番外:遠い外側より。いずれきみと、歌う日を。
グラスから世界を覗いたことがある。
頬を机にぺっしょり張り付けて、なみなみと注がれた液体の中で踊るしゅわしゅわの、その気泡のひとつひとつに閉じ込められた世界を見ていたことがある。
それはまだ私が大きな試験管から出たばかりで、今よりもずっと外の世界に焦がれていた頃。ようやっと身体が自由に動かせるようになって、けれども孤独なガラスの部屋からは出られなくて、そしてその意味をよく分かっていなかった頃の話だ。
当時の私に唯一満たされた記憶とよく似たグラスの世界に、私は親近感を覚えたのだと思う。
「博士。これは何ですか?」
「サイダー」
スピーカーから、素っ気ない声が飛んでくる。
見遣れば、博士は研究机に脚を投げ出して読書に耽っていた。もとより彼女は行儀よく机に向かうタイプじゃないが、その日は輪をかけて酷かった。あっちへふらふら、こっちへふらふら。落ち着いたかと思えば外へ飛び出して、ヘンな味の飲み物とお菓子を買ってきては不味そうに食べる。読んでいる本も研究には関係ない旅行ガイドだし、厳めしいパソコンは起動すらされていない。
きっと悩んでいたのだろう。色々なことに。
「液体の話じゃないです」
博士は白衣の似合わないヒトだった。
拘りによって皺ひとつなく手入れされたそれ自体の見てくれはいいのに、本人と併せた途端にダメになる。着丈のみが飛びぬけて長く、ギリギリで床に引きずらない程度に調整された謎のオーダーメイドの、素材はなんとシルク。わざわざ手間暇かけてアイロン掛けまでしていた。それでも本人のスタイルが良いから、まあちょっと強すぎるアクセントとしてまとまってもいいのに。きっと彼女生来の性質によるものだったのだろう。
内側に着こんだパンクスタイルなニットとショートプリーツスカートとの奇妙な着合わせも、持ち前の美貌で暴力的にまとめ上げていたのだが、やはりどうにも白衣を着るようなタイプには見えなかった。博士は白衣よりも軍服が似合うような、そういうタイプの美人だったのだ。
つまるところ、彼女は研究職というより戦闘職だったのである。
「じゃあ何?」
「これです」
グラスを爪で弾く。小さく輝くような音が、私の世界の内側に散らばって消えていく。
「それがどうしたの?」
「ここから覗いた世界は、なんだかいつもと違いました。見た目だけの話じゃなくて……何というか、特別感がありました。これは、いったい何ですか?」
「ふうん。それはきみが人工……いえ、大きな試験管の中で見ていたものと似ていた?」
「はい」
「そう。じゃあ今から私もそっち行くから」
「え!」
博士の言葉に、私は喜びを隠せない。だって彼女がガラスの内側にやってくるのは、決まって私に痛い注射をする時だけだったのだから。加えてその際の博士は、まるで宇宙飛行士が着るようなぶ厚い服に身を包んでいて、顔だってろくに見えやしないのだ。私が注射を嫌いになるのは当然の帰結であった。
「注射はするよ」
「そんなあ」
「でもこれが最後よ」
「やったあ!」
我ながら単純だ。純粋だったのである。
厳重なセキュリティで幾重にも封をされた扉が、開いて閉じる。入ってきた博士は、どうしてだか宇宙服を着ていなかった。
「えっ、いいんですか?」
「ん? ああ、服? いいよ別に。今回はダメ押しみたいなものだから。免疫疾患はとっくに完治してるもの。今までは経過観察と、不確定要素が高すぎたので隔離してはいたけどね。万全を期すならあと半年は欲しかったし。でもまあ、そうも言っていられなくなっちゃったから。本当は、少しずつ段階を踏みたかったよ」
「へえ」
博士の言っていたことなんて、私には結局半分も分からなかった。けれどもそれで不都合はなかったし、そもそも私が歯向かったところでどうなるわけでもなかった。もっとも、当時は反抗なんて考えてもいなかったことである。せいぜいが注射の痛いので喚くくらいだ。
それに、なんだかんだ言って博士は優しかったのだ。買ってきた飲み物やお菓子の中では比較的マトモに食べられる奴を私にくれるし、本やゲームなど、求めれば娯楽だって用意してくれた。ヒマな時は将棋や囲碁にだって付き合ってくれた。
