第3話
今週の依頼人は2年生の女子生徒だった。
銀色の縁の細い眼鏡をしている小柄なその人は腰まである髪をハーフテールにしていた。保健室に入ってきたときから結ばれた口が動くことはなく、それでも千代田先生は全く動揺せずに普段と変わらぬ対応をしていたのだから流石としか言いようがない。
保健室を出てから生徒会室に案内するまでの道中も静かなものだった。彼女は足音まで消して歩いていると思わせる心地だった。透は別に依頼人と進んで会話をしたいタイプではない。苦しみを減らすことへの同意さえきちんと得られれば、静寂はむしろ心地いいくらいだ。そういうパターンも何度か今まで経験がある。それでも今回の依頼人のあまりの存在感の薄め方には、道中窓ガラスに反射する彼女の頭を横目で定期的に確認してしまうほどだった。同意を得たのも生徒会室への入室直前、首を縦にふる動作でのみだ。
生徒会室の扉を開けるといつものように澪は椅子に座っていた。火曜に卒業式があった影響で、色紙を掘り出したり油性ペンを漁ったりした痕跡を色濃く残して生徒会室を去ったはずだが、むしろ室内はいつもよりも片付いていた。澪が早く来て片付けてくれたのだろう。後ろ手に鍵を閉めながら表情には何も出すことなく透はそんなことを考える。
澪は顔をあげる。
「これから私はあなたの苦しみを減らそうと思います。ですがそれはあなたにとって喜ばしいことであるとは限りません。それでも本当に構いませんか」
女子生徒はあいも変わらず首肯するだけだった。
澪の同意確認のテンプレート文は4年前に透が考えたものだ。今まで何度か言いよどんでいた経験から、というのが建前。本音は、システマチックに他者に触れてもらう方が透の心としては葛藤が少なくて済むから、というどうしようもなく独占欲の滲む理由からだった。
澪と透が他者の苦しみを取り除こうと動き始めたのは中学1年生の頃からだ。
「......人は、どうしても弱いじゃない?」
ある日の帰り道、唐突に澪はそう言った。たくさんの雨が傘に打ち付けられて音を発していた。そんな中、澪の声はまっすぐ透の耳に届いた。
「きっと私は祈ったほうがいいんだよ」
「......そう」
「透、あのさ。巻き込んでもいい?」
「いいよ」
「......ごめんね」
そのころには透は既に澪から能力のことを教えられていて、それでも透は澪の傍にいることを選択していた。
学校の噂話という体を取り希望者を保健室に集める。当時の移動先は生徒会室ではなく英語科の少人数用の空き教室で、鍵の掛けられない扉が開かれることを怖れながら透は澪の行為を見つめていた。
澪の能力は大きく分けて2つ。
人の世界を覗くこと。
人の感情を貰うこと。
―――相手の両手を挟んでる祈るの。『この人の景色を見せてください。お願いします』って。そうしたらわかるの。それを私は箱庭と呼んでいる。
澪が能力の詳細を語るのはいつだって帰り道だった。能力を持っているという秘密を打ち明けて、金曜に苦しみを取り除き始めてからというもの、帰り際の話題が無くなると時々澪は前ぶりなく箱庭について語る。
断片的で抽象的で伝える気があるのかわからないような説明を透は丁寧にパッチワークのように繋ぎ合わせていく。時間をかけてでも澪を理解しようとしているのなんて自分しかいないのではないかと思えるから。澪の硬く変化の少ない横顔の様子と一緒に、語られる情報を大切なものとして保管する。一番最初に秘密を打ち明けられたときのものから直近のものまで。独り言のように零れ落ちたものから泣きながら話されたものまで。すべてが大切なパーツだった。
―――心が広いと箱庭は大きくて、心が狭いと箱庭も小さい。心が綺麗だと箱庭もいつにもまして綺麗なの。だから人間性がわかってしまう。だからできるだけ見ないようにしてる。祈らなければ見えないから。継続的に見てるのは、お父さんのとお母さんのと、許してくれる透のだけ。
