第2話
「あれ、
「そうだけど?」
3月2週目、金曜日。保健室にガラガラと入ってきたのは隣のクラスの瀬川だった。
「ちょっとだるいからベッドで寝かせてくんない?」
「.......じゃあさっさと記入用紙書いて」
ニヘラと笑う瀬川に記入用ボードを突き出しながら、透は内心面倒くさいなと思っていた。
今の時刻は16時25分。
―――金曜日の16時半、枕の高さに上靴をそろえた状態にして保健室のベッドで眠ると、『何か』と引き換えに苦しみが減る。
瀬川はきっと、噂を試すために来たのだろう。
ボードに必要事項を書ききった瀬川は、お邪魔しま~すと言いながら、枕の高さに靴をそろえてベッドに潜り込んだ。
―――確定か。
透は溜息をできるだけ隠しながら、ベッド回りのカーテンを閉めるべく動く。端まで閉める前に閉じられたカーテンの内側に入り、瀬川に耳打ちする。
「17時に保健室が閉まるからそれまで寝てろ。その後連れて行くから」
瀬川は目をキラキラさせながらコクコクと頷き、直後スンと電源を切ったかのように瞳を閉じて寝る姿勢に入った。
透はカーテンの内側にいるうちに澪にラインを送る。澪には毎週この時間図書室で勉強をしてもらっている。依頼者を連れていくときを待ってもらうためだ。
カーテンの外側の世界に出てみると当たり前だが時間はほとんど経過していなかった。瀬川が来ることで止まってしまった保健委員会の仕事を続ける。
依頼者が来たという、握りつぶそうと思えば握りつぶせるその情報を透は握りつぶせたことが無かった。他人を救って澪を苦しませる道を選んでしまう。他人のためなんて聖人みたいな理由なんかじゃない。ひととき澪に触れてもらうため。その為だけに澪を傷つける選択をする。そこにある欲求が綺麗ではないことだけは明確で、だけれど抗えないでいる。澪が他者の救済を望むということを免罪符にして。
今日だって、最初顔を見たときに瀬川が依頼者となるのが嫌だと思ってしまった。瀬川に非のない透の完全な私怨。
瀬川は澪のクラスメートだから、澪の能力を知らせたくない。
瀬川は良い奴だから、俺から澪を奪い去りそうで怖い。
瀬川との付き合いは主に体育の時間でしかないけれど、それだけでも瀬川が良い人間だというのはわかってしまう。
透のクラスの生徒ともワイワイとおちゃらけることのできる人間。表情が素直で人の心を掴むのがうまい人間。非常に聡明で、どう立ち回れば雰囲気を良くできるかがわかっている人間。
透は良い人間関係の構築に慣れ切っている。仲良く、されど深すぎず。使える人脈を保有するための打算的なものであり、そこに人情は欠落している。人間観察を繰り返して嫌われないように人好きのする笑顔で振る舞うだけ。
瀬川を人間のようだとすると、透はロボットのようだ。
透は内心そう自嘲する。
ただ刻々と、静かな保健室で時間だけが過ぎていった。
17時。千代田先生が保健室を閉めるのを瀬川と一緒に見守って、先生が鍵を返却しに進む。
「行くぞ、瀬川」
透と瀬川は先生と逆方向に廊下を二人で歩いていく。
「石見って、それが素?」
瀬川は透の隣を保ちながら笑いかけた。今日は曇りだね、のような何でもないことを言うような口ぶりだった。透は瀬川の方を見つめざるを得ない。
瀬川と今日話したのはほんの数言だけなのに、見抜かれた。
「ニコニコしてるとこしか見たことなかったから。でもアンニュイでぶっきらぼうなのもいいと思うよ」
変わらない様子で瀬川は歩き続ける。透は瀬川が怖くなっていた。瀬川がここまで的確な人間観察をするタイプだと思っていなかったから。
「......ありがとう。でも素は基本見せないようにしてるから隠してほしい」
「承知!」
