第5話 爪弾きの深夜の協奏 3

大きな湖の水辺を、少女は走っていた。

 肩が露出した薄手の白いひとつなぎの服は、全体的にうっすら汚れ、灰色に近い色合いになっている。

 

 足元は裸足で、擦り切れた傷跡がまばらについていた。

 身綺麗であれば、間違いなく可愛らしいと形容される容姿である。長めの茶髪と大きな同色の瞳。手足はほっそりとしていて、体も線が細い。

 色白、というには青白い不健康そうな肌が魅力を大きく損なっている。

 

 少女の走り方は、体の軸が左右に揺れ、足を引きずっているように覚束ない。

 白い吐息が、断続的に口元からあがる。

 辺りは暗く、人気もない。

 よく舗装された石畳の道だが、街灯は乏しく、雰囲気は寂しげだ。

 遠く、少なくとも何kmか先に、街の灯りが見える。

 溢れたオレンジの光が、微かに雲に反射して、その場所が何かしらの祝福を受けているように少女には見えた。

 体はしばらく前からずっとそちらを目指して動いている。

 少女には、ここまで来た道のりも記憶もほとんど定かではない。

 巨大な光の渦に飲まれ、身が引き裂かれ、が散乱する幻影が記憶の端を何度もちらつくが、その光景が本当なのか、仮に本当だとしてもそこに至る過程が全く分からない。

 焦りと苛立ちが込み上げる。

 寒い、痛い、苦しい。

 不快な感情ばかりが、頭と胸の中を覆っている。せめてなにか羽織るものでもあれば、幾分か少女の気持ちは和らいだだろう。

 

 湖は霧を多量にまとい、周囲にそれが漏れ出していた。

 気温と比べて、地熱の影響のお陰か水温は低くないようだ。

 この霧が少女の視界を塞ぎ、見通しを悪くしている。遠くの街の灯りは認識できるのに、ほんの十数m先の様子が分からない。

 だからこそ、そこに立っていた人の存在に、少女は近付くまで気付けなかった。

 

「あ」

 と、少女が声を上げた。

 会話が十分可能な距離に、急に人影が見えたからだ。

 少女が戸惑ったのは一瞬だったが、頭の中で警鐘が鳴ったのは刹那だ。

 その人影を認識して、一拍も置かずに少女は踵を返し、全力で走りだす。

 しかし、振り向いた先にもすでに新たな人影が立っていた。

 今度は全く違う方向へ向かって走り出すが、そこにも人影がいた。

 少女は立ち止まり、3人の人影を何度も見やった。顔は霧と暗さでよく見えないが、2人は男、1人は女だ。

 少女は、本能的に感じ取ったものがあったのだろう。その女だけに顔を向けた。少女の顔は無表情のように見えたが、含まれる黒い感情はそうそう隠れるものではない。

 

「随分、遠くまで散歩をするのが好きなのね、リナ。探すのに2日も掛かりましたよ?」

 その見覚えのある女は、とても優し気な声音と解ける様な笑顔で、まるで母親のように少女ーーリナに声をかけた。

 女は歩み寄る。ようやくぼんやりとだが、その姿が露わになった。

 女は白いスーツを着ていた。ヒールも白である。

 ウェーブの掛かった灰色の長髪には、何本かはっきりと濃い白髪が混じっていた。

 だが、年のせいというより色素が薄いせいだろう。丸縁の大きな眼鏡の向こうには、白に近い灰色の、2枚の銀貨のようにすら見える鮮やかな瞳があった。

 瞳から分かるが、アルビノではないただただ白い人間だ。

 顔立ちは小奇麗だがどこにでもいそうであり、特定の年齢が連想されない。

 他の2人の男たちは、帽子を深く被り、黒い作業着のような服を着込んでコートを羽織っている。動かず、遠巻きにリナと女を視界に収めたまま、立っているだけだった。


「あなたが逃げ出してから、私がどんなに心配したか。あなたには分からないでしょうね。でもね、別にいいの。大事な大事な、あなたにこうしてまた会えたんだから」

 時折、悲し気に、あるいは嬉し気に、女の表情は変わり、それは心の底からリナのことを案じて探していたことを思わせるようだった。

 慈愛に満ちた声。

 鼻に抜けるような、ほんの僅かにクセの掛かった声質が、甘く脳を蕩かすように思える。まるで腐る寸前の、林檎の香りのように。

 

 リナの表情は乏しいながらも、完全な不信感と敵意に満ちた感情を出していた。


 ーーリナ、今日はこっちの鋏がいいでしょう?あなたが好きだと思って、刃先を花弁の形にしてみたの。きっととてもいい刺激を与えてくれるーー

 

 ーーリナ、あなたの血は、ルビーを溶かしたみたいに見えるわ。フラスコの底を、いつまでも舐めていたいーー

 