―――箱庭には人間はいないの。でも育つものと水がある。大体植物。あとは海とか川とかダムとか。水は雨になって植物を育てる。でも水が氾濫すると植物はたくさん枯れちゃう。けどね、透の箱庭だけは違う。
―――箱庭の植物はたぶん心なんだと思う。少しずつ芽が伸びて、葉を増やして、種類が増える。時折花は咲くけれど、それは枯れる直前だから現実の花よりも儚さが際立ってるの。
―――水は多分感情なの。波の起こり方が人によって違うの。お父さんは少しずつ水位が増えたり減ったりしてるけど水面が静かで湖みたい。お母さんは時々波が大きいの。ザバーンって砂浜に打ち付けてるのを見ると、やっぱり百面相するお母さんの箱庭なだけのことはあるなって思う。
―――水は心を豊かにするけれど、辛いときにはわかりやすく水位が増えるの。辛い、苦しい、悲しい、ネガティブな感情に敏感なんだと思う。
―――箱庭の水は涙に変換できるから、泣くと少し水の量が減るの。きっと普段人間はそうやって箱庭の水が氾濫する前に定期的に泣いてバランスを取ってる生き物なんだと思う。
―――時々、水が氾濫するの。限界なとき。涙なんかじゃ足りないとき。ひいおじいちゃんが死んだときのひいおばあちゃんの箱庭は水でいっぱいになってた。植物がほとんど枯れちゃったり流されちゃってた。ひいおばあちゃんもその後半年で死んじゃった。
―――今日社会の授業で『川が氾濫すると大変なこともあるけどいいこともあるよ』って先生が言ってたんだけど、箱庭の植物と水もそうなのかもしれない。氾濫している人の方が結果的に植物はたくましい気がする。でも、氾濫から回復できずに砂漠みたいになってた人も見たことあるからわからない。
―――私は、氾濫しそうな人を見ると、『氾濫して強くなれ』って思うよりも『傷つかないでくれ』って思っちゃう。それは本当の意味で誠実なのかな。
―――私は箱庭に入れない。ただ外から眺めるだけ。それでも、すごく綺麗。箱庭を眺めるのは好きだけど、罪悪感もあるから、許してもらった時以外は見ないことにしてる。
―――他の人の箱庭を見てるときに水が溢れそうなとき『私にこの人の水を移してください。お願いします』って願うと、その人の箱庭の水がどんどん減っていくの。私は私の箱庭を見れないけど、その人の水が自分の箱庭の中に入ってきてる感覚がある。
―――水を貰い過ぎると容量オーバーになるの。だから箱庭の外に出さないといけない。でも私の感情じゃないから泣けなくて、だから透の箱庭を使って無理やり泣いてる。
―――両親は私が箱庭を見れることを知らない。透だけにしか言ってない。透の箱庭だけが特殊で、きっとこの世で一番美しいから。
―――透の箱庭は洞窟みたいなところなの。日の光も水も全くない。洞窟の壁で宝石が育っていってる。そんな箱庭なの。他の誰の世界とも違う、透だけの綺麗な輝くような箱庭。
―――水が無い透の箱庭から『水を移してください』って祈ると、そんなことができないからエラーが発生するの。水をどこかからもらわないといけないと体が思って、私の箱庭の入り過ぎた水を涙として一気に外に出すの。今のところ、私はその方法でしか泣けない。
―――やらない善よりもやる偽善の方が救いがあるなら、透に迷惑をかけてでも、私は行動をするべきなのだと思うの。
―――透だけが、特別なの。透がいないとだめなの。ごめんね。
澪は挟んでいた女子高生の手を開放すると、今回は自ら透の手を取った。自分で判断して中断できたところを見るにあまり悲しみを貰いすぎなかったらしい。しばらくしてはらりはらりと涙を流し始める。
