第4話 爪弾きの深夜の協奏 2
その部屋は、空中に浮かぶ小さな光源で、暖かなオレンジ色に照らされていた。
だいぶ隙間が目立つ小さな本棚と、2人用の小さめの木製テーブル。衣装棚が2つと大きな姿見が一つ。
人が10人横になれば、床が全て埋まってしまいそうな程度の広さだ。
そんな部屋の中で、一番大きな物は、ベットと、その上でいびきをかいて寝ている男だった。
ビクリ、と男――ルーカスは身動ぎする。目を覚ました彼は、薄ぼんやりと頭の中が霧掛かって思考がまとまらなかった。
中肉中背で、平凡な黒髪の短髪と、非凡な金色の目が特徴的だ。背丈は平均より少し高い程度で、がっしりとした肩回りと太めの腕が職人の雰囲気を出している。
ふらふらと指先が覚束ないが、ルーカスは何とか時計を探り当て、時間を確認する。そして少しだけ目が見開き、いそいそと起きだした。
薄手の寝間着を脱ぎ捨て、しっかり引き締まった筋肉質の体を顕わにする。
カーテンは開いているが、好き好んで一人暮らしの男の部屋を見ようとするヤツは少数派だろうし、別に見られたって、この男は気にしない。
灰色のシャツを着て、ベージュの綿で作られたズボンを履く。姿見で見た目を確認し、髪の毛を少し整える。
濡らしたタオルで顔を拭いた頃には、すっかり目元はすっきりし、黒い前掛けを準備した。
部屋を出ようとしたルーカスは、扉の前で一旦戻り、本棚に近づく。本棚の上には、初老の女性の顔写真があった。
皮肉っぽいようないたずらっぽいような、何とも言えない表情で笑っている。
写真の隣には、小さなメダルが置いてあった。
白抜きの盾と花が重ねて彫り込まれており、全体的に金色ではあるが所々剝がれていることから、塗料か、よくてもメッキで装飾されている事が伺えた。質素な量産品であろうが、【307Hoc 101V】と真ん中に精巧な刻印がされていた。
それらを少し見やると、ルーカスは部屋を出ていった。閉まった扉の風圧で、部屋に落ちていた敗れた紙片が移動する。
紙片には、文字が書かれていた。
――■■た恩を忘■た■か!いつ金を■■■だ!――
ルーカスが部屋を出た後、灯りはひとりでに、ふっと消えた。
油を薄く引いたフライパンに、よく溶かれた卵液が並々と注がれる。ジュっと音がして、ほんのりと甘い香りが立ち上り、客たちの鼻をくすぐった。
縁が少し固まったくらいで一気にヘラ先で卵液をかき回し、半熟のトロリとした状態にする。
フライパンの片側に軽く寄せてまとめてから、一旦皿に逃がし、空になったフライパンに再度油を引く。
玉ねぎのスライスと潰したニンニクを、甘みと香りを引き出すように炒め、軽く焦がす。そこへ豚バラのスライスを放り込み、強火で一気に火を通す。豚の脂が焼ける何とも言えない香ばしい匂いが店中に広がる。塩コショウを少々強めに、白ワインを適量加え、味付けする。
最後はゴロゴロと一口大に切ったトマトを加え、十分熱が通ったところで、皿に逃がしておいた卵を加え、軽く潰すように混ぜ合わせる。仕上げにレモンを少し絞り、刻んだパセリを上に振りかけて完成だ。
「トマトと卵の炒め物、あがったよ」
料理を作ったルーカスが、カウンターに料理を置きながらウエイトレスに声をかけた。
いかにも
ウエイトレスの女性はにっこり笑って「はーい」と小気味よく返事をし、料理をさっと運んでいく。
看板娘、というほど若くは無いが、落ち着いた雰囲気と澄んだ声音が評判の美人だった。
服装も白いシャツとサロンエプロン(前掛けのようなエプロン)のシンプルな出で立ちで、清潔感がある。
賑わいを見せる店内である。カウンターには12席、4~6人掛けのテーブルが3つ、広めのキッチン兼バーカウンターは木製で、短くない歴史を感じさせる。周囲の壁には2~3段の棚が据え付けられており、複数の大きめのランプがそこに乗せられ、店内を温もりのある火の明かりで照らし出していた。
今は客が15人程で、カウンターの半分とテーブル席3つに数人ずつが座っている。なかなか盛況な来客具合だなとルーカスは思った。
「ルーカス!ワインお代わりくれ!」
「あいよ。ありがとさんです」
