乙女心よ染むるまで燃えよ
私情小径
乙女心よ染むるまで燃えよ
学校をさぼるまで海を見たことがなかった。
だから、古びた三両編成の端っこで見えた空よりも深い蒼のそれが、まさか本当に海と呼ばれるものだなんて、私はちっとも信じられなかった。
「かすか先輩」
一方で私は、終点の音というものを知っていた。
駅に到着するためのブレーキと、減速。私の世界が外側の景色に追いつくときのそれは、終点とそれ以外ではまるで違った音を奏でるのだということ、そしてそれはひどくゆったりとした音色なのだということを、私は耳元で寝息をこぼす先輩から教わった。
「んっ、かなちゃん」
甘く艶やかな声が、耳朶に触れる。
あつさでじっとりと汗ばんだセーラー服が冷房の効いた車内の空気と混じりあって、ぶるりと身体が震えた。
「起きてください、先輩」
「えー、もう着いたのお? やだあ」
「先輩」
当然のごとく、かすか先輩は起きようとしない。
まるで駄々っ子のようだ。かすか先輩は冗談めかした言葉を伴って私にぐっと擦り寄る。
「せ、先輩っ、あ」
先輩の唇が、私の首元を啄む。
ぞわぞわと、震えが全身に伝播する。
食べられてしまう、と思った。このままだと本当に、食べられてしまう。
かたちのない熱が私の身体の深い部分で暴れ出して、視界がじわりと滲んだ。あたまがふわふわして何も考えられなくなる。熱がこもって、ただあつかった。
「せんぱ──」
「──なあんて。行きましょ」
唐突に、熱が離れる。
かすか先輩はさっと席から立ち上がると、そのままくるりと踊るように回って、私に手を差し伸べた。
そんなかすか先輩を見ながら、私はぎこちない呼吸を何度か繰り返す。人差し指と親指の付け根で目元を拭って、やっとの思いで気を落ち着けた。
「かなちゃん、行かないの?」
見上げた先のかすか先輩が、光の中で首を傾げる。照らされた髪が淡いブラウンに色づいている。
ウェーブを描いた毛先が肩の上で遊ばされていて、なんだか天使みたいだと思った。
「行かないの?」
「……行きます!」
かすか先輩の手を取って、ぐいと引っ張る。
勢いづけて立ち上がって、そうなれば今度は私がかすか先輩を見降ろすかたちになる。
「む、なんだか生意気」
「えっ」
そんなつもりはなかった。が、どこかおかしな態度でも取ってしまっていただろうか。
「冗談だよ、もう。そんな顔しないで。さ、ほら」
「え、あ」
かすか先輩が、私の手を引く。サイズのあわないローファーが床を弾いて音を立てる。
つま先の圧迫感で自分の存在を確かめながら、私はあわてて走り出した。
数歩の果て、手をつないだまま前のめりでホームに飛び出した私たちを出迎えたのは、まるでくもり空を水につけて洗ってからよくこねたような、独特なにおい。
そんなにおいが、遥か遠いどこかから眼下の町を越えて、風に乗って運ばれてきている。
私は深呼吸をする。知らないにおいと知らない空気をめいっぱい身体に取り込んで、改めて町を眺めた。
知らない町だった。
高台にあるこの終点から、私は今まで一度も見たことのない町を見降ろしていた。
「かなちゃん、あれが海だよ。う、み」
かすか先輩が指さすのは、名前も知らないこの町よりもうんと大きい、空とは違う蒼。
もっと深い蒼。まるで知らない、蒼の世界。
見たことのない色。聞いたことのない風。嗅いだことのない世界。この場所はたくさんの知らないものであふれている。
私は時間をかけて、それらを全身で感じる。
肌も舌も、使えるものは余すところなく、五感を存分に使って、この知らない世界を身のうちに取り込む。
そしてようやく、私は自分が学校をさぼったのだという、その本当の意味を実感した。
白昼夢の端境からうつつへと踏み出すように、おぼろげだった言葉がかたちを成す。
学校、さぼっちゃった。
口の中で音のお菓子を転がしてみる。なんて不思議に舌を撫でつける甘美な味だろう。
いつもの世界とはまるで違う、誰も自分を知らない土地に、私は立っているのだ。
「かすか先輩」
かすか先輩が私の手を強く握る。私もまた、かすか先輩の手を強く握り返す。
