第2話 爪弾きの深夜の協奏 1
細かい、爪先程度のほんの小さな光の粒が、無数に夜の虚空を飛び交っていた。
羽虫のようにすら見えるそれは、決して虫などではなく、純粋な光源であり、紛れもない光の粒子。意思を伴うように不規則な軌道を描きつつ、群れになって空中を飛び交っている。その放つ光は淡い白色だが、周囲を照らすような光ではなく、視覚的には夜空の星と同程度のもの。
流動的に、能動的に、波のように、風のように、光の粒子は僅かの音すら立てていないが、悠然と夜を彩る。
この街を含む地方一体で広く見られる、幻想的な風景であった。
煙草の匂いがする。
嗅ぎ慣れた者にとっては香ばしく、苦手な者には臭い体臭の様にも感じる。
そこは周囲に街路樹があるものの、市街地の中心からは大きく離れた郊外だった。
住宅街でもなく、付近にある建物といえば古い工場や倉庫ばかりの、つまりは夜には人気のない都合の良い場所である。
空に大きな月の陰影が浮かんで見えた。雲が掛かり、明かりは乏しいが、もともとこの街には
月の周りを撫でるように、無数の光の粒が舞っていた。
女は慣れた手付きで煙草を左手の親指と人差し指で摘み、ポテトを食べる様に口に運ぶ。
決して美味そうには見えないが、これが彼女のいつもの仕草であり、仕事中で最も落ち着ける時間だった。
深いワインレッドのワイシャツとデニムに黒いブーツというシンプルな服装である。ミドルヘアの緋色の髪は無造作だが、しっかりと後頭部で結ばれている。
「
女がどこへともなく呼びかける。少し離れた暗がりから、ぬっと男が顔だけを出した。
「は。ここに。
司書と呼ばれた男の顔は非常に平凡で、平凡が個性のごとく平々凡々だった。
黒い短髪とのっぺりとした平民面、体の大部分は見えないが、平凡なスーツを着ている。
建物の隙間から顔を出したまま、微動だにせず女ーー女史、の次の言葉を待っていた。
「こいつはどうする?」
女史の足元から1m程離れた場所に、男が転がっていた。気を保っているが、苦しそうにうめいている。右手と右足が本来曲がらない方向に曲げられ、顔面は何回も打ち据えられたのか、これまた右側が大きくはれ上がっていた。
随分、片側に損傷が偏っている。
女史は左の手足を使う事が好きなのか、あるいは右手に大ぶりの拳銃を握って、銃口を男の体に向けていたからか……どちらとも言えると思えた。
「は。生かしておく事が適切かと。特に用を感じませんが、宣伝効果を狙うべきです。同じ輩共への戒めにもなります」
「そうか」
女史は煙草を一口吸った。燻した煙草葉の香りが鼻腔を抜ける。
発砲した。かすれたような空気をこする音がする。男の無傷だった左足の付け根に大きな穴が開き、塞ぐように激しく出血する。赤い飛沫が飛んだ。女史のブーツに数滴掛かる。
男は驚愕し、叫ぼうとしたが、声は微かにすら発せられることはない。ただ顔が激痛にゆがみ、体を震わせるだけだ。
女史は煙を吐いた。白い吐息と混ざり合い、夜闇に消える。
「だそうだ。よかったな」
もう一発を男の左肩に打ち込む。今度は血と砕けた骨があたりに散らばった。もはや完治は難しいだろう。
「は。女史。生かしたほうが…」
やや、気圧された雰囲気を出しつつ司書が声をかける。
「いいよなぁ?司書」
「と、言いますと?」
「こいつら、まだ生きていけるんだよ。さんざん自分らは人ぶっ殺して、金を稼いで、女を犯して、およそ私なんて
女史は男に近づいていく。男は虫のように身を捩り、女史から少しでも離れようとする。
女史は男のそばに来るとしゃがみこんだ。男の顔を覗き込む。
女史は美しい顔だった。輪郭もバランスも申し分なく、白いきめの細かい肌と、くっきりした青い瞳が緋色の髪によく合っている。
「そのくせ、腹は座っていない。追いかけられればプライドも何もなく逃げる。自分が追い立てる側だったときは散々偉そうに大物ぶっていただろうに。本来はどれほど矮小な存在だったか理解できたかね?部下を目の前で皆殺しにされて、体を不具にされて、ようやく分かったか?死をとっくに覚悟しているだろうが…よかったな。とりあえずは生きていてもいいらしいぞ。まぁ、王都での裁判の間までだと思うがね」
女史は左手を男の左足に向けた。拍動性の大出血である。このままでは数分で死亡するだろう。
女史の手のひらに直径20cmほどの光の円陣が浮かんだ。模様などは何もない。
「焼けろ」
輪の中心から、手首ほどの太さの青白い炎が噴き出しへの、男の傷口を瞬時に炭化させる。
