君に触れるための言い訳

池端 駿

第1話

 ―――金曜日の16時半、枕の高さに上靴をそろえた状態にして保健室のベッドで眠ると、『何か』と引き換えに苦しみが減る。




 3月初週、金曜日。

 学年末テスト直後の放課後。部活動停止期間を終え、高校生たちの勉強のストレスを発散するがごとく、運動部の掛け声も吹奏楽部の楽器の音も復活していた。


 しかし、グラウンドに面していない保健室は静かなものだった。シャーペンをさらさらと走らせる音とベッドで眠る生徒の寝息だけが聞こえる状況は、仕事をする透にとって居心地が良かった。


 擦り傷の生徒も切り傷の生徒もやってこない。養護教諭の千代田先生も変に話しかけてくるタイプではなく、窓際で音もなくパソコン作業をしているだけ。


 透は保健委員としての地道な作業を繰り返す。生徒の名前や保健室へ来た理由、対応等を、生徒自身が記入する大きな紙から、長期間保存するファイル内の小さな紙へ書き写す。


 人によっては退屈に思われる作業を透は好んで行った。普段透は友達の多い人間を演じていた。明るく陽気に見えるように、知り合いを着々と増やすように行動していた。それは昔から行っていたことであったからもはやオートで作り笑顔になれるほどではあるのだけれど、保健室での仕事中はそのスイッチも切っていられる。それが楽だった。


 仕事は着々と進んでゆく。直近の記入用紙の書き写しに突入した。今ベッドで眠る生徒の情報を読む。


 2年生。男。名前にどこかで見覚えがあった。生徒会の部活動総会資料のレイアウトが頭の中に出てきた。正確には覚えていないが運動部の部長だったように思う。


 15時55分に来室。症状は頭痛。熱や外傷は無し。昨日徹夜で試験勉強をしていたとの申告が本人からあったためひとまず寝かせる対応をとった。そこまでを書き写す。

 

 眠っているベッドがある方向を確認する。ベッド周辺が天井から伸びるカーテンで囲われているため生徒の顔は見えない。しかし、カーテンの裾は床よりも15cmほど高い位置で止まっている。その状態で見えるもの。



 2年生の学年カラーの上靴は、ベッドの枕の高さに合わせて揃えられていた。



 時計を見ると16時45分。保健室が閉まるのは部活動が終了するのと同じ17時。あと15分で保健委員としての仕事も終わる。

 透はこっそりとスマートフォンの電源を入れ、メッセージを打つ。



 『1人連れていくかも。一応用意しておいて。』


 

 入力した短文を送信しながら細く長いため息を吐く。首をゆっくりと回した後、千代田先生に追加の仕事を貰うべく席を立つ。


 高い位置で一本結びをした白衣姿の千代田先生は斜め空中を見ながらうーんと顎に指を当てる。そして5秒後に指示を下す。先生はいつだって閉室時間の3分前に終わる量の仕事をくれる。タイムマネジメント能力が学校一上手いのは彼女ではないかと透は内心思い続けている。

 

