第8話 偶然の糾合 2

そこは、静かだった。

 整備されているが非常に古い石畳の道が走り、少し離れたところには豊かに黒々とした水を抱える湖が広がっている。

 間隔の広い、比較的新しい街灯がポツポツと点在していた。

 暗く湿った空気が流れている。辺りには沢山の木が生えて、大きな林を形成していた。

 山脈の向こうにはそろそろ太陽が昇ってきているのだろう。空は青白く、雲の陰影がややはっきりしていた。

 静寂さの中にありながら、立木の何本かは折れ、草むらは焼け焦げ、地面にはいくつも凹み、元も形から大きく変わっていた。

 ほんの少し前まで、ここで何かしらの破壊があった事は明らかだった。

 

 その女は真ん中が大きく歪み傾いている一本の木の根元に座り込み、寄りかかっていた。

 周囲の地面は砕かれ、何個か穴を作っている。道の一部も割れて剥離し、土台である黒い路床を剥き出しにしていた。草などは殆どが黒く炭化し、太い木々にも焼けた跡が刻まれている。

 彼女を中心に、半径20mほどの範囲が大きく損傷を受けていた。

 彼女の白いスーツには、複数の裂けた跡と、赤黒い汚れが何か所も染み込み、吹き飛んだはずの右肘下のあたりはいくつかの腕の欠片が歪に縫われ、接がれていた。

 身体の露出しているあらゆる所に痣が浮き出し、左足首は変形している。

 高いところから木製の人形を落としたならば、今の彼女のような姿になっただろうか。

 彼女の傍らには、赤い肉の塊が置いてあった。それらは彼女の元右手であり、リナとの戦闘の後に、見つかる限り拾い集めてきたものだった。

 彼女は左手に太い糸の付いた大きな針を持って、欠片を一つ、一つと摘み上げては、合わさる場所を探し、器用に次々と縫い付けている。

 何度も皮膚を出入りする大きな針の先に、脂が光っていた。

 凄惨と言えばそれまでの光景だ。しかし彼女の表情はとても穏やかだった。

 この作業そのものを慈しみ、楽しんでいる。

 味わうように、ゆっくりゆっくりと自分の体を縫い合わせているのだ。

 

「セレナ」

 ふいに高めの声音が挙がった。

 林の奥から、誰かが近づいてくる。

 パキリパキリと枝の折れる音と、カサカサと草を踏む音がする。

 それらが近くなると、女――セレナは視線を音の方へ向けた。

 木々の間から、フードがついた濃緑色のコートを着た人物がセレナを見つめている。

 その人物のコート以外は、セレナと一緒にいた2人の男達が着ていた服と同じようなものだった。ポケットが多く、胸や肩、大腿部の外側、ふくらはぎの外側等、あちこちについている。フードを目深に被り、顔の半分がはっきりとしない。

 露出している肌は色白でほっそりとしているが、顎回りなどに男性的な特徴が見て取れた。

「状況は――どうなった?」

 男は座り込むセレナを離れた位置から見ていた。まるで、観察するようだった。

 セレナはほんの少しだけ視線を男に向けたままだったが、すぐに自分の右腕に視線を戻しての続きを始めた。

「見ての通りよ。逃げちゃったわ」

「逃がした、のだろう?それくらい分かるさ」

「逃げた、のよ。失礼ね」

 ほんのりと微笑を浮かべた彼女の声音は笑っていた。

 男はしばらく彼女を見つめていた。

 セレナにすれば男がいようがいまいが関係無いのだろう。じくりじくり、自分の腕に針を通しては、またを一つつまんで繕う。ただそれだけを繰り返す。

「……治せないのか?それは」

 男はほとんど感情もなく言った。

「治せない」

「嘘をつくな。そんなもの、俺が瞬きをする間に消えてしまうだろうに」

「そういう問題ではないわ。治したくないのよ」

 彼女は僅かに笑い声をあげた。

「この腕は、あの子に触れたの。粉雪のようなあの肌を。それだけで、捨てるにはあまりに惜しいわ。それに、この身体はあの子が蹴り飛ばしたのよ?服がなければ、直に味わうことができたのに……せめて、縫い終わるまでこのままでいたいの。わかる?」