 ーーリナはお腹の中まできれいなのね。ほらここ、わかる?あなたの女性の証…丸くて、かわいいーー


 リナの呼吸は荒くなっていた。

 寒いはずなのに、震えの代わりに額から汗が滴る。

 腹の底を押し上げてくる、不快な痛み。

 痛みはまるで掌の形を作り、腹わたを手当たり次第に掴んで回っているように思えた。

 彼女は、皮膚が白く見えるほど硬く硬く拳を握った。筋肉の緊張で小刻みに震えるほどだった。

 爪の何枚かが割れ、手の平に刺さる。

 両腕の上腕と前腕が硬直し、同時に隆起していくのを感じる。

 食いしばった奥歯がギリギリ音を立てた。


「そんな、怖い顔をしないで?あんなに私たちは仲が良かったじゃない」

 女は両手をリナに向け、大げさな身振りと表情で悲しみを表現した。まるで古くからの友人に絶交を告げられたかのように、憐憫すら感じた。

「私は、またあなたと一緒に暮らしたいの。それだけ。ね?お願い。また一緒に


 リナの顔が一瞬無表情になる。瞬間、激しい怒りを顕わにし、女に掴み掛かろうとする。

 動かず控えていた男たちが、明らかに何らかの訓練を受けた素早い動作で、音もなく前進し女を守るようにリナの動線に割って入る。

「無理だって」

 小さくこぼした女の声が男たちに聞こえていたのかは分からない。

 男たちは抵抗らしいことも出来ないほど一瞬で、リナの腕のひと薙ぎで吹き飛ばされた。

 猛烈な速度で10mほど地面と水平に飛行し、地面にぶつかり跳ねる。まるで水切りの石のように。

「いいわね。順調。あなたは本当に、素敵」

 リナは女を捕まえようと腕を振るう。

 瞳孔は収縮し、顔には敵意しかない。唸りこそしないものの、挙動やその雰囲気は獣そのものだった。

「怖い怖い。その腕に当たってしまったら、私なんてきっとバラバラになってしまうのでしょうね」

 

 顎下に手を当て、さも困ったような素振りをしながら、こともなげにリナの繰り出す連続の攻撃を女は躱しかわし、片手でいなし、時にはリナの腕をつかんで適当に放り投げる。

 大の男2人を一撃で吹き飛ばす、超然の暴力を振るっているであろうリナに対して、女は易々と対応していた。

 戯れつく子供をあやすようだ。

 女の表情は幸福に満ちており、両頬は紅潮し、定かに楽しんでいる。

「リナ、とてもいい動きよ。でも、息が上がってる。汗が酷い。後で一緒にお風呂に入りましょう?ほら、右足が全然うまく使えてない。危ないわ」

 女はリナの左足の蹴りを、まるで骨や靭帯が存在しない如くぐるりと上下反転し回避した。そのままリナの右足を掴み、元の体勢に戻る。自然、リナは右足を掴まれたまま、上下逆さまに吊り上げられてしまう。

「brummel …!!」

 リナの口から獣に似た唸り声が響く。

 暴れ、踠いても、女の手は石像のように微かに揺れもしない。

 「滑らか。粉雪のよう」

 女はリナの足に口を近付け、躊躇わずにその白いふくらはぎを、長い舌で舐め回した。唾液がぬらりと光り、リナの身体を穢す。

 リナはより一層抵抗した。唸りの半分は今や悲鳴の様にすらなり、女への極限の嫌悪に、目には涙すら溜まっていた。

 空いた足で何度も女の身体を蹴り飛ばすが、彼女は気にしている様子すらない。

「はぁぁ……」

 女の吐息は、火のように熱かった。だが、物凄まじい悪寒をリナは感じる。熱い熱い氷を背中に差し込まれた様だった。


 そのイメージと同時に、リナの脳裏に、心臓に…そして下腹部に、電流に似た強烈な衝撃が走る。

 

 直後、リナの全身がビクリと波打った。

 瞳孔が一瞬散大したかと思うと、縦目に亀裂が入り、陶器が割れる様に裂ける。

 それは渦を巻きながら眼球の奥底へと飲み込まれていった。茶色い瞳孔は眼球の中心へと飲み込まれていき、漆黒の瞳孔へと変貌した。

 しかし、すぐさま逆回しの様に、真紅の瞳孔が内側から迫り上がってくる。

 

「あら、早いのね」

 

 女はその様子を、とろりとした視線で嬲るように見ていた。

 ビクリビクリと波打ち、脈打つリナの体を釣り上げたまま、身体から少し離し、見つめている。

 リナの身体がグチグチと泡立ち出す。中から白い、鉄線のように強靭な体毛が溢れ出す。赤黒い爪が伸び、それは足先の爪も同様だった。

「あぁ」

「なんて、可愛らしい」


 〝あぁあがぁーあぁあぉーおおーー!!〟


 慟哭が、怨嗟が、雄叫びが、悲鳴が、嬌声が。ありとあらゆる叫びの合唱が、リナの口から、全身に現れたから、から、溢れ出し漏れ出し、共鳴し、増幅し合う。

 身体に無数の華が咲いた。

 真っ青な薔薇にも似た、しかし人の唇の様な花弁の華が無数に咲いた。

 それらはまた更に、それぞれの意思で叫び出す。

 肉が膨張し裂ける。裂けてはまた肉の糸で縫われ、それがまた裂ける。

 血が吹き出し、それを身体に咲いた華が飲み込み、また別の場所から血が吹き出す。


 女の握っていた右足が爆発した様に裂け飛んだ。

 その威力は女の腕ごと右足を四散させた。


 リナの身体が地面に落ちる。そしてそのまま蠢き出す。


「あぁ、本当にあなたは美しい」


 女は自分の吹き飛んだ右腕の事など意に返さず、いっ時もこのを見逃すまいと、リナの変貌を見詰め続ける。


「さぁ…さぁ…来なさい。来て。一緒にイキマショウ」


 女は両ももを内側に向かって強く擦り合わせた。前後に、左右に、強く、湿った音が鳴るほどに。

 身悶えし、吐息をつき、震える。


「私の愛しき、腐敗の大狼よ」



 月夜に、雷鳴の様な遠吠えが響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る