瀬川はおどけたように返した。きっとそれも計算された行動。でも、気遣いが透けて見える行動。瀬川はあまりにもいい奴だった。
「石見が苦しみ取ってくれるの?」
「残念ながら俺じゃない」
「じゃあ誰が?」
「それは着いてのお楽しみに」
「どこ向かってるの?」
「生徒会室」
「石見、確か生徒会入ってたよね。」
透は頷く。ポンポンと途切れることなく会話が続く。知っていたけれど瀬川は話が上手い。
階段に差し掛かる。二人並んでひたすら足を進める。
「苦しみ取ってくれるって言うけど、それって石見とかやってくれる人にメリットあんの?」
「俺にはメリットとデメリットがあるけど、とるに足らないくらい小さなことだからそんなに気にしなくていい。
あと、お前の苦しみを取ってくれる人は、メリットを感じているらしい」
透は澪がいつかのタイミングでしてくれたたとえ話を瀬川に伝える。
「曰く、オルゴールと修理師みたいなんだと。
どんな音がするかわからないこの世に一つのオルゴールを直して、曲を聴くのが好きらしい。報酬はその曲を聴くことだそうだ。
でもこれはたとえ話で、細かい事情はまた違うらしいけど概要としてはこうだ、って」
「石見には聞こえないの?その音が」
「悲しいことに全く」
澪にはどんな世界が見えているのかを聞かせてもらったことがある。それを全て伝えるのには時間が足りないし、言語化したとしてもオルゴールのたとえの方が簡潔に伝わると透は思っている。
あとは単に、澪の見ているという世界を瀬川に教えたくなかったというのもある。
階段を昇り切った。生徒会室にはもうすぐ着いてしまう。
「瀬川、苦しみの代わりに失うものについてだけど、」
「いいんだ。別に何を失っても」
瀬川はやけに晴れやかに笑った。とても寂しそうな顔だった。
「今あるものでも、過去でも未来でも、他人の幸せとか倫理に反したものだろうが何だろうが、どんなものを対価にしてでも、俺はこの苦しみを取り除きたい」
エゴだろ、と瀬川は言い切った。透はそれ以上何も言えなかった。
「やっほ、
「......瀬川君」
生徒会室に入るのが瀬川は初めてのようだった。澪に挨拶をしてからはきょろきょろと周りを見渡していた。むしろ澪の方がクラスメートの来訪に戸惑っているようだった。助けを求めるように澪は透の方を向いている。
「一応守秘事項あるからあんまり部屋細かく見んな」
「はーい」
「そこに座れ」
部屋の鍵を閉め、瀬川を澪の前に座らせる。瀬川は堂々としていた。
「......私がいることにあまり驚かないんですね」
「いや、部屋入ってちょっとは驚いたよ?でも確かに斎宮も石見も、生徒会で保健委員で共通点多いな~と思ったら納得した」
「成程」
普通クラスメートの委員会なんて覚えることはほぼ無い。というのに瀬川はカラリと言ってのける。やっぱり底知れない男だ。
「斎宮が苦しみを取ってくれるの?」
「そのつもりです。でも、苦しみを減らすことは瀬川君にとって喜ばしいことであるとは限りません。それでも本当に大丈夫ですか」
「いいよ。なにもしないのが一番嫌だ」
「わかりました」
あっさりと答える瀬川に、しっかり澪は頷いた。
瀬川に合掌のような手の形を作らせ、澪がそれを包む。
―――そして、澪はその手をほどいた。
「苦しみを取り去る前に瀬川君に話したいことがあれば聞きます。
私も透も秘密を守ります。壊れそうなら助けます」
だから、泣いてもいいですよ。
澪は瀬川をまっすぐ見つめて言い切る。そこに愛情や慈悲はなく、ただ事実として淡々と伝えるだけ。澪はそうして改めて瀬川の手を包んだ。
瀬川はゆっくりと目を閉じて、上へ顔を向けて、あーとかうーとか呻いていた。
「.............本当は死ぬまで隠し通して、火葬されるときに煙と一緒に捨ててしまおうと思ってたんだ」