博士の去った後、私を保護しに来た数々の大人は、みんながみんなとは言わないけど、それでも殆どの人が私と博士の関係を邪推した。私のことを可哀相だと言ったヒトも居た。けれどもそれは、大きな間違いだ。
私は博士に愛されていた。
それだけは、真実なのだ。
「チクっとするよ」
準備を終えた博士が、私の腕に触れる。注射が終わって、消毒をして、私はちょっと泣いた。
痛みを堪える私の頭を、博士はそっと撫でてくれた。彼女と素肌で触れ合ったのは、私が憶えている限りで、この時が最初で最後だった。
「……」
「はい。終わり。……どうしたの?」
私はいつの間にか、博士の腕にぎゅっとしがみ付いていた。寂しかったのである。何となく、この後に起こることを予見していたのだ。
「……」
「はは。大丈夫だよ。私はちょっと出かけてくるだけ。またいつか会える……は分からないけど、少なくとも生きてはいるから。きみも私もね」
「どこ、行くんですか」
行かないで、とは言えなかった。私は良い子だったのだ。良い子であり過ぎた。だからその時の私は、本当に言いたいことを言えなかった。
そうだ、言えばよかった。
言えればよかった。
でもできなかったのだ。仕方がないじゃないか。
だってこの時の私は、この世界に私の力で変えられる何かがあるだなんてこと、これっぽっちも知らなかったんだから。
私は、気付けば博士の膝の上に乗っていた。彼女の方から抱えてくれたのだ。
「そうだなあ……ここよりは寒いところかな。アイルランドって国で、まずは首都のタブリンに降りる。その次はキルケニーかな。ビールが好きなんだ。そしてそのまま時計回りに島を一周するんだ、できるだけ時間をかけてね。ディングルまで行ったら、リムリック、ゴールウェイ。ぐるっと周って、最後はベルファスト。それが終わったら、まあその時考えようかな。今のところはノルウェーのスヴァールバルに行こうと思ってるけど。SGSVだけはどうしても見ておきたくてね。あ、もちろん内緒だよ。後に来る大人たちにはジワタネホって言っといて」
博士の言葉に、私は頷く。
私が世界地図を広げて博士の足跡を追うのも、ジワタネホの意味を知るのも、これからまだずっと先の話。私を保護した大人たちの監視が緩くなって、一人暮らしを認められた高校生になってから。要するに、つい最近のことである。この時はまだ、博士の言うことを憶えるので精一杯だった。
「ばいばい、らら。元気でね。私、きみの歌が好きだったよ。この後すぐに大人たちがやってくるから、きみは彼らについて行きなさい。色々あるだろうけど、悪いようにはされないからさ」
言うと、博士は私を膝から降ろした。私の方は博士の言葉を頭の中を必死に繰り返すうちにすっかり眠くなってしまっていて、この時はもう夢うつつだった。注射に何か入っていたのだろうか。今となってはもう分からないし、だから、この時の博士の言葉も、本当にあったことなのかは分からない。
けど、彼女が去る最後の最後。
私の記憶に、きっと久遠に焼き付いているのは。
「ああ、そういえば。グラスのことを聞きたがっていたね」
たくさんの光をつかまえた世界で、きれいなしゅわしゅわみたいだった博士。グラスを持ち上げて、閉じた世界に外側を見出していた、その姿。「らら、これはね」
白衣の博士が、私は嫌いじゃなかった。
「──というんだよ」
私の名前は双葉らら。試験管生まれの無菌室育ち。特技は歌うことで、国際指名手配犯双葉シヲンの戸籍上の娘。ひとり暮らしを絶賛満喫中の女子高生である。
そして。
またの名を歌桜(うたおう)蘭喇羅(ららら)
今を時めくバーチャルライバーにして、大人気バーチャルシンガー。通称ラララちゃんである。
▼
私がバーチャルライバーになった理由は単純で、みんなが知らない私になりたかったからである。この単純な理由は、私にとっては結構重い。何故なら私は、あの双葉シヲンの娘。しかも国際的にその存在を認められた世界で初めての試験管ベビーだ。今は国の尽力で大分どうにかなっているけど、名前を調べれば当時の顔写真くらいバンバン出てくる。私は国際的に有名人なのである。