「学校、さぼっちゃった」
「ね。やっちゃったねえ」
私はいいけどかなちゃんはすごい怒られるよねえ、と、かすか先輩は笑っている。
そうかもしれない。たしかにそうかもしれない。けれどそんなこと、どうでもよかった。
空いているもう片方の手で、私は目の前のてすりをぐっと握る。てすりは大部分が錆びで赤く染まっていて、それを見た私は、今この身に受けている風が、この身を包むにおいが、潮風と呼ばれるものなのだということに、気づいた。
潮風。潮の風。海から吹く風のこと。
「あ、そっか。あれが海なんだ」
「ふふ、そうだよ。あれが海」
かすか先輩が、握りあった私たちの手を前後左右にぶらぶらと揺らす。
こうして、私の世界は広がっていく。
かすか先輩とつながることで、私の世界は色づいていく。あたまのなかのパレットに、またひとつ色が加わる。
「ね、あれ見て」
言われて、私は先輩の指先を辿る。
細やかに手入れされた陶器のような肌に陽光を反射するベージュのネイルポリッシュ。
いつも私をからかう柔らかい指。その先っぽの冷たさは、私の頬だけが知っている。
示された先にあったのは、駅を降ったすぐそばにある駐車場、そこから今まさに出発しようとしている、ところどころが錆びた白のバスだった。
「あっ」
「次のバス、何分後だったかなあ」
かすか先輩は、いつも楽しそうに笑う。
▼
「ごめんなさい、私のせいで」
「もー何回謝るの! 本当に怒っちゃうよ!」
かすか先輩の頬がぷくうっとふくらんで、ぷしゅうっとしぼむ。
私のせいでバスを乗り過ごしたことを、かすか先輩は怒らなかった。
時刻表によると次のバスは三十分後で、田舎にしては本数の多い方だったが、かすか先輩はいちもにもなく歩くことを選んだ。
「朝からずうっと座ってたもん、ちゃんと歩かないと身体がばかになっちゃうよ。それにどうせ、はやく行っても時間あまっちゃうし」
なおも申し訳なさそうな顔をしていたらしい私に向かってかすか先輩は、かなちゃんは私と歩きたくないの、とたたみかける。
ひきょうだ。
そんな言い方をされてしまったら、私は謝ることだってできやしない。
かすか先輩は私の手を握ったままずんずん進んでいく。先輩は未知に対して恐怖よりも好奇心を強く抱く性格だ。先輩のそういうところが、私にはまぶしくてたまらない。
それでも今回ばかりは、元を辿れば私のせいになるとはいえ、本音を言えば三十分待ってバスに乗ってほしかった。
だってかすか先輩は見た目相応に非力だ。
六月の後半、夏にしては比較的涼しい今日とはいえ、それでも歩き続けるにはきびしいお天気である。体力面で小動物と大差ないかすか先輩はすぐに根を上げてしまうだろう。
「かなちゃん失礼なこと考えてるときの顔!」
「考えていません。私は真剣に先輩の体力を心配しています」
「それが失礼って言うんだよ! 歩けるもん」
んむーっ、とも、んきゅーっ、ともつかない擬音を発しながら、かすか先輩は私をにらみ付ける。
いったいどこからそんな可愛い声が出ているのか。可愛げのない私には真似できない。
こういうふうに、かすか先輩は先輩のはずなのに、突然とっても幼くなるときがある。
腕を振って抗議するかすか先輩なんて、きっと遠目では幼子にしか見えないだろう。
そんなことを思い浮かべてみると、なんだかとてもおかしくなって、つい口元がゆるむ。
「あ、笑った! 今笑ったでしょ!」
「笑っていません」
「笑ったもん!」
言いあいながら、私たちは町を降る。
拗ねたかすか先輩をなだめながら、私たちはうんとゆっくり町を歩いた。花にとまった蝶が飛び立つまでをずっと眺めていたし、ねこを追いかけて道を戻った。行き止まりの路地にわざと入った。
時刻はとっくに午後をまわっていて、あと一時間もすれば気温のピークも過ぎ去るだろうか。正確な時間はわからなかったし、知ろうとも思わなかった。でも私たちを置いていったバスが帰っていくのを見たから、きっとそれくらいの時間だ。
それでよかった。
私たちには、今があればそれでよかった。
それだけでよかった。
「ねえかなちゃん。不思議じゃない?」