深く息を吐いて、瀬川は顔を下に向ける。ちょうど澪に挟まれた自分の手を見つめるような、何にも焦点が合っていないような面持ち。
「......水曜日、学校を休んだのは、姉さんの結婚式があったからだった」
瀬川は小さく声を発した。かじかんだ声だった。
「......姉さんが好きなんだ。血がつながっているのに、ずっと、ずっと、ずっと、今でも、まだ......」
「......耐えられると思ってたんだ。あの人と結婚するなんてもっと前からわかってた......」
「......でも、『おめでとう』って、姉さんに言えなかった............」
瀬川の焦点のわからない眦からスッと雫が流れる。絶えることなく、途中嗚咽を交えながら瀬川は自分の傷口を開く。
「どうするのが正解だったんだろう。
『好きだ』って言えばよかったのかな。
『おめでとう』って笑えたらよかったのかな。
......好きにならなければよかったのかな......」
ケホケホと水分の無くなった咳が瀬川の喉から出る。痛々しい空気の音。
ふと見ると澪の呼吸も細くなっている。いつの間にか始めていたらしい。
少しずつ瀬川の状態が落ち着くにつれ、澪の状態が反比例するがごとく悪くなっていく。もう限度だろう。
「澪、澪、」
澪の手を瀬川から外し、澪の前で膝をつく。透は何度か名前を呼びながら澪を見つめる。合わなかった視線が徐々に焦点を取り戻す。透の体にやわらかな心地よさが流れ始める。
瀬川はやっと理性が戻ってきたようだった。明らかに苦しそうな澪を恐々と見ている。未知の現象への恐怖と加害者意識。罪悪感を抱くなら他人の幸せも対価にしていいって言うなよ、と透は悪態をつく。
澪は静かにとめどなく泣いた。透は澪に触れられることしかできないことが歯がゆくて仕方が無かった。
生徒会室から出るとき、瀬川は疲れた顔をしていた。それでも、ありがとう、とふたりの目を見て言った。
「苦しみが減ってしまう前に吐き出せてよかった」
「ならよかったです」
澪はあたかも自分はなにもしていませんよというようにそっけなく告げた。
「石見もありがとう」
「ん」
透もそっけなく他人事のように応えた。
「じゃあ斎宮、また来週」
「また来週」
別れ際の瀬川は目尻を赤くしながら、それでも笑顔を作ることができていた。
それが喜ばしいことであるのかどうか透にはわからなかった。
帰り道、澪と透は今日も並んで帰る。
曇天。どうも晴れやかではない天気。空気だけが色に似合わず温かさを持ち始めている。
「澪、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「瀬川、そんなにぎりぎりだったの?」
「今にも氾濫しそうだった。荒波が来る感じじゃなくて、表面張力ギリギリを重ねるみたいに静かに限界が来ている感じ」
澪が人に泣くことを勧めるのは少ない。泣くことで少しでも元々の悲しみを減らしてもらわないといけないときだけだ。そしてそういう時はいつも、澪ができる限界まで悲しみをもらい受けようとするとき。
「......綺麗だったの?瀬川の箱庭は」
「割と?」
「......ふーん」
「......でも、透のが私は一番好きだよ?」
「ふーん」
こんなことでも澪に一番好きだと言われるのが透は嬉しくて、それが虚しさを連れてくる。
雨は降りそうで降らない。じれったいほど重苦しいだけ。
そういえば、おとといはぬけたような晴れだった。瀬川の姉の結婚式があったという日。瀬川の心が限界を迎えた日。その天気は無邪気に残酷だったろう。透は瀬川のもう消えた苦しみを思った。
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