あとは、強いて言えばストレス発散だろうか。小学校と中学校は通わせてもらっていたけど、自由は殆どなかった。双葉シヲンが私に何かアクションを仕掛けてくる可能性は十二分にあったし、私がシヲンと通じている可能性だって疑われていた。その容疑が晴れたのは本当に最近のことである。少なくともひとり暮らしが認められるくらいには潔白が証明されたのだ。
……とはいえ私はちゃっかりシヲンとの約束を守って、彼女の行先をジワタネホだと偽った。だから実はちょっぴりグレーというか、まあ黒と言われても仕方がないかもしれない。秘密だ。
そんなこんなで始めたライバー活動だったが、これが想像以上に上手く軌道に乗った。乗り過ぎて常軌を逸するレベルに。特殊な育ちのせいで友達がろくに居らず、お喋りを苦手としていた私だったが、もとより歌には自信があった。そういうわけで歌ってみた動画を投稿したところ、これがバズった。それで調子に乗って自作の歌を投稿したところ、これもバズった。そのうちに普段の配信のへたっぴさも愛嬌として捉えられるようになった。ちやほやされることに慣れておらず、また自身の才能を過信しまくった私は、怒涛の勢いで歌動画の投稿、生放送の配信を繰り返し、瞬く間にスターへの階段を駆け上ってしまった。正気に戻った時には既に謎の歌ウマヴァーチャルシンガーとして名を馳せるようになり、私を保護してくれた職員さんたちとの定期面談で生暖かい目を向けられるようになっていた。私は恥ずかしくなって、死ぬ気で作詞作曲の勉強を始めた。今はそのせいで配信が疎かになり、なんと失踪まで騒がれている。なんでやねん。
いや仕方がないのだ。生い立ちのせいでSNSは未だに禁止されているし、しばらくは配信する気も起きないのだ。自分の歌と配信を見返すのも、ちょっと怖いのだ。
と、いうわけで。
私は初心に帰り、高校生活を謳歌することに決めた。リスナーのみんなには悪いけど、ラララちゃんはしばらくお休みである。これで万事オッケーだ。問題があるとすれば、ライバー活動に精を出し過ぎたために学校で若干浮いているということだろうか。別に身バレしているわけではない。イヤな意味で有名人の私に臆さず話しかけてくれる人だっていた。ただ配信を頑張るために放課後すぐ自宅直帰をしていたら、いつの間にかぼっちになっていただけのことである。
『青春がしたいです』
『はあ。お好きにどうぞ』
困り果てた私が泣きついたのは、ライバー活動以前からハマっていたオンラインゲームを通じて知り合ったコウさんである。彼は私がバーチャルライバー歌桜蘭喇羅であることを知っていながら、それでいて私をただの通話相手ラララとして扱ってくれる。稀有な人格者だ。
それにしてもSNSが禁止なのにオンゲーでの通話や配信活動が許されるあたり、私の面倒を見てくれている国の基準がよく分からない。これが縦割り組織というやつなのだろうか。違うか。
『それができたら相談しませんよ。あ、そういえばこの一週間どうしてたんですか? 急にログインしなくなったのでビックリしましたよ』
『帰省していました。親友の……いや、親友に会ったり、久々に叫んだりして、色々大変でした』
『へえ、楽しそうですね。私にお土産とかあったりします?』
『食べきれないくらいの羊羹ありますけど送りましょうか』
『あ、すみません。私、住所非公開なもので』
『はいはい』
コウさんについて、私は彼が文系大学生だということくらいしか知らない。けどまあ職員さんたちから交流を止められていないということは、つまり悪い人ではないのだろう。それは彼の落ち着いた話しぶりからも受け取れることで、私は彼のことをそれなりに信用していた。
『で、青春でしたっけ。この前はラララちゃんの活動が忙しくてそれどころじゃないとか言っていたのに、どういう風の吹き回しですか』
『い、いやまあ、なんというか。そういう風の吹き回しでして』
『ふうん。でも意外ですね。ラララちゃんなんてやっていてるくらいだから、青春なんてお手の物かと思っていましたよ』
『どういう意味ですか?』