目の前の客がルーカスに大きめのジョッキをぐっと差し出した。
顔は機嫌よく笑っている。ここではエールもワインもみなジョッキで提供されていた。
理由は、単純にここが場末の街レストランで、なるべく少ない金で大いに酔いたい、そんな客がメインの店だからだった。
量産品の、見た目の割には軽い安物のジョッキに、これもまたマスター厳選だが、2級酒の域は出ない安い(度数も低い)赤ワインをたっぷり注ぎ、客に手渡す。
ニコニコと受け取って、うまそうに半分近く一気に飲み干す。こういう嬉しそうな客を見ると、商売柄悪い気はしない。
すぐに周囲との歓談に戻る客の顔を見ると、そんなことをルーカスは考えた。
「ミリーちゃん!お酌お願い!この通り!」
テーブル席の客がおどけながら、ウエイトレスのミリー…メリッサに、頼み込んでいる。気の良い常連客だが、深酒になると急に子供のように駄々をこねる時がある。
「いいけど、一杯飲ませてくれるんでしょ?」
なれたもので、メリッサは客に笑いかける。
「あげる!あげちゃうからー!」
「こいつ、奥さんと喧嘩して落ち込んでんだよ…ちょっと話聞いてあげて。ごめんね。」
連れの男が申し訳なさそうにしていた。
メリッサは、ちょっと待ってと言うように客達に手を振って、こちらへと歩いてくる。
「ルーちゃん、先に注文」
メモ書きを手にカウンター越しにメリッサが話しかけてくる。
当然こちらが会話を聞いていたということは折り込み済みで、注文を先に通してしまおうということだ。
自然と彼女がカウンターの客たちに近づくので、男客の何人かはあからさまに嬉しそうになり、女客は何か言いたげな妙な顔を、男客に向けた。
「あいよ。言って。」
「えっと…ベーコンとウインナーの盛り合わせが1つ、冬野菜のサラダが1つ、魚のコンフィ1つ、ベイクドチーズ1つと、付け合わせでバゲットが2つ。あと、ワインがカラフェで1つ!」
ししし、と声が聞こえそうな顔でワインの部分を強調しながら言ってくる呑兵衛は、いま読み上げたメモ書きを一枚破り取り、カウンターの脇に置く。
「あいよ。うれしい限り。コンフィは時間かかるから、ムニエルをすすめてみてくれ」
ルーカスの表情は変わらない。
「もう少し感情出して~…愛想愛想!」
苦笑しながら、水差し容器の縁ギリギリまでワインを注ぎ、自分用のジョッキを1つ持つと、先ほどの客たちのところへメリッサは戻っていく。
長くなりそうだな、と、仕事中だぞ、という思いが同時に出たが、ルーカスは何も言わない。
「ムニエルで良いって~」
テーブル席のほうからメリッサの声がする。
ルーカスはちらりとそちらを一瞥し、目で了解を合図した。
「マスター、そろそろ帰ってこんかな」
誰に言うでもなく、ルーカスは呟いた。
二つ並べたフライパンの一つにはベーコンとウィンナーが弱火でじっくりと炒められている。もう一つのフライパンに、下処理をした魚の切り身を載せ、火を付けた。
付け合わせやサラダの野菜を切り始める。
だいぶ客は引けてきているが、今日はそこそこ忙しい。もともとがそんなに大きくない店だ。人手が若干足りない。
買出しに出た上司である店主が早く帰ってくることを、気持ち強めに願いながら作業を続ける。
先に頼まれていた別の客の料理を何品か仕上げ、手際よく配膳する。
テーブル席を見ると、メリッサを中心に3つのテーブル席の客が賑やかに歓談しているのが見えた。
ふぅっと小さくため息をつくと、ルーカスは次の仕事に取り掛かる。
「ルゥ!エールくれ!あとベーコンを!」
「あいよ。だけど、もうだいぶ飲んでないか?今日大丈夫かよ」
カウンター客の一人が注文を通してくる。見た目はルーカスと変わらないが、実は随分と若いことを知っているルーカスはそれを受けながら笑った。
仕事中は淡々と喋る男だが、愛想は良いのだ。
「今日はいいんだよ!母さんも父さんも帰りが遅いから!」
「ウェルデル」
ルーカスは彼、ウェルデルにエールを差し出しながら言う。
「この街で遅いも早いもないだろ?あんまり飲ませてくれるなって、お前の母さんから言われてるんだけどな」
「知るかよ!もう酒の飲める年だっての!」
受け取ったエールをごきゅごきゅと喉を流して飲み干していくウェルデル。
いかにも人懐こい顔の青年である。酒に酔い、料理を楽しんでくれている。
美味そうに飲んでいるが、この年頃なら酒を飲むこと自体に楽しみも見出せる。実際に美味いと感じているかは、本人のみぞ知るだ。
だが、味が分かるのかぁ?とでも言いたげに彼をチラリと見る何人かの年長者達は、毎日酒を新鮮に味わえた日々を思い出すように、目を細めた。
「いい飲みっぷりだな。でも次は水か茶にしておけよ。一気に飲むと後で来る」
「わかってるよ!」
そう言いながら、グイグイ飲み進めるウェルデルを見て、ルーカスは笑った。
似たり寄ったり、いつもの光景だ。
昼も夜もないこの街では、飲食店は時間帯を問わず一定の需要がある。
強靭な工業力をベースとして、この街の経済は発展してきた。
魔道の発達した時代であったとしても、生産活動の中心はあくまで人間であり、時間を厭わず働ける環境がこの街には存在する。
それは様々な業種の複合体となって、街全体が一個の生き物として新陳代謝を繰り返すように日々蠢いている。
街の中心に行けば行くほど、常に人が溢れており、そこには必ずと言っていいほど賑わう飲食店があった。
ルーカスの勤める店は決して一等地に立っているわけではない。
しかし、街の中心や住宅街、郊外の工業地帯との概ね中間にあるので、労働を終えた者が一杯やりに、これから仕事に出る者は仕事前の食事を食べに来る。
いわゆる地元民のためのお店、という立ち位置で、店の色と売上を保っていた。
「ミリー!楽しんでるとこ悪いけど、料理持ってって!」
テーブル席のメリッサに大きめの声で呼びかける。
だいぶ歓談が弾み、もはやすでに客と一体になってはしゃいでいる彼女を見ても、いつものことだなと、ルーカスは気にもしない。だが、仕事はしなさい、という顔で見やってやる。
「ごめーん!」
メリッサも慌てて料理を受け取りに来る。
やや飽きれ顔で、しかし本当に飽きれているわけではない顔で、ルーカスは料理を渡す。
「そろそろ戻ってくれ。マスターも帰ってきそうだし」
「そうね。大分頂いちゃったわ~…」
頬をほんのり赤く染めて、メリッサは実に楽しそうだ。
その大分頂いた酒は、自分で注いで持っていっていたような気もするが。
「そりゃ、大いに結構だ」
小さく肩をすくめるルーカスも、やはり楽し気である。
人が集まる場所の活気は独特だ。共鳴とでも言えるように、陽の感情が伝播していく。この雰囲気が、ルーカスもメリッサも好きなのだ。
「どれ」
次の料理だ、とルーカスが新しい鍋を準備し始めたところで、非常に騒々しい足音と、キンキンと甲高くも間延びするように近づいてくる女の声が聞こえ始めた。
ルーカスは、ちらりと時計を見る。
「来たか。今日もやかましいな」
ルーカスだけでなく、店のほとんどの客が扉の方を見た。何人かは期待に満ちた顔で、一部は苦笑いをして。
だんっ!と大きな音を立てて扉が開く。前につんのめるようにして、女が一人入って来た。
勢いそのままに、足踏みするようにバタバタと騒々しく駆け込んでくる。
淡い茶色の髪が乱れている。
急いでいたからというより、挙動から単に無精なだけでは無いかと見て取れた。
顔は割と整っていたが、化粧気もなく、どこか
舌を出した、よく言えば愛嬌のある犬のプリントが施された靴下と、可愛らしい白のカーディガンを羽織っていた。
この格好でここまで来たのかと思うと、男ですら共感的な羞恥を抱く。
口元は何かを堪えるようにギュッと結ばれている。
不機嫌そうにも見えるがきっとそうでは無い。
何となく、犬のように見えなくもなかった。
店の時間がほんのり止まる。
――あぁ、何か、叫ぶな。
ルーカスは扉が開いた瞬間から思っていた。
「みんな、聞いてーーーーーー!!!」
女は、天井に向かって吠えた。
重なるように、どこかで犬の遠吠えが聞こえた。
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