「何がですか?」
代わり映えのしない道の途中で、かすか先輩は私に問いかける。
「ここまでくる途中でさ、いろいろな人とすれ違ったじゃない」
こくん、と。私はうなづく。
いろいろな人がいた。学校帰りらしい小学生とか、買い物をしているおじいさんとか、軒下でお話をしているおばあさんとか、途中で寄ったコンビニの店員さんとか。
いろいろな人がいろいろなことをしていた。
「ここですれ違ったみんなはさ、みんなここで暮らしてるんだ。私たちがすれ違ったあとも、いなくなったあとも、私たちの見てないところで、私たちが知らない人生を送るんだ。それってさ、とっても、不思議じゃない?」
不思議なこと、なのだろうか。私にはよくわからなかった。考えたこともなかった。
かすか先輩が、私を見ている。はしばみに近い黒の目で、私のことをじっと見ている。
照りつける太陽の下で、私たちはどちらからともなく立ち止まった。
かすか先輩はいつも難しいことを言う。先輩は私の知らないことをたくさん知っているし、それをなんでも教えてくれるけれど、それはぜんぶ知識とよばれるものであって、けっして答えではないのだということを、私はとっくに知っていた。
かすか先輩の頬に、汗が伝う。私はそれを親指でぬぐう。たぶん、涙だと思ったから。
「かなちゃん?」
かすか先輩の目には、私が映っている。
「世界には八十億人の人がいるそうです。だからたぶん知らない人の方が多いと思います」
「うん」
「でも」
でも、なんだろう。私のなかに答えはない。
きっと、ちゃんとした答えなんてない。
でも、と。私はせいいっぱい言葉をつむぐ。
かすか先輩といっしょにいるために、私はきっと、言葉をつくさなければいけないのだ。
だって私たちには、今しかないのだから。
今という一瞬で、少しでも長くつながっているために、私には言葉が必要なのだ。
「でも私……私は」
手のひらのなかで、かすか先輩を感じる。
いつもはあんなにつめたいのに、気温のせいだろうか、今のかすか先輩はとても、あたたかかった。
「私が、かすか先輩の目のなかにいました。私は、それがすごくうれしかったんです。私はその、私のなかにかすか先輩がいるみたいに、私がかすか先輩のなかにいて、よかったと思いました。……ごめんなさい、うまく言えないです」
やっぱり自分でも自分がなにを言っているのかわからない。なんだかとても恥ずかしい。
「かなちゃんってさ」
「……はい」
かすか先輩は私のもう片方の手をつかまえると、両手でぎゅっと握りこんで、胸のあたりにまで持ち上げる。
真正面から向きあったかすか先輩にじいっと見られると、なんだかすごい怒られるような気がして、私はきゅっと身を縮こまらせる。
「かなちゃんってさ、ときどき私なんかよりすっごい生意気になるよね。私は自覚してるからいいけど、かなちゃんは無自覚でやってるんだもん。まあそこが可愛いんだけどさあ」
「えっ、と」
「ふふ。要するに私はかなちゃんのことが大大大大大好きだってことだよ」
「え」
そう言って、かすか先輩は再び歩き出す。つながれた手がいっそうにあつい。それに大股でずんずんと進んでいくかすか先輩の耳も、いつもよりすごく赤くなっている気がした。
かすか先輩の顔を見てみたい気もしたけれど、私はけっきょく、そうはしなかった。だってきっと、私だって。私だって、かすか先輩に見せられるような顔をしていないのが、わかりきっていたからである。
「かなちゃん」
声がかかる。
「アイス買おうよアイス。あつくてしかたないよ。そこのソフトクリーム屋さんにしよう」
「……はい!」
かすか先輩の言葉で、私はまた隣に並ぶ。
相変わらず顔は見れないけれど、その代わりに私たちは同じ方向を向いて歩いている。
そんな今がずっと続けばいいと思って、私とかすか先輩はソフトクリーム屋を目指す。
お店の前には数えていくつ目かのバス停があって、海へと向かう方面のそのバス停には、ぱっと見だれもいないようだった。
けれどもお店に近づくにつれて聴こえてくる煩わしい喧噪は、そこでたむろしている誰かのことを、しっかりと教えてくれた。
