ミッドナイト少女ビースト

ちゃたろー

第1話 硝子の傷

暖かい空気の流れを少女は感じていた。

 ひらひらと動く白衣の裾に鬱陶うっとうしさを感じることもなく、可能な限り音を立てないで足を前に動かして、長い、暗い、固い廊下を、素足のまま足早に進む。

 廊下は薄い緑色をしていた。壁も、床もだ。無機質で滑らかな、よく清掃された廊下だ。

 小さな蛍光灯が数メートル間隔で天井に一直線に据え付けられ、その周囲だけがはっきりと明るく、そこから離れるほどに薄暗い陰気な雰囲気が空間を満たしていた。

 少女は後ろを時折振り返る。そのたび、これまで進んできた軌跡をじっと見つめ、何かを確かめるように目を細めた。

 蛍光灯の灯りがチラつくだけで人気は無い。無いが、どうにも後ろが気になるのだ。

 

 何度目か振り返り、そして再び前を向いて歩きだした時、カタリ、と音がした。弾かれた様に振り返る。

 誰もいない。しかし、さらに少女が足を早めるには十分な理由だった。

「はっ、はっ、はっ…」

 少女の息は僅かに上がっていた。移動する速さによるものというより、心理的な抑圧が呼吸を速めているのだろうか。表情も硬く、緊張に満ちていた。左の頬を一筋、汗が伝う。

 

 少女は、歩きながらおぼろげな記憶を辿っていた。

 どこかの部屋で、幾人も自分の前に現れては、何かを語り掛け、そして消えていく。記憶の中の場所は、この建物の中なのか、全く違う場所なのかわかりはしない。しかし、光景が頭をかすめるたびに言いようのない不快感と奇妙な高揚感を感じるのだ。

 

 後ろのざわめきが、空気の振動ではっきりと感じられた。

 足に力を入れた少女は、もうほとんど駆け足に近い速度で進む。後ろが、明らかに騒つき始める。時間が無い。

 前方に扉が見えた。まだ遠い。しかし、希望を託すには、十分な理由だった。

 歩幅を大きく、爆ぜるように足裏を強く蹴り飛ばす。

 後方の騒めきはいよいよ大きくなり、人の声も聞こえ始める。

 いそげ、いそげ。

 胸の中で激しく、足元が突然消えたような不安感が波を打つ。ダメなんだ、またダメなんだ。そんな事は無い、今度はきっと。何が、きっと?

 ぐるぐると期待と不安と焦りが少女の心を焦がす。

 少女を呼び止めるはっきりとした声がした。

 その時には少女の腕はドアのノブを強く握り締めていた。駆け寄せる硬い足音が耳に痛い。

 グッと力を込めてノブを回した。ガリガリと音がして、ノブの周りが手前に盛り上がり、ドアが歪む。手首に重い負荷を感じた。足音が近い。五月蝿い。黙れ、跪け、消え失せろ。

 少女の口元で、ギリリと音がした。

 ドアが爆ぜる。缶詰の蓋を引き剝がすかのように、厚さ3cmはあろう扉はいとも簡単に変形し、ひしゃげ取れた。

 後ろの足音が、戸惑うように乱れる。併せて引き攣ったような声が聞こえた。


 開け放たれたドアの向こうは、青白い光と、不気味な低い風音が反響する空間だった。少女の汗で湿った髪を生ぬるい風が撫ぜた。

 水晶の渓谷。

 そびえる氷山のように見える巨大な水晶群は、硬く、揺らぐことなど微塵もないように思える。うっすらと静かな波目の如く、表面は揺蕩うたゆたように輝くが、その中心は青暗く、決して底が見えない。

 朝日はまだ遠いのか、近いのか。分からない。

 分からないが、本能が、心臓が、脳髄が震えて叫び出す。

 ああ、まただ。

 またなんだ。

 ではせめて、激しく殺戮を。

 この世の苦しみを。

 

 思考の停止した少女は、手に持ったままのドアを二つに折って、無造作に後ろへ放った。少しの悲鳴と、何かが潰れる音がする。

 朝日が見えた。光が溢れた。

 水晶の渓谷は、みるみる清透とした輝きをまとっていく。


 祝福と共に、欠けたはさみが柔らかな黄身を無慈悲に引き裂くように。

 

 少女は光を見つめた。

 あるいは、水晶の滑らかな表面を見遣っただけなのかもしれない。

 何にせよ、少女は絶叫し、絶頂の快楽に身を震わせたのちに、自分の身体に人外に長く赤黒い爪を立てて掻きむしった。腕が脈打ち、じわりと生え始めた白い体毛がざわざわと湧き上がる。


 吹き散らされた血液が水晶の渓谷に降り注ぐ。空気が一瞬ののちに赤い霧をまとった。


 少女という殻がひび割れ、激しい雨のように血液が、体液が吹き出し、放射状に飛散した。

 美しい水晶に付着したそれらはあたかも硝子に刻まれた深い傷のように、色濃く陽光に映えたのだった。

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