阿工藤不動産の魔法使いたち ――須能日香里の秘密――

明日乃たまご

第Ⅰ章 須能日香里の場合

第1話 内見

 カーサ・ストラーダの403号室は真空だった。物理的な意味での真空ではない。生活の痕跡こんせきや人の意思がないという意味だ。


 1LDKの室内には家具も家電もなく、ただ差し込む春の陽射しが空気を暖めていた。ベランダの向こうには豊かな加見川の流れと遊歩道があり、その先には南に延びる高速道路があった。それは龍の背のような山脈に吸い込まれるように消えていた。


 そんな403号室に命を吹き込もうと、阿工藤あくどう不動産の事務員、須能日香里すのうひかりは夢中だった。


「いかがです。先月、リフォームが済んだばかりで設備は新品です。遮るものがありませんから、日当たりも申し分ありません。狸小路たぬきこうじ商店街もショッピングモールも徒歩10分圏内ですし、単身赴任には……」


 そこで彼女は、。そして懸命に自分の気持ちを立て直す。


「……というのは個人的な感想です。私なら、こんな場所に住みたいなぁと思って……。ここは住むにはとても便利な場所だと思うんです。それに見てください。ここからの景色。加見川の清流と緑の山々……。すばらしいと思いませんか? ストラーダというのは、道のイタリア語だそうです。あの高速道路のことかもしれませんね」


 彼女は高速道路を指した。その終着点は憧れの街、東京だ。そこで颯爽さっそうと働くのが夢だったが、結局、大学も就職も加見市から出ることができなかった。地方採用の事務員として就職し、簡単な事務やアパートの入居案内ばかりしていたけれど、初めて中古マンションの購入希望者の案内を任された。この仕事を確実にやり遂げて、総合職を目指すつもりだった。そうすれば地方採用という枠組みから解放されて、東京本社での勤務の可能性も開ける。いまさら東京なんて、という思いもあるけれど、それなら田舎に何があるの、という気持ちもある。


 髪に少しばかり白いものが混じった橙野亜漣とうのあれんが日香里の隣に立った。甘い香りがした。彼と会うのはその日が初めてで、彼自身は会社員だと言ったが、ベージュ色のジャケットとオレンジ色のネクタイは普通の会社員のようには見えなかった。だからといって怪しげな職業の人物とも思えない。威圧感のない穏やかな立ち振る舞いは紳士的だった。


「確かに、眺望は素晴らしい」


 彼が眩しいものを見るように目を細め、そのままの顔で日香里に向いた。彼の瞳は自分の娘を見るようだ。男性にそんな顔で見つめられた経験がなく、日香里は恥ずかしさで仕事を忘れた。


「単身赴任の方を分譲マンションに案内するのは初めてです」


「そうなのですか?」


「普通、単身赴任者の方が探すのは賃貸マンションですから……」


 口にしてから、、と思った。賃貸マンションにしよう、と亜漣が気持を変えたら、売り上げが大きく減ってしまう。


 私はなんてドジなのだろう。店長の言う通りだ。……心がへこんだ。


 しかし、日香里の心配は無用だった。亜漣は穏やかな口調で言った。


「性格なのです。物を借りて気を使うのが嫌なのですよ。それに、このくらいの金額ならふところも痛まない」


「す……」すごい、本当の金持ちだ。そう言いそうになった。「……素敵なお考えです」


 笑みをつくって返した。


「須能さんの言う通りだ。この部屋に決めましょう」


 亜漣の決断に、日香里は胸をなでおろす。いや、あまりにも簡単に彼が購入を決めたので驚いた。賃貸ならともかく購入は、内見してから決めるまで、何度か足を運んで打ち合わせるのが普通なのだ。


「ありがとうございます。それでは手続きがありますので、店にお越しいただけますか?」


「これからですか?」


「はい。重要事項説明や売買契約、手付金の授受など、いくつか手続きが必要です」


「手付金か……。それって、カードでもいいのかな? それなら500万でも、1000万でも……」


「1000万! あっ、そんなには必要ありません。売買金額の10%ほどの現金が必要なのです。それに、印鑑も必要になります」


「そっかー。手持ちはこれしかないのですよ」


 亜漣がコインケースを開いて見せた。金色のコインが光っている。


「なんですか、それ?」


「金貨ですよ。メープルリーフコインといわれるものです」


 彼は1枚取り出して日香里の手のひらに載せた。


「へー、使えるものですか?」


「もちろん」


 日香里は始めて見るコインの縁を指でつまみ、しげしげと観察した。片面には女性の横顔が描かれていて、ELIZABETHというアルファベットと50ドルという表示がある。横顔はイギリスのエリザベス女王だろうと推測した。裏側には、楓の葉とCANADAの文字が浮かんでいる。それは窓から射す光をキラキラと反射させた。とてもまばゆい。


「綺麗ですね。金貨なんて始めて見ました」


「よかったら、さしあげますよ」


「エッ……」


 嬉しい!……言葉をのんだ。50ドルって、いくらだろう?……計算しようと思うが、そもそもカナダドルのレートなんてわからない。


 米ドルと同じくらいなら7千円ちょっとかな? それぐらいなら甘えても。……心がぐらついたのは一瞬だった。スーと理性がおりてくる。


「……いえ、いえ。お客様からいただくなんて、いけません。そうだ、私、買います。いくらですか?」


 財布には1万円ほど入っていると思って取り出した。


「相場なら、7万円というところでしょうか……」


 彼が口角をあげた。


「エッ……」息が詰まった。「……ごめんなさい、無理です」


 頭を下げた。


「謝ることはありませんよ。さしあげます」


「ダメです、ダメです。高価なものをいただけません」


 欲しい、でも無理!……胸の中で声を上げながらコインを返した。


「そうですか……」


 彼が残念そうに受け取り、コインケースの中に放り込む。


 ――キン――


 コイン同士がぶつかる涼しい音がした。その響きに、日香里は口惜しさを覚えた。


 素直にもらっておいた方が良かったかなぁ。……考える眼が、コインケースを懐に戻す彼の手を追っていた。


「どうしたらいいでしょう?」


 彼の声で現実に引き戻される。


「エッ……」


「手続ですよ」


「あ、そうでした。で、でしたら……」


 どうしよう?……日香里は考えた。が、考えるだけ無駄だった。手付金なしに契約する方法を知らなかった。


「それでは明日……。現金と印鑑、身分証明になる物を用意して店にお越しいただけますか?」


 精一杯考えて説明し、アポイントを取ることに努めた。


「わかりました。午後3時に顔を出しますよ。いいかな?」


「はい、では、午後3時にお待ちしています」


 日香里は、マンションの前で亜漣を見送った。彼の車が角を曲がって消えた時、「やった!」と、ガッツポーズを作った。

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