並木世里奈が帰ってくることを思い出し、教えて喜ばせてやろうと思ったのだ。ついでに名物の桜餅を買って、面接に来る世里奈に食べさせてやろう。


 店に足を踏み入れると「いらっしゃいませ」と、3名の店員の声がそろった。広い店内には飲食スペースもあって、和菓子を買うとそこで食べることができる。提供される無料のお茶は高級なものらしく、自宅や店の茶とは一味も二味も違っていた。


「日香里さん、久しぶり」


 みつ子の営業スマイルは美しかった。さすが昨年の夏祭りで〝第1回ミス狸小路商店街〟に選ばれただけのものはあると感じた。


「今日は良い知らせがあるの」


 日香里は名物の桜餅を5個注文し、その日の午後に世里奈が来ることを伝えた。ところが、彼女の返事はそっけなかった。


「へー、何しに?」


「何って、彼女が勤めていた会社が倒産したじゃないですか……」


「知っているわよ、ニュースでやっていたから。メッセージも送ったのよ。そうしたらウチで雇ってもらえないかっていうの。無理だって、断ったわ。これ以上、店員は増やせないもの」


 彼女が箱詰めする手元を見ながら話す。いつ会っても、挨拶以外は目を合わせてくれないのだ。


「そうなのですか……。私、うちの店長に頼んでみたんです。そうしたら採用してもいいって。それで面接に来るんです」


「へー、そうなの。日香里さんが彼女と連絡を取り合っていたなんて、知らなかったわ」


「いいえ、連絡したのは久しぶりです。成人式以来です」


「あら、それじゃ、私と同じね。……はい、桜餅五つです」


 みつ子が包みをカウンターに置いた。


「よかったら、午後2時ごろに店に来て。並木さんがいると思うから」


 もしかしたら彼女は世里奈に会いたくないのかもしれない。そう思いながら福松屋を後にした。


 桜餅を胸元に抱きかかえて店に向かう日香里の心は複雑だった。仕事は順調なのに、みつ子の態度が冷たいからだ。自分に対して冷たいのは子供のころからのことで気にもならないが、どうして世里奈にまで、と思った。小学校、中学校と一緒に学んだ日香里の目には、みつ子と世里奈は親友のように見えていた。


 福松屋と阿工藤不動産の店は100メートルと離れていない。胸の中で渦巻く靄が晴れる前に店についた。


「お帰り! 内見の成果はどうだった?」


 ガラス扉を開けるのと同時に只埜寅吉ただのとらきちの声が襲ってきた。阿工藤不動産は全国に500もの店舗を持つ不動産会社だが、大半はチェーン店契約の小さな店だ。ここ狸小路店も、寅吉がオーナー店長を務める小さな店で社員は4名にすぎない。が、寅吉は売り上げも人員も10倍にすると意気込む野心家だった。おかげで世里奈の採用話もとんとん拍子で進んだ。


「はい、気に入って帰られました。契約してくださるそうです」


「即決か……」


 寅吉が微妙な表情を作った。日香里の報告を疑ったのだ。中古マンションの購入をその場で決めることなど滅多にない。


「……手付金は?」


「それが、契約の手続きの説明にお連れしようと思ったのですが、現金をお持ちではないということだったので、明日、ご来店いただく約束をしました」


「なんだ、1万円もなかったのか?」


 日香里の仕事のやり方が甘いとでもいうように、寅吉が顔をしかめた。


「金貨はお持ちだったのですが……」


「金貨?」


「はい、1枚7万円ほどするものを、数枚お持ちでした」


「本物か?」


 彼は興味と失望を合わせたような表情を作った。


「本物だと思うのですが、金貨を見るのは初めてだったので……。店長は分かるのですか?」


「俺だって金貨なんか見たことはないよ。怪しい奴だな。仕事は何をしているんだ?」


「サラリーマンです。単身赴任で来るから、ということでした」


 日香里は、橙野に書いてもらったアンケート用紙を差し出した。


「サラリーマン?」


「日香里さん、からかわれたのですよ。サラリーマンが金貨だなんて……。単身赴任なのに分譲マンションを買うのも怪しいわ。明日だって本当に来るかどうか、わからないわよ」


 パート社員の桜井彩弓さくらいあゆみが話題に入って、亜漣を怪しい人物だと認定した。30半ばの彼女は肉体が色気で出来たような主婦で、寅吉のお気に入りだ。営業社員の古井哲夫ふるいてつおは、店長と彼女が不倫関係にあると言うのだが、日香里にはまったく分からなかった。


「そんな風には見えませんでしたが……。とてもスタイリッシュな服装で、紳士的な方でした」


「もし、その人が本当にマンションを買うとしたら、サラリーマンじゃないわね。金持ちが愛人を囲おうとしているのよ」


 意見を変えた彩弓がつやのある視線を向けると寅吉がにやついた。


「それなら、ありうるな」


「そんな人には見えませんでしたが……」


 日香里は亜漣を悪く言われるのが面白くなかった。


「まぁ、いいだろう。一応予約扱いにしておいてくれ。申し込みが重複しないように」


 彼はパソコンを指した。物件データに予約を入れておけということだ。


「書類の作成も任せていいかな?」


「はい、1人で出来ます」


 日香里は胸を張った。


「前みたいに、お客様の名前の文字を間違えるなよ」


 1週間前、哲夫に頼まれて契約書を作った時、を誤ったのだ。それは哲夫の指示ミスなのだが、日香里の責任にされていた。


「はい。今回は大丈夫です。お客様直筆のアンケートがありますから」


 日香里はアンケートを返してもらって目を落とす。達筆な文字が並んでいた。

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