『え、だって初めてのオリソンの『外側に向ける歌』なんて今じゃ若者の定番遠距離ラ──』
『あーいいですいいです。本当にそういうのいいです。別にそんな気持ちで書いたわけじゃないですから。マジで違うんで。リスナーが私を置いてけぼりにしないでくださいよ』
『あ、はい』
つい言葉を遮ってしまった。でもあれは本当に違うのだ。世間でアレコレ言われているようなキュンキュンした意味なんて微塵も考えていなくて、ただシヲンと過ごした最後のひと時の気持ちを詩として書きなぐっただけのものだ。それ以上でもそれ以下でもない。それを世間は製作者の私を蚊帳の外にして盛り上がっているのだ。
そのままぶつぶつと文句を続ける私を、コウさんが宥めてくれた。
『でもまあ俺も、世間で言われているようなそれじゃないけれど、大切な人と会えない辛さは分かります。というか、最近痛感したばかりです。遠すぎて叫ぶしかないのに、たとえどれだけ叫んでも喉の奥から飛んでいかない虚しさとか、なのに飛んでいく言葉の軽さとか、特に』
『……なんだか、詩的な表現ですね。素敵です』
『あはは。ありがとうございます』
何かあったんですか、と。ここで聞けないのが、やっぱり私の弱さなのだろう。でも同時に、軽々しく踏み込んでもいけないようなかんじがして、私はどうしてもそれを無視できなかったのだ。それに、何というか。いつも落ち着いていて、もっといえば超然としている節のあるコウさんが、初めて弱さと呼べるものを見せたものだから、ちょっと落ち着かなかったのもある。
コウさんは続ける。
『ま、ちょっとばかしの人生の先輩から言わせてもらえば、やれることはやれるうちにやっといた方がいいってことです。青春なんて特に、決してずっと続くわけではないし、ふいなきっかけで簡単に終わってしまうものだって。これは俺のひとつ上の先輩の受け売りですけれどね。……まあもちろん、そこまで悲観的になることもないですけど。でもやっぱり、できるうちに前を向いて、色々やってみるべきですよね』
『……はい、ちょっと怖いけど、その通りだと思います。……あ、ちなみにコウさんの青春ってどういうかんじだったんですか?』
『え、俺ですか。俺は……田舎の高校で娯楽が少なかったものですから……地元の生臭坊主に、麻雀を教わっていました……』
『灰色の青春……』
『親友はその坊主からタバコ盗んでいましたよ』
『急に物騒!』
『ですよね』
コウさんが笑いながら呟いた同意の言葉はとっても嬉しそうで、それでいて私には、何だか今にも泣き出しそうなように思えてならなかった。
▼
コウさんとの通話から一夜明けた月曜日。やっぱり私は学校でひとりぼっちだった。そもそも季節はとっくに秋を過ぎて、もう冬に入っている。ここから人間関係を新たに構築していく方法など本当に存在するのだろうか。少なくとも私には無理で、灰色のコウさんは使い物にすらならない。
よって、だ。
灰色の一日をなんとか乗り越えた放課後。ことが起こったのはこの時である。
「おかあさん……どこ……」
「あー、えーと、その」
「……ふえぇ」
「あ待って待って、泣かないで。ほらお姉ちゃんの方見て? 大丈夫だからね?」
私は、帰り道で迷子の女の子と向き合っていた。
「……えぅ」
「あーダメダメ。待って。そうだ、ねえ、何か遊ぼう?」
「ふふ。双葉さんたらタジタジ」
「宇井さんも手伝ってくださいよ!」
「大声出したらダーメ。この子がびっくりしちゃうよ」
「え、あ、ごめんなさい」
狼狽える私を見て、宇井さんは微笑む。彼女は私と同じアパートに住んでいる名門女子高の三年生だ。いつも何かと良くしてもらっている。小柄で可愛らしいヒトだが、見かけによらず結構やんちゃで、ちょくちょく学校をサボっては勝手に小旅行を繰り返しているちょっと変わったヒトだ。私はその話を色々と聞かせてもらっては、情景に思いを馳せている。身勝手な旅行なんてもってのほかな私からすれば、宇井さんの話は眩しいものばかりなのだ。特に去年の夏に海を見に行った話はすごく面白かった。何と言っても、宇井さんが将来を誓い合った仲である彼女の後輩の女の子との旅行話だ。私は最初から最後までドキドキしっぱなしだった。