 貰った仕事は保健室の掃きそうじ。珍しい仕事だ。ぺこりと会釈をして仕事に取り掛かるべく掃除ロッカーを開けた。



 17時。校内にチャイムが響き渡る。保健室では既に部屋を閉める準備が着々と進んでいる。眠っている生徒も起こさなくてはならない。


 ベッドを隠すカーテンの中に入り、眠っている男子生徒の肩のあたりを数度叩く。


 記憶は正しかったようで、短い髪の快活そうな青年がベッドの中には居た。野球部やサッカー部にしては肌の色が白いから体育館系種目かもしれない。


 少しして彼が目を覚ます。ぼやぼやしていた目が焦点を取り戻して透の顔をはっきり見たのを確認した後、生徒の耳元で透が囁く。


「苦しみを取りたい意思があるなら、この後一緒に来てください」


 そうしてにっこりと笑いかける。イメージはチェシャ猫。あるいはトイレの花子さん。


 ここで彼が首でもかしげてくれればいいのに、と内心思いながら選択肢を提示する。うっかり噂通りの行動をしてしまっただけの悩みなんて無い人であってくれたなら。


 しかし現実は非情で、男子生徒は目を見開いた後に小さく頷いた。透は心の中で舌打ちをしながらベッドの周りのカーテンをザーっと回収する。


 片付けが終わった保健室の扉の前で先生による施錠を待つ。また来週、と透に声をかけた千代田先生は鍵を持って大職員室へ引き上げていった。


 その後ろ姿を見送ったのち透は男子生徒に声をかける。別に今後彼と仲良くなるつもりもない。笑顔の仮面もないシンプルな呼びかけ。


「じゃあ行きましょうか」


「......どこへ?」


「ひとまず上の階へ」


 そうして廊下をゆっくりと進む。男子生徒は高い背を小さくしながらも、透の斜め後ろをついてきた。


「もしなにか聞いておきたいことがあったらどうぞ」


 そっけない声で伝える。男子生徒は少しの間を置いた後、声を発した。


「噂を広めたのは、君?」


「そうです」


 外面を良くして知り合いを増やしている理由の一つがその為だった。30人の知り合いに噂話を伝えるよりも、300人の知り合いに流したほうが、校内全体に伝わる。


 一階の廊下の端にある階段に辿り着いた。手すりにつかまりながら一段一段昇ってゆく。


 男子生徒は少し逡巡した様子を見せた後、口を開く。


「......『何か』と引き換え、って何と引き換えなの?」


「わからないから『何か』なんですよ」

 

 一番聞きたかったことを聞いているらしい男子生徒に、そう返す。

 といっても、受け売りだけれども。


「今、苦しみを減らしたことによって、本来苦しむべき時に苦しまないことになります。それは『苦しみを経験した』という経験値を得られないことを意味します。それが将来どう回りまわって先輩に不利益をもたらすかわからない。


 あるいは、今苦しみを減らしたとしても将来新たに苦しみが溜まって決壊したとします。それは人生の大切なタイミングかもしれない。今の時点で苦しみが決壊してしまった方が長い目で見たときには幸せかもしれない。


 また、苦しみを減らす際に同時に誤差レベルですが他の感情も減ってしまいます。


 そういった諸々のリスクを加味しても、先輩は今の苦しみを減らしたいですか?」


 男子生徒は静かになった。口元に指を当てているのは癖だろうか。透はたいして気にすることなく階段を昇り進める。


 四階に到着した。廊下に出てまっすぐ進む。残り少しで部屋に着く。


「先輩に言い忘れていましたが、苦しみを減らせるのは一回だけです。それでも本当にやりますか?」


 最終確認。返答を待つ。ここで諦めてくれたなら。

 部屋の前に着いて足を止める。生徒会室の扉の目の前。


 「......それでも、苦しいのは、嫌です」


 男子生徒はこぼすような声で言った。

 透は諦める。そして覚悟を決める。いつだって、何度繰り返しても、ここに来るまで覚悟が決まらない。

 

 「......じゃあ、入りましょうか」



 生徒会室は部屋の電気がついていないが、扉は鍵がかかっていなかった。

 大きな机とその周りを取り囲むような椅子にあふれた部屋の中にある唯一の人影。


 澪は俯いて座って待っていた。静かな面持ちだった。


 透は男子生徒を部屋に入るように促しながら後ろ手に鍵を閉める。澪の正面に男子生徒を座らせ、透自身は澪の後ろに立つ。


 澪が顔を上げる。肩までの黒髪が動きに合わせてさらりと揺れる。

 やわらかく、されど凛とした声が空気を伝って聞こえてくる。


 「これから私はあなたの苦しみを減らそうと思います。ですがそれはあなたにとって喜ばしいことであるとは限りません。それでも本当に大丈夫ですか」


 必ず澪は彼らに同意を得る。透が事前に許可を得ていると伝えても譲らない。

 一方的な行為にでしかないから、と澪は悲しげに言っていた。


 男子生徒は、大丈夫です、と頷いた。


 「では、両手を合掌のような形に合わせてください。その上から、私があなたの手を包みます。もしも途中でやめたくなったら、私の手を振りほどいてください」 


 男子生徒はいわれた通り、胸の前で手を合わせるポーズをとった。それを挟み込むように澪も合掌のような形を作る。透はそれを見たくないと思いながら見届ける。


 生徒会室が静寂に満ちる。


 そこから10秒ほどで、状況が変わる。

 


 男子生徒の呼吸が少しずつ荒くなっていく。

 ハー、ハー、と吐き出す息が多くなり、肩が動くような激しい呼吸になっている。顔の色も赤くなっていく。


 一方、澪の呼吸が徐々にか細いものに変わっていく。

 ヒュー、ヒュー、と息を吸い過ぎるような、聞いていて苦しい音が繰り返される。顔色も暗い室内でもわかるほど青白く悪化している。


 この時間が、透は何よりも嫌いだった。


 澪は透の最愛だった。幼馴染で、気が付いた時には傍に居た。離れたいと思ったことはなかった。どうして世界は澪と透の二人だけのものではないのだろうと何度も考えた。

 

 ―――金曜日の16時半、枕の高さに上靴をそろえた状態にして保健室のベッドで眠ると、苦しみが減る。

 それはあくまでもベッドで眠った人からしてみればの話だ。

 

 澪ができるのは悲しみを減らすことではない。


 その悲しい感情を肩代わりすることだけだ。

 

