第4話(前)
3月最終週。学生には短い春休みがやってくる。
例年この時期には、門の大きな斎宮家の中の庭園の一角、縁側のすぐそばにある立派な桜がこれみよがしと咲き誇る。道の外から見ると塀に邪魔をされ先端しか姿が覗かないその桜は、他の桜よりも背が高く、色が薄く、開花期間が短い。しかしはらはらと散るその姿は、ただの街路樹として咲く他のものを寄せ付けない気位の高さと品を持つ。その短い開花のタイミングを逃さないようにして、毎年
朝から気持ちのいい晴天のその日、春眠をむさぼっていた透は母親に叩き起こされた。朝から鑑賞会用のお重の仕込みを始めるためだ。
毎年のこととなると食事の分担もなんとなく決まってくる。斎宮家からは和食中心のお重とデザートを、石見家からは洋食や中華中心のお重とおにぎりを。お酒とドリンクは夜桜鑑賞会の前に父親同士が買いに出かける。夜桜鑑賞会と言っても中身はほとんど親同士の花見酒の会である。
透が3歳の頃、石見家が斎宮家の二軒隣に引っ越した。ご近所への挨拶の際に娘と息子が同い年であるということから母親同士の話が弾み、とんとん拍子に家族ぐるみの仲になった。父親同士も年が同じで、帰ってきたら澪の父親が家で飲んでいることもしばしば起こった。
透と澪はふたりとも人見知りが激しくて、幼稚園のころはほとんど喋らなかったらしい。それでも仲の良い親の姿を見ながら少しずつ話すようになっていった。小学校中学年の頃には校内でお互いが一番話す相手になり、高学年で初めて別のクラスになった時に透は澪への恋心を自覚した。
さて、透の母は料理があまり得意ではない。父の料理の腕に母がほれ込んで結婚したという話は年に一度は必ず聞く石見家の鉄板ネタである。そのため母は透に料理を幼いころから仕込ませた。
幼稚園の頃には包丁を使わない料理を、小学校に入学してからは包丁を持つようになり、三年生の頃には三枚おろしが余裕でできるようになった。幸か不幸か当時人見知りだった透には遊びに出かける友人はいなかったので、父による英才教育のインプットとアウトプットの機会を多く得た透はぐんぐん伸びていった。
もともとが寡黙で、はまったものには一点集中の職人気質なところのある透にとって料理はちょうどいい趣味になった。中学生の頃から石見家の平日の夕食は透が作っている。
つまり何が言いたいのかというと、お重作りは透の担当だということだ。
紫紺のエプロンを着け、冷蔵庫と引き出しの中身を確認する。正直花見のお重は決まったおかずを毎年楽しむのが風物詩でもあるのだが、母が早い時間にたたき起こしたということは例年よりも仕込みに時間のかかる料理を作れという意味である。
ひき肉は甘じょっぱいかけた肉団子に。ハムときゅうり、ツナ缶、食パンはサンドイッチに。鶏むね肉は鶏ハム用に。インゲンと人参、豚小間肉は肉巻きにして焼き肉のたれで焼く。プチトマトとキャンディーチーズはオリーブオイルに漬けた後交互にピックに刺してつまみやすく。小さめの鰯は南蛮風にしてこれもピックで刺す。鰯の骨はあとでカリカリに油で焼いてお重とはまた別の酒のつまみコーナーへ。筍ときくらげがあるから細い春巻きも作れる。エビはエビチリ一択。等々。
和食は澪の母お得意の領域なので選択肢から除外するのは当たり前だが、それ以外の料理をただ作ればいいという訳ではない。作るのは縁側で食べることを想定するため、できるだけ箸を使わなくても良いラインナップを頭の中に思い描く。
その縛りの中で新規性と仕込みの手間のあるような新メニュー。父の教えを透は片っ端から思い起こす。
そういえば、時間がかかるからと作るのを後回しにしていた料理があった。確か一晩寝かせる必要がある。が、今から夕方まで寝かせれば同等だろう。
透の料理を澪が食べる機会は少ない。母が父の料理にほれ込んだように、とまではいかないかもしれないけれど、それでも澪が口にするものは澪の体を作るのだ。できればそれは美味しくあってほしい。
ということで、これから最高においしい砂肝のコンフィを仕込もう。
透は冷蔵庫のチルド室の中から砂肝の入ったパックを取り出した。
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