「すまないが、の中でそんな感覚を持っている者は大変少数なのでな。共感を示せない」

「それでいいのよ……この感覚を理解されるなんて、もったいない」

 セレナはうっすらと頬を紅潮させた。

 ――あぁ、思い出すだけで、こんなにも満たされる。

 甘い糖蜜を、何度も反芻し味わうように、彼女は恍惚として月を眺めた。

 大きな月に寄り添っている、2つの月――その片方を。






 夜空に雷鳴が轟く。

 はち切れんばかりの空気の振動が湖の表面を荒々しく撫でた。小さくない波紋が広がっていく。

 古い石畳は総毛だったように踊り、木々は猛る風に揺れた。

 その轟音の主から発せられたは、瞬時に周辺の環境に、あからさまな脅威を示す。


 月光を背負い、地面を切り株のような巨大な四肢で踏みしめたその化け物は、白く歪な乱立する牙を剥き出しにし、セレナに憤怒の表情を向けた。

 鋼鉄の針のような体毛は、霜に似た輝きを放ち、蠢いている。

 身体中に咲く青い唇の薔薇が、木立の間を抜ける風のように低く伸びる叫びを挙げ続けていた。煙を上げる体液が、ジュウジュウと滴っている。


 セレナは両目を大きく見開き、口角を吊り上げてそれを見つめた。

 先ほどまで、レナだったものは、完膚なきまでの化け物、異形――獣として顕現していた。

 風が吹きすさぶ。

 月明かりが霧に吸いこまれ、淡く伸びている。

 対峙する一頭と一人。獣はグルグルと唸り、喉に開いた無数の穴から体液と煙を吐き出した。

 その巨躯はゆうに人を凌駕し、影はもはや遠くの山々と区別は付かないほどだった。

 セレナの視線は獣に向いたままだった。決して威嚇するわけではない。ただその深紅の相貌を瞳に映していたいのだ。

 ふと、セレナは自分の両肩を抱きしめた。怖気に似た、しかし決定的に異なる感情に身悶えする。

 ――ヒュッ

 セレナの口元で、鋭く短い呼気が音を放った。引き延ばされたゴムが瞬時に躍動するように、セレナの身体は空中を待った。月の青白い光を受けて、虚空にその身体を躍らせる。

 獣は些かの迷いもなく、その姿を身体全体で追った。素早く姿勢を低くし、見上げる。赤黒い爪は石畳に極めて鋭利な傷を無数に刻み、青い薔薇がセレナへ鎌首をもたげた。

 セレナは柔らかく滑らかな動きで、左手を獣に向けた。羽毛を指先で滑らせるようだった。しかしその眼には、尋常ならざる狂気の光。

「赤口の、嘶きいななき

 セレナの声に呼応して、光の粒子がその手に宿る。

 掌に幾条も光の線が踊り、それは速やかに3重の円陣を編み上げた。

 刹那、剛爆の結晶が放たれる。

 空気を燃やし、焦がし、深い紅色の光球は風を置き去りにするほどの速度で獣に覆いかぶさった。ほんの僅かの間をおいて爆音が鳴り響く。

 獣の立っていた場所に天高い火柱が上がった。石畳が見る間に溶け、光沢を発する。

 その火柱が落ち着く間もなく、着地したセレナは地面を駆ける。獣のいるであろう場所に、再度左手を向けて囁く。

「赤土の、衝撃」

 セレナの上方1m程に、巨大な赤い槌が出現する。先端が四方八方に尖り、生き物のように動いて、まるで対象を中から食い破るかのようだった。

 怒涛の勢いと、太鼓を突き破ったような音を伴って槌が前進する。それは火柱が丁度収まるタイミングで炸裂した。

 石畳が完全に砕けていく。黒い路床が剝き出しになり、細い木は倒れ、後方の湖は赤く染まり、湖面に道が描かれすぐさま消える。熱波と衝撃が唸り、舞い上げ、踊り狂う。

 もうもうと煙を上げるその場所を、獣がいるであろう場所を、セレナは見つめていた。瞼の影が彼女の瞳を、まるで上下に分割したように見せている。光の宿らぬ瞳に、潤む目尻。口元の笑みは変わらず、荒く肩で息を付く。右腕からボタボタと血が滴っているが、のように激しく1度2度と噴き出した。

 高揚と興奮が、彼女の身体を盛り立てている。

 セレナの口元から、一条の白い息が立ち、風に揺れた。

 それとほぼ同時に、彼女の身体は巨大な銀の岩に真横から叩きつけられ、はるか側方へ吹き飛ばされる。猛烈な勢いそのままに、1本の木の中ほどに叩きつけられ、その木を変形させた。砕けた眼鏡の破片がキラキラと散っていく。

 空気の流れが、彼女の軌道に引きずられる程の勢いだった。追いかける土煙と霧が彼女の周りに立ち込めている。

 セレナを打ち据えた銀の岩の如きものは、獣の前足だった。

 獣はセレナを打った余韻を感じるように、右前足をぶらぶらとさせ、そしてすっと地面に下す。

 目にも付かない早さだった。距離はそれほどなかったが、2度目の攻撃を受けた直後に一足でセレナの側に駆け寄り、彼女に一撃を食らわせたのだ。

 獣は身体が爛れていた。顔面の3分の1は溶け、片耳は頬まで落ちている。体の所々は炭化し、皮膚もはがれ中の赤黒い肉が見えている。青い薔薇も数本吹き飛んでいた。

 しかし、それらは時間の経過と、体液の流出とともにみるみる癒され、新たな肉が盛り上がり、再生していく。

 ――ぐぐぐぐぅぅぅおぅぅおをおぉぉぇおぉぉ……

 獣の呻きが、薔薇の悲鳴が連鎖して、複雑な音を響かせた。

 赤子の鳴き声のようであり、老人の呻きのようでもある言いようのない旋律が含まれる。

 溶けた鉄よりも赤い双眸が、セレナをジッと見つめている。

 吹き飛ばされたセレナは、しばし倒れていた。

 スーツは破れ、肌を露出させている。大小さまざまな傷があり、首は力なく傾いて、口の端からは涎が垂れてすらいた。左の足首はすっかり砕けている。

 しかしそのままに、ひとつ身を震わせると、彼女は身体を持ち上げた。歪んだ足のまま、傾いた首のまま、まっすぐに彼女は起立した。足だけが別の生き物のようだった。

「あぁ――ぁ――」

 彼女の吐息が聞こえる。今日何度も吐いたその中で、最も熱のこもった一息。

「――イッちゃいそう」

 彼女の腰から下が小刻みに震えていた。左手は獣へ向けられ、指先がくねり、複雑な形を作り出す。

 セレナの周囲に光が集まり始めた。オレンジと白の砂粒を紙の上に散らしたように、その量と密度は先ほどまでの比では無かった。それらはあちらこちらで円陣を描き、彼女の周囲に複数の文様を描く。

 獣は警戒の声を上げた。足先を広げ、爪を一層地面に食い込ませる。

「赤銅の、穿刺する槍、」

 朗々とセレナが謳う。決して大きくない声だが、しかしそれは明瞭な音になり、周囲に響いた。

 セレナの周囲に5本の赤い槍が出現する。

「煌々と、灼熱に燃え、」

 全ての槍が大きく輝きだす。発せられる高熱が空気を歪め、光が夜に亀裂を入れた。

 