若い男の人たちの声だ。私たちがお店につくと、そこには案の定、大学生と思わしき三人の男の人が座っていた。それはこの町で初めて目にする、私たち以外の観光客だった。
お店で涼んでいる彼らの頭髪はぬれていて、どうやら帰る前の一服を楽しんでいるようだ。
彼らの存在に気づいたかすか先輩が、ソフトクリーム屋さんの手前でぴたりと立ち止まる。彼らもまた私たちに気づいたようで、一瞬だけちらりと目が向けられる。少しだけ、喧噪がおさまったような気がして、それがなんとなくイヤだった。
コの字型で空いた面が道路とつながっているソフトクリーム屋さんは店内というよりは奥まった軒先のようなつくりで、私たちと彼らを隔てる境界線はあってないようなものだ。
もしかしたら、少しこまったことになるかもしれない。そう直観した。
どことなく緊張した面持ちのかすか先輩が、このままお店に入るかどうか逡巡している私に向かって、小さな声でささやく。
「ね、私はバニラ。お願いしていい?」
不安はあったが、それでもかすか先輩が言うならと、私はうなづいた。
先輩はいつのまにか取り出した千円札を私の手に握らせて、あいまいに微笑む。
私はもう一度、次はかすか先輩を安心させるようにうなづいて、なるべく彼らを見ないようにお店へと入る。あつさとは別の汗が、私の背を伝っているのがわかった。彼らの視線が私に向いていることだって、もちろんちゃんとわかっていた。
ソフトクリームは、ひとつ二百五十円。バニラをふたつ頼んで、お釣りを受け取る。
店員のおばさんがコーンにソフトをのせている間、私は彼らのことを意識しないように努めた。機械からゆっくりと垂れるソフトをじっと見ながら、私はこの時間がはやく過ぎ去るように願った。
だから、気づくのが遅れた。
彼らの視線を感じない。視界のすみにいたはずの男たちが、いつのまにか消えている。
「──せんぱい」
胸の奥がざわざわする。イヤな予感とともに、私は振り返った。
「せんぱい」
かすか先輩が、男たちに囲まれている。お店の前で、一人はかすか先輩と私の直線上に、もう二人はかすか先輩と向きあって。
男の陰から見えるかすか先輩の横顔は人あたりのよさそうな笑顔だったが、しかしその笑顔に反してお腹の前で強く握られた手が小刻みに震えているのを、私は見逃さなかった。
「かすか先輩」
自分でもびっくりするくらい低い声が出た。
──瞬間、かすか先輩と男たちを大きな影が覆う。甲高いブレーキとステップの傾く音。
それはところどころが錆びた白い──バス。
私は店員のおばさんから渡されたふたつのアイスを片手でひったくると、いそいで店先まで走って男たちの間に割って入る。そしてそのままかすか先輩の腕を取って、引きずるようにバスに乗り込んだ。
男たちが呆然とこちらを見る最中、一瞬だけかすか先輩から手を放して、整理券を二枚引き抜く。
再びかすか先輩の腕を取ったとき、私の焦ったような雰囲気が伝わったのか、バスは私たちが席につくのを待たずして扉を閉め、にわかに走り出した。
▼
「かすか先輩」
「ん、かなちゃん。私はもう大丈夫だから」
私たちはふたり掛けの後部座席で、お互いのソフトクリームを握りながら、手をつないでいる。
かすか先輩は、まだ震えていた。
「……ごめんね、かっこわるいところ、見せちゃったね」
「そんなことないです。謝らないでください」
いわゆる、男性恐怖症。かすか先輩のそれについて、直接聞いていたわけではなかったが、私たちが通う女子校での、数少ない男性教師との覚束ない会話で、なんとなくそのことは察していた。
「かなちゃん」
距離がつまる。私たちは痛いくらいに身体を近づけて、お互いの体温を交換する。
「かなちゃん」
「かすか先輩」
「かなちゃん」
「かすか先輩」
身を寄せあった私たちは、お互いの鼓動よりもずっと小さい声で、名前を呼びあう。
心臓の音がうるさい。
「かなちゃん、私、怖かった」
「……はい」
「でもね」
「はい」
かすか先輩は、今にも消えてしまいそうな声で、私にささやく。