男の体が大きく跳ねた。完全に白目を剥き、糞尿を漏らし、痙攣する。
肉の焼ける匂いが立ち込めた。
女史は男の左肩にも同じ処置をし、立ち上がる。
「司書。治しておけ。完全に元に戻す必要はないが、その辺は任せる」
「は。承知いたしました」
司書が隙間から出てくる。
180cmはありそうな大柄な男だった。
顔はやはり平々凡々だが、首から下の体は非常に精悍で、腕の太さは普通の女の太もも程度はあるだろう。
平凡な顔立ちと、非凡な肉体が何とも言えない不気味さを醸す。
「うん、キモイ」
「は。何か?」
「いや、何でもない。とりあえずこいつは治療したのち拘束し、監禁しろ。護送班が来るのは?」
「明日、到着してもらえるよう調整しております」
「わかった。くそったれを一人始末できたのは行幸として、とんだ無駄骨だった」
「は。そのとおりでございます。ですが、軽微でも現状で人的戦力を割いたことには𠮟責の対象になるかもしれません」
「かまうものか。無駄骨とはいえ、こいつはれっきとした
ふん、と女史は息を付く
「とりあえず、あとは頼む。私は当初の任務に戻る」
「は。お気をつけて。また明日ご連絡いたします」
深々と頭を下げ司書は女史を身送る。
振り返ることなく、女史は色鮮やかな町明かりに向かって歩き出した。
歩きつつ手に持っていた吸殻を携帯灰皿に押し込み、ポケットに入れた。
夜の帳を明けることを忘れたこの街では、いつでも
司書の気配も遠くなり、女史一人になると、いよいよ人の気配はほとんど無くなる。
周囲には僅かな街灯と、人のいない建物ばかりだ。
女史は歩きながら空を見上げた。
雲間が先ほどより晴れ、陰りではなく物理的に大きく欠けた1つの月と、小さな2つの月が西と東、それぞれの空に浮かんでいるのが見て取れた。
大きな月は青白く、小さな月は2つとも夕日色に輝いている。
女史の銃をしまった右手は、先ほど消したばかりだというのに煙草を吸うか吸わないかでもどかしそうに指を動かしていた。
悪癖だ、と思っているが、一度ニコチンを覚えた体は身体的な依存からやがて煙草そのものへの精神的依存へと移行する。厄介な長いお友達だった。
ここは夜の街、あるいは月夜の街と呼ばれる、王国最北端、50万人都市「ナハトマルクト」
円環上に形成された大山脈の山間に位置しており、巨大湖のほとりに張り付くように存在しているこの都市は、東方諸国との貿易ルート上重要な補給を担う都市だった。
地熱を利用した工業の発展、すぐれた教育機関の存在、発達した魔道技術、1次~3次産業人口のバランスがよく人口分布も文句がない。
自治独立を掲げる政治家が定期的に市長に立候補してくる程度には、王国を離れても単独でやっていける力も意欲もある街。
辺境と呼ぶには十分な地域の中にあって、自然に切り込んだ文明の尖兵ともいうべき一大都市。
ただ、欠点ではないが――他の都市と比べて明確な違いが一つあった。
「昼のない街か…やはりなんとも、不思議だね」
女史は懐中時計を取り出した。落ち着いた銀細工の施された品の良い品である。
懐中時計には太陽のマークが左下の隅に浮かんでいた。時間帯によって月のマークと交互に入れ替わる仕組みだった。
人生の大半を昼と夜が交互に来ることを当たり前だと思っていた身からすれば、慣れるまでまだ暫くはかかるだろうな、と女史はふと思った。
ナハトマルクトは円環上の山脈が百数十キロに渡り取り囲むように存在している。
この山脈は朝日と夕日を完全に遮り、日の出と日の入りは街の中から空を見上げると、うっすら白くなったのが分かる程度だ。
高緯度地域の特性としてそもそも日照時間が短いことも相まって、この街では明確な昼と呼べるほどの明るい時間帯がほぼ存在しない。
せいぜいが、真昼に空が青白く輝くだけだ。それすら、上空の月や星の姿を完全に隠すまでには至らない。
「こんなに暗いんじゃ、精神衛生上よくないんじゃないのかね」
女史は煙草をとりだし――誘惑にあらがえず――、口にくわえた。指先に小さな火種を作り出して火をつける。
「まぁ、こんな商売の私がいう話ではないが」
ふぅっと、煙を一条吐き出す。
昼の夜空に薄い布のようにそれは広がり、月光を微かに滲ませた。
「さて――」
女史の側を光の粒が円を描いて舞っていく。
「今夜は、
紫煙を身体に絡ませて、女史は薄暗い街を歩き始める。
少し遠くに、湖が見えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます