第3話 家族とラベンダー

 1980年代は世界的に忙しい時代ではあったが、小さなウィルソン一家にとっては娘がすくすくと成長する、貴重で幸せな時期であった。


「ただいまー」


 小さなアパートに帰ってくるジョンは、ドアを締めながら呼びかけるようにして言った。


「おかえりなさい」


「おかえり!!」


 ヘレンが台所で言ったあと、疲れた彼に飛びついたのは一人の少女。母親と同じ真っ黒な髪に、父親と同じ海のような濃い青い目をした彼女の名はエリザベス・ウィルソン。ジョンとヘレンのかわいらしい一人娘だ。


「ベスーーーーー!!! マイ・リトル・ガールはちゃんと元気にしてましたか??」


 仕事の不満や疲労がすべて吹き飛んだ父親は、エリザベスを抱き上げて笑った。


「もちろんよ、パパ! なんでいつも同じことを聞くの?」


「そりゃあ、パパはベスのことが心配で、心配で仕方がないからですよーーー!!」


「大丈夫よ、パパ! 私、強いもん!」


 実際、エリザベスは弱い子ではなかった。青い目に黒髪という珍しい風貌をした彼女は、学校で変な目で見られることが多かった。数人の男の子たちはかわいらしい見た目をしている彼女をからかったり、いじめたりすることもあったが、少女が泣き言をあげるということはなかった。


「はい、夕ご飯ができましたよー」


 ヘレンが呼びかけると、父子はすぐに食卓についた。


「ママ、私紅茶作るね!」


「あら、また? お昼飲んだじゃないの」


「また飲みたくなってきたの!」


 そう答えた娘に、母親は少し呆れながらも笑みを浮かべる。


「本当に紅茶好きねぇ、ベスは。誰かさんとそっくりだわ」


 ヘレンがちらっと夫に目をやると、彼はニカッとした大きな笑顔を見せる。


「そりゃあ紅茶が好きなのは当たり前だろう! ベス、どんな種類の紅茶が好きだい?」


「アールグレイ!」


「そうか、パパもだ! あ、そういえば……」


 いったん廊下へ行ったジョンは、手に花束を持って帰ってきた。


「忘れていたよ、買ってたこと。はい」


 紫色のとりどりの花が入った花束。ラベンダーもあり、その香りがヘレンを包み込んだ。


「あら、ありがとう……。でもどうしたの、急に?」


「ヘレンは相変わらず大事なイベントを覚えてくれないんだなー」


 夫は愉快そうに目を細めた。孤児院で育ったヘレンにとっては、大事な日をお祝いする機会はほとんどなかったので、誕生日は除きなかなかそういう日を覚えることができなかった。


「今日は俺たちが出会った日記念だろ?」


「……あら、そういえばそうだわね」


 だからラベンダーなのか、とヘレンは納得する。


「え、今日はパパとママが出会った日なの?!」


「そうだよ、かわいい子Sweety。その日、たまたまラベンダーが近くの花瓶にさしてあってね。だからラベンダーはパパとママにとって特別な花になったんだよ。ベスはラベンダーは好きかい?」


「大好きよ! いい香りがするもの! ねえ、パパとママが出会った日のこともっかい聞きたい! お願い!」


 きらきらと目を輝かせて頼んだ娘に、夫婦は笑う。


「もう何回も聞いたじゃない、その話は」


「んー、だって面白いんだもん!」


「そうか、そうか。じゃあ、この椅子に座って。よし。パパとママが会ったのは、パパが病気にかかって入院していたときで_____」


 父親が話している間に、ヘレンはラベンダーの花束を花瓶に挿して飾る。


 決して裕福な家庭ではなかったが、ウィルソン家はこの小さなアパートの部屋で幸せに満ちた暮らしをしていた。そして、その記憶にもラベンダーの香りがともについていたのだ。






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