私はそれを一字一句聞き逃さないように、かすか先輩の声に耳を傾ける。
「でもね、かなちゃん。私のところへ走ってきてくれたかなちゃん、すっごくかっこよかった。それまではすっごく怖かったのに、かなちゃんに腕をつかまれたとたん、心の底から、ああ大丈夫なんだって安心したの。だから私は、もう大丈夫。かなちゃんのおかげ。ありがとう、かなちゃん」
「……はい。大好きです、かすか先輩」
「……もう。そんなこと言ってないよ」
「言っていましたよ、先輩」
「そっか。かなちゃんが言うなら言ったかも」
私とかすか先輩はお互いの頭を寄せて、ぐりぐりと擦りあった。髪の毛がくすぐったい。
いいにおいがする。
「私、かなちゃんに真っ赤にされちゃった」
「真っ赤、ですか」
「うん、真っ赤っか。全身染められちゃった」
かすか先輩が顔を上げる。言葉の意味をよく理解できずに私が首を傾げていると、かすか先輩は優しく、楽しそうに笑った。
「見せたいものがあるの。でもそれにはまだちょっと時間がかかるから、それまではソフトクリームでも食べて待ちましょ」
目の前にいるのはもう普段のかすか先輩だ。
私は安心して、手元のソフトクリームに目を落とす。幸運なことに、それらはふたつとも無事だったのだ。
ぱくりと一口、ふくめば広がるのは、不思議に舌を撫でつける甘美な味。
それから私たちは、ただ黙ってソフトクリームを食べ続けた。
言葉は必要なかった。だってお互い何を考えているかなんて、心臓の音のせいでまるわかりだったのだ。
──終点の音がした。
▼
「先輩の見せたかったものってこれですか?」
「うん。半分はね。もう半分は、まだちょっとかかりそう」
ソフトクリームを食べ終わった私たちがやってきたのは、もちろん海だ。当初の目的通り、私たちは海にやってきた。
そして、それだけではなく。
今私たちの目の前、海の中にぽつんと建っているそれは。
「鳥居、ですよね」
「もちろん」
朱塗りの鳥居だった。
一面の蒼のなか、あざやかな朱がぽつんと建っている。その様子はたしかに幻想的で綺麗だが、しかしかすか先輩はどうして私にこれを見せようと思ったのだろうか。
「ねえ、かなちゃん」
「はい、かすか先輩」
「海、はいろっか」
「えっ」
「もちろん、ずぶぬれにならない程度にね」
そう言って、かすか先輩は靴を脱ぐ。そのまま靴下にも手をかけて、脚を引き抜く。
その姿はなんだかとても艶めかしくて、へんな気持ちになる。
「ほらかなちゃんも脱いで。というかそれサイズあってないでしょ。だめだよ、そういうところはちゃんとしないと。足痛めちゃうよ」
「え……あ、は、はい!」
びっくりした。
かすか先輩、私の靴のサイズがあってないこと、気づいていたんだ。
それはつまり、かすか先輩は、ずっと、いつも、いつでも、私のことを、見ていたということ。
なんだかそれは、とても嬉しくて。あたまのなかがとたんに騒がしくなった気がして。
身体がとってもあつくなるような気がして。心が沸騰するようなかんじがして。
それで、私は。
「ん! ん! んーー! かすか先輩!」
「え、ちょ、かなちゃん? きゃ!」
気づいたら私は、かすか先輩に飛びついて、抱き着いてしまっていた。
「もう、どうしたの。へんな声出してえ」
かすか先輩を巻き込んで砂浜にころがる。
服や髪に砂が混じるけれど、そんなものちっとも気にならない。
そのうちにかすか先輩が海の方へ逃げ出すので、私もすぐに素足になって追いかける。
ずぶぬれにならないように、なんて言葉は、もうすっかり忘れていた。
私たちは水をかけあう。
心のおもむくままに、私たちは笑っていた。
そんなことを続けていたら、もちろん先に根を上げるのは体力のないかすか先輩である。
へとへと顔のかすか先輩を見ながら、私はしばらく笑っていたけれど、かくいう私も、すぐに疲れ果てて砂浜に戻ってしまった。
日が暮れるころには、ふたりして鳥居の前で息を整えていることしかできなかった。
「かなちゃん、今日は何の日か、知ってる?」
いまだに息の上がっているかすか先輩が、心臓をおさえながら私に問う。
「今日、ですか?」