他者を救うことが澪の願いであり、透は運よく条件に合致しただけに過ぎない。いくら幼馴染だったとしても、もし透が箱庭に水のある普通の人間であったなら澪はこの秘密を打ち明けてくれなかっただろうし、この手に触れてくれることはなかったのだろう。たとえ透の手に触れるのが他者のための行動だったとしても。
箱庭に水が無く、手近にいる人間。それを現状満たしていたのが透だっただけ。その細い繋がりが透にとっては心配でならない。澪が箱庭を見る範囲は狭かったはずなのに、透という水のない箱庭に出会っている。それは、水のない箱庭が一定数存在しているからではないのだろうか。
世界は広い。だから怖い。
もし、今後箱庭に水が無い人間に澪が出会ってしまったら。その人物と澪が、今の澪と透の関係性を越えてしまったならば。
澪はもう透に触れてくれることはない。
薄暗い想像をする。澪が水のない箱庭を持つ他の人間に出会うことなく、永遠に透を頼り続ける想像。澪の幸せを願うなら、こんなに性格の悪い自分から澪は離れたほうがいい。それでも透は自分から手を離すつもりはさらさらなかった。
澪は一通り涙を流し切ると、透の手を離す。
「透、ごめんね」
それだけ言うと依頼人とのやり取りへ移ってしまう。それが、あくまでもビジネスライクな関係だ、と澪から示されているように感じて、透は気づかれないように奥歯を噛みしめた。
生徒会室を施錠した澪は指に鍵をひっかけてくるくると回しながら廊下を進む。透が追い付いてくることを疑わないスピードで、いつもよりもゆっくりと。大股で進んで澪と肩を並べたところでちょうど階段に差し掛かった。
「今日、澪があんまり辛そうじゃなくて安心した」
「うん。今週の彼女はすごく大きな悩みというよりは、波が激しすぎちゃうタイプだったから少しで済んだ」
「そう」
「あ、負けた。じゃあ鍵返してくるね」
「いってらっしゃい」
じゃんけんに負けた澪が職員室に鍵を返しに行く間、暇になった透は階段の絵を見る。卒業式もあったため3年の生徒作の絵が返却されたタイミングだからなのか、階段にかかっている絵は一新されていた。見慣れ過ぎて飽きていたところだったのでありがたい。
職員室のあるフロアの近くの作品を順番にゆっくり鑑賞すると、一つ他とは明らかに違う絵があった。他が油絵なのにも関わらず、唯一水彩絵なのだ。
その絵は不思議な絵だった。横幅が1mほどありそうなキャンバスにメインで書かれているのは一面の紫水晶の世界だ。手前に大きな結晶がアップで映った構図になっているが、後ろ側も書き込まれていて手の抜かれた様子はない。特有の形をして生えている結晶は根元に行くほど黒に近い幻想的な紫色で、先端に行くほど透明度が増している。しかしよく見ると、その結晶の先端は全て大きなヒビが途中で入っていたり、先端が粉々に砕けてしまっていた。結晶の根本と思われる部分にはその破片としてキラキラとしたものが落ちている描写がされている。
「透、何見てるの?」
「ん?絵が新しくなったな、と思って」
帰ってきた澪が透の隣でその絵を見る。
「この絵の作者、誰」
澪に言われて確認する。
タイトル:糾弾 作者:2年 峰 稜真
絵に似合わないなかなか物騒なタイトルセンスだ。
「『峰 稜真』だって」
「透、その人知ってる?」
「知らないけどどうしたの?」
「できれば、その峰さんと関わらないでほしいかも」
何故?と聞くのは簡単だった。でもそんなことはしない。澪がそう言うのであれば、きっとそれは俺のためなのだ。
「わかった」
「ありがとう」
「じゃあ、帰ろうか」
玄関までの階段を進むまでに澪はちらりと先ほどの絵を再度確認した。澪にしては珍しいと感じながら、透は下駄箱まで躊躇うことなく降りて行った。
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