「さて。お嬢さん」
宇井さんがおもむろに跪く。女の子と目線を合わせたのだ。
「とっても綺麗なお洋服ね。お母さまに買ってもらったの?」
こくん、と。女の子はおっかなびっくり頷いた。
「お名前は言えるかしら」
「……まい」
「まいちゃん。とっても素敵なお名前ね。教えてくれてありがとう。私のことはかすかお姉ちゃんって呼んでね。こっちはららお姉ちゃん」
「よ、よろしくお願いします」
宇井さんに急に紹介されて、つい声が上ずった。私は子ども相手になんでこんなに緊張しているんだろうか。自分で自分が恥ずかしい。
「……よろしくおねがいします」
「まあ。ご挨拶もできるのね。とってもお上手よ。まいちゃんはお幾つなのかしら。四歳? 五歳?」
「よんさい」
「四歳! 私がそれくらいの頃は、まいちゃんくらい上手くご挨拶はできなかったわ。まいちゃんはとっても賢いのねえ」
「えへへ。ありがとう、かすかお姉ちゃん」
すごい。あっという間に懐柔してしまった。
「双葉さんの対人能力がめためたなだけだから」
「心読まないでくださいよ」
「顔に出てるもん」
「あぎゃ。す、すみません……、そ、それより、どうしましょうか。警察に連絡した方がいいんでしょうか?」
「んー。もうちょっと待ってみましょうか。人通りの多くない道路だし、すぐにお母さまが戻ってくるかもしれないわ」
「分かりました。宇井さんはお時間大丈夫なんですか? 私はヒマなんですけど……」
「大丈夫。かなちゃん──私の大切な後輩が、今日は生徒会の集まりで遅くなるから、それまでかなり時間があるの」
「後輩さんて、例の」
「うん。私の大好きな娘(こ)。とっても可愛いのよ」
大切、大好き。可愛い。
宇井さんは、何も臆することなく、彼女の後輩への愛を表現する。聞いているこっちがドキドキするくらいに。
大切なヒトが身近に居るというのは、きっとそれくらい幸せなことなのだろう。私には、それがちょっとだけ羨ましい。ほんのちょっとだ。
「ラララちゃんのファンは身近じゃない?」
私はこのヒトにも身バレしているのだった。普通に自分のせいである。他校の友人ができたのが楽しくてウキウキで部屋に招いていたせいだ。
「私ってそんなに顔に出やすいですか?」
「とっても。私がそういうの得意なのもあるけど」
宇井さんは口元を押さえて笑う。
「まあ確かにファンやリスナーの存在はありがたいですけど、何というか、私とラララちゃんの間には無視できない確執があるので……」
「ふうん。よく分からないけど、そういうものなのね。勉強になるわ」
そういうものなのです、と。私はしたり顔で頷いた。これが登録者数二百五十万人を超える大人気ライバーの悩みだ。別に誇れることではない。
「宇井さんみたいに何事もそつなくこなせればいいんですけどね」
〝双葉らら〟と〝歌桜蘭喇羅〟。片やその存在や人権を根底から否定されかねない、国際指名手配犯の子ども。片やインターネットでは知らぬ者などいない、全世界で愛される歌姫。
どちらも私であるはずなのに、その在り方はあまりにも乖離していて、次第にそのギャップが苦しくなっていた。
私がライバー活動から離れて正気に戻った時。つまり、私はどこまで行っても、〝双葉らら〟ではなくならないと気付いた時。私は私自身の空っぽさに現実感を失って死にたくなった。希死念慮というのを、私は初めて実感した。
今の私は世界の広さを知った代わりに、世界の輝きを感じ取れなくなってしまったような、そんな気がしてならない。きっと今になって急に青春なんてものを追い求めようとしているのは、その反動だ。ガラスの内側から世界を覗こうとしていたあの時の私が今の私を見たら、酷くがっかりするんじゃないだろうか。
そんな鬱々とした気持ちの私に、宇井さんはあっけらかんと告げる。そんなことないよ、と。
「え?」
「ぜーんぜん。そんなことないよ。できないことばっかり。私にできなくて双葉さんにできることの方が山ほどあるもん。もし私が何でもできるように見えるなら、それは私が自分勝手だからだよ」