 獣は何かを察したのか、鋭く唸った瞬間セレナへ向かい大きく跳躍し、牙と全ての爪を彼女へ指向する。


 獣の巨躯が迫る。

 それをセレナは左の手の平に見通し、ギュッと拳を握った。


「焼き、炙り、焦がす――――檻」

 

 5本の槍は、今まさにセレナに跳びかかろうとする獣へ一瞬で収束し、身体を串刺しにした。

 そして、間断なく爆裂した。

 獣の全てのアナから赤い閃光が飛び出す。

 光が圧縮され、解放された。

 もはや爆音ではなく、ある種の叫びのように空間が裂かれる音が木霊する。

 それに見合うだけの途轍もない衝撃が獣の身体を覆いつくし、内と外から焼き潰そうと荒れ狂った。

 爆心地に近いセレナも衝撃の余波を避ける事は叶わず、斜め後方に叩きつけられるように倒れて地面にぶつかり、めり込まされた。

 獣の形をした巨大な炎の塊は、セレナとは真逆の方向へ弧を描いて飛んでいき――湖に落ちると同時、多量の水蒸気と轟音を上げながら、水面下へ沈んでいったのだった。 







 セレナは、獣――レナとのを回想し終わる頃、右手の最後の欠片を縫い付けた。

 一度砕けた右腕は、肉の継ぎ目があちこちズレていた。複雑な指などは、糸にただぶら下がっているように見える。血が通わなくなって時間が経ったそれは、土気色で生気が宿っている様子もない。

 ブラリと垂れ下がる腕を、セレナは愛し気に左手で摩り上げた。

「……あら、まだいたの」

 セレナは本当に気づいていなかったのかどうか定かではないが、男に視線を向けた。男が現れてから、もう一時間程度は経っていたが、彼はずっとセレナの側にいた。

 手持無沙汰にしている様子もなく、来た時と同じように木の間から彼女を見つめていた。

「いるさ。君がいるところに、我々は常にいる。いや――。そういうものだ」

「ストーカーね。変態よ」

「君に言われると、含蓄深く感じるな」

 ふふ、と笑ったような声がした。

「なんにせよ、もう終わったのだろう?行かなくていいのか?」

「行くわ……に浸るのは、十分楽しんだから」

 セレナが立ち上がる。

 その左足は、何事もないように美しい形を作っていた。身体中にあった小さな傷も、もうすっかり無くなっている。

 セレナは右手の平を何度かした。

 縫われた跡は新鮮な血が滲み、徐々に歪んだ形が整復されていく。ハンダ付けをしたように薄い皮膚が張りはじめ、鮮やかな血色が戻った。

 埋もれた糸を穿り出し、焼け焦げた草むらに投げ捨てる。

「セレナ、これを」

 男がセレナの側に近寄ってきた。懐から、白い長方形の箱を取り出す。

「あら、ありがとう。ローゼンにしては気が利くじゃない」

「俺にしては、というのは余計だがね」

 男――ローゼンは箱を開けた。そこには、セレナが欠けていた眼鏡と全く同じものが入っていた。セレナはそれを取り出し、掛ける。

「さぁいきましょう。あなたも来るんでしょう?」

「当然だ。だが、先の2人を回収してからにしたい。君も着替えが必要だ」

「着替えは、まぁそうだとして……たぶん彼ら、死んでるわ」

「そうであっても、死体を残すわけにはいかない。それに、様子から見る限り、急いではいないのだろう?」

「ええ」

「なら、少し待っていてくれ」

 ローゼンは林の中に入っていく。


 セレナはリナの落ちた湖面を眺めた。穏やかに揺れている。

 そしてそのずっと向こうに、雲を照らす程輝く都市が見えた。巨大な、夜の都が。

 もう急ぐ必要はない。

 ――あの子を、私は捕捉した。

 セレナは唇を舐める。

 滑らかな肌の感触が、まだ、舌の上に残っていた。

 

 

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