【KAC2024】深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いていますか?

ポテろんぐ

第1話

「こちらがトイレになりますね」


 と、私がトイレのドアを開けるや、内見に来た婆さんは中を見て顔を顰めた。


「きったないねぇ」

「まぁ、まだ住んでる状態ですから、その辺は考慮していただかないと」

「だとしても、掃除してないのかい? これ」


 便座の蓋は埃が一通り薄くかかっており、床や壁のタイルの細い道はほとんど黒くなっている有様だ。

 婆さんが汚いものを触る手で蓋を上げ、中を見れば、当たり前のように水と便器の境界線に汚れ線が見える。


 ていうか、玄関のドアを開けた瞬間から、埃が喉に刺さる様な違和感があったので、掃除なんか全くしていないだろう。

 婆さんの前では苦い表情を作っているが、内心では「このタイミングで内見に来たのは運が良かった」と俺はガッツポーズした。


「まぁ、ここから清掃業者が入るでしょうから……これぐらいなら綺麗になりますよ」

「清掃業者ねぇ……入れなきゃダメかい?」

「これくらいの汚さじゃ、業者を入れないと綺麗にならないですよ。お婆ちゃんが自分でやるなら話は別ですけど」

「なんで私がやらなきゃいけないのよ!」


 婆さんは怒りながら便座の蓋を閉めた。この態度を見れば「ない」と判断したのは目に見えている。

 たかだか、トイレの汚れくらいで決めなくても良いのに、前の部屋を内見している時から薄々感じていたが本当にケチで頑固だ。


「ここ、家賃はいくらなんだい?」

「聞くんですか?」

「参考までにね」

「ここは……あ、安いっすね。三万二千円です」


 この辺の相場と比べれば、破格の家賃だ。

 別に駅から遠いわけでも、日当たりが悪いわけでも、周りが五月蝿いわけでもない。もちろん事故物件ではなく、この家賃は安い。


 その家賃を聞いて、婆さんは更に顔を顰めた。


「なんだい、随分安いじゃないか? 駅から遠いわけでもないのに、もしかして事故物件かい?」


 婆さんがムッとした声で聞いて来た。


「違いますよ! 大家に聞こえるから、大声で言わないでくださいよ」

「じゃあ、なんでこんな安いんだい?」


 自分が住むわけでもないのに、なんで家賃が安いだけでこんなに怒ってるんだ、この人。普通の内見なら喜ぶんだが……一度『無し』と決めてしまった手前、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、家賃安いのがそんなに気に入らないのか?


「えーっと……どうも、ここの大家さんが最初、学生向けに貸し出そうとしたみたいです。でも、それじゃ埋まらなかったので、残った部屋を一般にも開放したそうです。ですから、学生価格みたいですね」

「なんだいそれ。これの前に見たアパートは幾らだい?」

「あそこは六万前後ですね。この辺のワンルームの相場くらいです」

「なんだい、あそこの半分近いじゃないか、ここ」


 婆さんは「呆れた」と言わんばかりのため息を吐いた。


「まさか、さっきの部屋の方がまともだったとはねぇ。壁なんてタバコで黄ばんでたのに」

「まぁ、あっちは家賃が高いっすからねぇ。どうします? もう出ますか?」

「……まだ部屋見てないだろ」


 そう言って、婆さんはトイレから出て、部屋の奥へと進んで行った。一つ前の時もそうだったが、見切りは早い癖に一応全部は見るんだな、この人。


 で、文句言うんだよな。


「やっぱ、安い家賃の部屋はダメだねぇ。家賃が安くて駅から徒歩圏内、風呂トイレ別、日当たり良好、こんな部屋住んでたら人間、性根までダメになってくわよ。家賃はやっぱ高いに限るわよ」

「ストイックっすねぇ、お婆さんは」

「だから長生きしてんのよ」


 婆さんは得意げにニヤッと笑った。言ってる事が無茶苦茶だ。


「三万しか払えないなんて、ありえないわよ」

「本当ですよ」


 俺はテキトーに煽てて、婆さんは人生論を垂れながら奥の部屋の襖を開けた。

 そこはもうゴミ屋敷と言わんばかりの惨劇。良いところを見つける方が難しい散らかり様であった。


「ひどいっすね」


 思わず俺も声が出た。


「まぁ、散らかってるのは良いとして……ここも壁が黄色いわね」

「タバコっすね。まぁ、壁紙は変えれば白くはなりますけど」

「私、業者が入るの嫌いなのよねぇ」

「え?」


 そんな人、聞いた事ないけど。

 それで、さっきの清掃業者も渋ってたのかよ。


「別にお婆さんのお金で入れるわけじゃないっすから。やるのはここの大家っすよ」


 やっぱり見るだけ無駄だったな。


「あと何件あるの?」

「これ終わると午後の内見があと一件です。次は……」


 俺は次の部屋の資料に目を落とす、


「あ、お婆ちゃん、次の部屋の家賃九万円ってなってますよ!」

「えっ!」


 俯いていた婆さんの顔に光が刺した。


「なんで、そんな高いのよ!」

「ああ、次の部屋、港区ですね。家賃は高いですけど、部屋の広さはここと変わんないっす」

「良いのよ! 部屋の広さなんてどうだって! 家賃九万円も払えるっていうのが嬉しいんじゃないのよ!」


 婆さんは顔色を変えて、ウキウキと小躍りをし始めた。あんまり物音立てないで欲しいんだけど。


「じゃあ、この部屋は無しって事で良いですか?」

「見るだけ無駄だったわよ。本当、セーターに埃がついただけだったわ」


 そう言って、婆さんは自分のセーターの埃を大袈裟に払い出した。

「本当にケチだな」って俺が内心で思っていると、ポケットのスマホが震え出した。


 どうやら向こうも終わったようだ。


「もしもし」


 俺が出ると、案の定、部下からの連絡だった。


「わかった。ちょっと待ってくれ」


 俺はスマホから顔を外して、小躍りしている婆さんを呼んだ。


「お婆さん。この部屋に住んでる男、『婆さんの部屋に決めたい』って言ってるんだけど。どうします?」

「そんなの断ってちょうだい。もうその家賃九万の部屋に住んでる人に貸すって、私は決めたから」


 あっそ。


「もしもし。お婆さん『部屋は貸さない』そうだから、『もう別の人に決まった』って言って断ってくれ。よろしく」


 俺と婆さんはスマホを切ると部屋を出て、しっかり施錠して、次の港区の九万円の部屋に向かった。


 俺は不動産屋に勤めている前は空き巣をやっていた。

 その時の鍵を開ける特技を生かし、仲介手数料とは別料金をもらう事で、「これから部屋を借りる人間の今の部屋を大家に内見してもらう」というサービスを始めた。


 俺と婆さんが今いる部屋は、今、婆さんが大家のアパートの部屋を内見中の男の部屋だ。内見している時にまさか自分の部屋が見られているなんて夢にも思っていないだろうから、当然、掃除などしてない、素の姿を大家さんに見せられるので、このサービスは好評だ。


「九万円も払える人なら、家賃五千円くらい上乗せしても大丈夫よね?」


 婆さんの車の助手席でウキウキしている。


「それ、同じアパートの人にでも聞かれてバレたら大事ですよ」 


 さっき連絡が入り、その九万の部屋の主はたった今、婆さんの部屋の内見に向かったそうだ。

 俺が言うのもなんだが、アパートの内見に行く時は気をつけた方がいい。


 深淵を覗いている時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。














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