宇井さんは笑っていた。彼女はまいちゃんの頭をよしよし撫でながら、楽しそうに。
私は壁に寄りかかりながらその光景を見降ろして、宇井さんの言葉を反芻する。
「自分勝手?」
「そう。自分勝手。私は私のできることをやって、できないことをあまりやならいだけ。あ、挑戦しないわけじゃないよ。できたらできたで楽しいもん。やってダメなら諦める。楽しかったらまたいつか。できないことは、素直に助けてもらう。自慢じゃないけど、今の私にはそれができるからね」
「たしかに自慢ではないかもですけど……惚気じゃないですか?」
「あはは。そうかも」
宇井さんが顔を上げる。きらきらと陽の光を反射する彼女の瞳の、それとよく似た光景を、私はどこかで見たことのある気がした。
「お姉ちゃんたち、何のお話してるの?」
「うんとね。ららお姉ちゃんは、お歌がすごい得意だってお話だよ」
「え! ららお姉ちゃんお歌が歌えるの!」
「ちょ」
「うん。ららお姉ちゃんは何でも上手に歌えるんだから」
「じゃああれ歌って、うたおうらららのお歌! まい、うたおうらららのお歌が大好きなの!」
「ぴぇ」
「ふふ。ですってラララちゃん。ファンの子がお待ちかねみたいね」
「え、えーと……今はオフだし外だし顔出ししてないし、周りにヒトの目が──」
なかった。
ここはもとより人通りの少ない道。たとえ放課後であっても、それは変わらない。小声で歌えば誰かに聞かれる心配もないだろう。
そう考えると、ここでまいちゃんのために歌うのは難しいことじゃない。滅多にあるような機会でもないし、文字通り温室育ちの私にとっては、不特定多数への身バレの可能性というドキドキする体験をしておくのも悪くはない。そうだ、どうせなら敢えて身バレすることで世間を混乱させるのも──いや悪いけど……。
「……お歌、歌ってくれないの?」
「う、いや、そんなことは……でもやっぱり……」
「小声で歌えば大丈夫よ。ほら、しゃがんで」
「は、はい」
宇井さんに促されて、私はようやくまいちゃんと目線を合わせる。まいちゃんが嬉しそうに微笑むのに対して、私はぎこちなく笑い返した。
隣に座る宇井さんからは、何だかとてもいい匂いがして、ちょっと落ち着かない。
「それに──」
私の気も知らず、宇井さんが囁く。耳がくすぐったくて、私は小さく身体を震わせた。
宇井さんは続ける。
「それに双葉さん、実は結構悪い子だもん」
「……え」
「悪い子に、なろうとしてる」
悪い子。その言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
「双葉さんは、選択肢を間違えられない人生だったから、まだ少し怖いのかな。でも大丈夫、間違えたっていいんだよ。もし間違えてちゃったら、それを次に活かせばいい。今じゃなくて、未来のために。勇気を出して、いっぱい間違えて、後でその間違いを正解にしちゃえばいいんだもん。それに双葉さんが悩んで答えた間違いが、まいちゃんにとって唯一の正解になるかもしれないよ?」
まいちゃんの目線で揺れていた私の気持ちが、宇井さんの一語一語で、さらに揺れる。
悪い子。
そんなこと、初めて言われた。
でもそれは、〝悪い子〟は、確かに今の私の中にいる、間違いなくホンモノの私。
博士の行く先を大人に偽った時から私の心に棲んでいる、私がまだ純粋だった頃にもたしかに居た、無自覚な私。
宇井さんはそれを、すっかり見抜いていた。
「ねえ。双葉さん。あなたなら大丈夫」
宇井さんの目を見る。きらきらと輝いて、まるで世界を覗いたみたいな目。
まいちゃんの目を見る。力強く、世界の美しさを想っている目。
そのどちらも、私は知っている。
そうじゃない今の自分も、ちゃんと知っている。
「はあ、そんなに発破かけられたら歌わないわけにいかないじゃないですか」
宇井さんの、大丈夫という言葉。甘い声でそれを繰り返された私は、なんだか心の底から、何も問題なんてないような気がしてきた。
だって。どうやら私は、悪い子らしいから。
自分で自分を困らせるのも、たまにはアリだ。
はあ、と。私は息を吐く。もうすっかり宇井さんに乗せられてしまった。