「うん。ヒントは、今日が祝日じゃないこと」
「えっと」
今日は祝日じゃない。けれど、きっと何か特別な日。そういえばたしか、今日は六月の。
「夏至、です」
「正解! この鳥居はね、毎年の夏至の日、お日様が沈んでいく鳥居なの。小さいころに見たそれがとっても綺麗でずっと憶えてたの。いつかかなちゃんといっしょに見たいなって思ってた」
「そう、だったんですね」
思ええばかすか先輩は、最初バスが行ってしまったときに、何分後だったかなあ、と、まるで本当は知っているみたいな言い方をしていた。あれは言葉の綾ではなかったのだ。
「かなちゃんなら知ってると思うけど、赤色って、とってもたくさんの種類があるの」
「はい、もちろん」
鳥居の真上から、夕陽は沈んでいく。世界がさらに朱く染まる。
「そのなかでも特に、古墳に施されたり鳥居に使われてる朱色があってね」
夕陽が、次第に鳥居にとらわれていく。
「それはね、朱丹って呼ばれる顔料に水銀と硫黄を混ぜた、つまりは人の手でつくられたものでね」
朱いだけの世界で私たちは手を握っている。
「私は最初、あなたをその朱に染めてしまったと思ってた。……ここだけの話だけどね、私、なんで男の人がこわいのか、理由がわからないの。特にトラウマがあるわけでもなくて、ものごころついたときにはとっくにそうなってた。お父さんは大丈夫なんだけど、それ以外はてんでだめ。そんな、そういう生き方しかできないような人間が、無垢だったかなちゃんを、私のエゴで朱く染めてしまって、私だけの朱色にしたいだなんて、それだけの理由でかなちゃんを染めてしまって、そんな一時の激情に身を任せてしまったことを、ずっと謝ろうと思ってた」
その朱の、名前は。
「──銀朱」
私の、小さな小さな呟きと共に、鳥居がいっそうに朱く輝く。その朱──銀朱が世界に飛び散って、私たちの心を朱く染め上げる。
「でも気づいたら、染まってたのは私の方だった。私これでも、自分のことを世界でたったひとつの天然の真朱だと思ってたのに。あーあ、いつのまにか、もっとあざやかな朱に染められちゃって。それに気づいたら、もう止まれなかった。……そしたら、小さいころに見たこの景色を思い出して、それでどうしても、かなちゃんに伝えたくなっちゃった。……それにさ、やっぱ、かなちゃんだけはホンモノなんだもん。私の目に映るぜんぶがニセモノでも、かなちゃんだけはホンモノなんだもん。かなちゃんの言うとおり、かなちゃんだけは私のなかに、ちゃんといるんだもん」
ねえ、と。
かすか先輩は続ける。
「責任取ってよ」
「──はい」
「──ほんとに」
「はい」
「ほんとに、ほんとうに、ほんとうに?」
かすか先輩は繰り返す。不安を消し去るように、まるごと朱くぬりつぶしてしまうかのように。
「はい。でも、条件があります」
「……なあに」
「先に私を銀朱に染めたのはかすか先輩です。だからまずは、かすか先輩が責任を取ってください。今だけじゃなくて、これからも。私がかすか先輩と、ずっといっしょに歩んでいくために」
身体を、かすか先輩の方へと向ける。
「え、あ」
私はかすか先輩を引っ張って、強引に私の方へと向ける。いつまでも負けっぱなしでなるものか。
ぐい、と。私から逸れようとするかすか先輩の顔を手で固定して、ささやく。
今だけだなんて、もう二度と思うもんか。
褪せてなんて、やるもんか。
「かすか先輩は、責任、取ってくれるんですよね」
「……や」
「や?」
「や、やっぱ」
やっぱやっぱやっぱやっぱ、と。かすか先輩はそのぱっちりとした目をぐるぐると回して同じ言葉を繰り返し続ける。小動物みたいなその姿がとっても愛らしくて、いじらしくて──だから今の私は、きっと私の思っている以上に、なんだってできる。
「やっぱ、かなちゃん、生意気!」
「──今さら?」
一面が銀朱に染まった世界の、そのなかでも最も朱い場所。大好きなかすか先輩の、さらに朱く染まった唇に、私は自分の唇を強く押し付けた。
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