「一度きりの青春なら、間違えない方が損かあ」
「双葉さんの言う通り。そっちの方がとっても格好いい。私にとってはれが、〝双葉らら〟だよ」
「私はどこまで行っても、私ってことですか」
「もちろん。私のお気に入りのお友達。歌が上手で、抜けてて、不器用で、会話下手な、悪い子」
「殆ど悪口じゃないですか」
「そうかなあ」
そうだとも。歌が上手いことくらいしか褒められてないじゃないか。
そんな旨の文句を続けようとして……まいちゃんが、いいかげん焦れていることに気付いた。
しゃがんで目線を合わせていなければ、きっと分からなかっただろう。何事も、やってみなきゃ分からないものなんだ。
そんなかんじで、ぼちぼちやってみるもの、悪くないだろう。
一度きりの青春。たとえ時間がなくても、時間をかけて寄り道をして、そうやってひとつひとつ自分を拾っていくのは、きっと悪いことじゃない。
やれることを、やりたいことを、分からないことを、つまらないことを、面白そうなことを、とりあえずやってみるというのは、きっと楽しい。
「待たせてごめんね。じゃあ、歌うよ」
「うん!」
さあ聞いてくださいな、小さなリスナーさん。歌ばっかりが上手くて、それ以外はてんでダメで、欠点ばっかりで、色々なヒトのおかげでどうにか生きている、そんな人間らしい私の、自慢の歌を。
遠い遠い、どこにいるのかも分からないヒトに向けた、心の底で焦がれた歌を。
「『外側に向ける歌』」
まずは、短い前奏。私は鼻歌でそれを奏でて、息を吸って、そしてついに、歌を歌う。
小さなガラスに閉ざされた、あの内側の世界。
グラスから世界を覗こうとしていた、あの時の私の気持ち。眠る前に見た、博士への気持ち。
どれだけきれいに歌っても、当時の純粋な私には、もう二度と戻れないけど。
それでも私は、小さな声で歌おう。
身勝手に、自分本位に、歌おう。
だって私は〝双葉らら〟、イコール〝歌桜蘭喇羅〟ですから。
だからラララの歌を、歌い続けよう。
私は私を受け入れよう。こんな自分も悪くはないよって。悪い子になるのも悪くないよって、昔の私に言ってやろう。
現実は上手くいかないし、友達は少ないし、死にたくなるし、博士には会えてないけど。それでも私のためにアドバイスをしてくれたり、心配してくれたりする人は居るよって、言ってあげよう。
私の歌から世界を覗く子のために、歌を歌おう。
そうやって、私は私の小さな世界を、ちょっとずつ広げていこう。いつかきっと、誰にでもだって、手が届くように。
だって私は悪い子だから。
それくらいじゃなきゃ、満足できないのだ。
ああ何だか、今日はとってもお腹が空いたな、と。ふいにそんなことを思う。帰ったら食べきれないくらいの羊羹でも送ってもらおうか。私は悪い子なんだから、爆食いだって悪くないはずだ。
ちらりと横に目を遣れば、宇井さんは楽しそうに身体を揺らして、リズムをとっている。
正面のまいちゃんは、目を大きく見開いて、興奮を隠せていないようだ。
だから世界のどこかで私の歌を聞いている誰かも、同じように感情を揺らしているといいな、と。私はずっと、そう思っている。
悪い子の私は欲張りだから、私の大好きなヒトが、私の歌を、世界のどこかで聞いていると、心の底から信じている。
す・ご・い。まいちゃんの口が、そう動くのが分かる。そうだ、すごいだろ? ラララの歌う歌は、ららの作った歌は、博士に褒められた歌声は、すごいだろ。だから今度は、私がこの子に教えてあげよう、その気持ちの正体を。
私がそれを、博士から教わった時のように。
「『ら・ら・ら──!』」
曲のテンポが上がる。転調する。そうだ、ここからが本番だ。サビだ。だから私の歌を、どうかそのまま聞いてほしい。
──まいちゃん、それはね。
──グラスから、世界を覗いた気持ちは。
──きらきらで、しゅわしゅわで、特別な。
「『恋というんだよ』」
ねえそうでしょう、お母さん?
乙女心よ染むるまで燃えよ 私情小径 @komichishijo
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