 その人物の感情を減らした分、澪は苦しむ。それなのに澪は彼らの感情を肩代わりすることを止めようとしない。


 どうして世界は澪と透だけのものではないのだろう。他の人がいるから、澪が救おうとしてしまう。澪が苦しんでしまう。


 澪の口からえずくような音が聞こえる。閉じた目の端から涙が流れている。それでも澪は手を重ねたままでいる。透は無理やり澪の手を引きはがす。


 澪はようやく気が付いたように目を開いて透のことを見つめた。真っ黒な瞳は涙によってとけてしまいそうなほど潤んでいる。切りそろえられた黒髪も、さっきと比べて濡れたように黒さを増している。


 この行為をするといつも澪の髪は烏の濡れ羽色に変わる。それがなぜ起こるのか、透にも澪にもわからない。


 それでも、澪が他の人間の手を包んだ証を、心を砕いて苦しんだ痕跡を見せつけられているようで、心臓をかきむしりたい衝動に襲われる。


「澪、触って」


 透は引きはがした澪の手を繋いだまま懇願する。


 澪はコクコクと頷くと透の手を先ほどと同じように包んでくれた。澪は瞼を閉じてゆっくりと息を吐く。


 透は澪を見つめ続けながら、大丈夫、大丈夫と小さな声で言い聞かせる。


 数秒すると透の体全体にじんわりとした心地よさが広がってくる。

 疲れ切っていた時に温泉に入ったような、あるいはたっぷりの睡眠をとったときのような、緩やかで抗う気も起らない快感。


 澪の呼吸も少しずつ落ち着いてゆく。髪の色もだんだんと普段の黒髪の色に戻ってゆく。顔色も先ほどのように悪化していくことはない。


 ただ、涙だけが絶えず流れ続ける。自分の角ばった手に、やわらかで少しひんやりとした手を重ねてくれている。その澪の姿を透は何よりも美しく尊いと感じる。



 ―――透だけが、特別なの。透がいないとだめなの。ごめんね。

 

 かつて澪は泣きながら言った。


 それは澪の持つ能力と透の性質に対してのものであって、恋人になりたいだとか好きだとか、そういったニュアンスの言葉ではなかった。


 その言葉を言われた日から、透は澪に好きだと伝えることができなくなってしまった。自分がどうやって澪に触れていたのか、全く分からなくなってしまった。


 澪からの信頼を壊すこと。それが一番怖くて、愛しているのだと告げることができないでいる。


 唯一。澪が人から悲しみを引き受けた後だけは、澪は透に触れてくれる。

 優しく、神聖な姿の澪を、彼女の手に触れてもらいながら眺めていられる。


 

 歪んでいる、と思う。


 最愛の人に少しの時間だけ触れてもらうために彼女を苦しませている。


 本当に澪のことだけを考えるのならば他の人の苦しみなんて放っておいて、澪が苦しまない世界を作ったほうがいいだなんて何年も前からわかっている。


 なのに『澪が望むから』というのを言い訳にして透は苦しむ人間を澪に斡旋し続けている。


 どうして世界は澪と透の二人だけのものではないのだろう。二人だけしかいなければ、自分がこんなに醜いなんて気づかずに済んだのに。



 時間にして二分。澪は落ち着いたようで手を離した。


「透、いつも、ごめん」


 毎度毎度、澪はそう言う。そうして眉尻を下げた申し訳なさそうな顔をしながら透の方を向く。

 

「ううん、大丈夫」


 ―――俺の方が、よっぽどひどい人間だから。

 いつだって心の中でそう自嘲する。

 


 澪は男子生徒の方を向く。男子生徒はまだ興奮冷めやらぬ様子で澪のことを見つめる。


 その視線が不快だったから澪より先に口を開く。


 そんなもの、ただの嫉妬でしかないのだけれど。


「終わりましたので帰っていただいて大丈夫です。

 噂は広めてもいいですが、この場所であったり俺達の個人名などは隠しておいてください。

 鍵閉めるので先輩お先にどうぞ」


 先輩は透の声にはじかれるようにしていそいそと生徒会室を出ていった。


 透と澪はふたりでで使った椅子を片付けて部屋を出る。


 男子生徒を案内したのとは別の階段をふたりでじゃんけんをしながらゆっくりと降り進めてゆく。


 ふたりとも生徒会に属しているのでどちらが鍵を返しても良い。すべてはじゃんけん次第だ。今日はパーで負けた透が返却することに決まる。


 階段には美術部の描いたと思わしき絵の数々がタイトルと作者名と共に展示されている。中には賞を獲得したと書かれたものもあるが、この一年間絵のラインナップは変わらない。もう絵を見飽きていた澪は階段の窓の外を見る。


 まだ空の色は水色で、夕暮れはまだ遠い。冬の時期に比べて日が落ちるのが遅くなっている。マフラーを巻く日も少しずつ減っている。外に出てもきっと肌を刺すほどの冷えはない。


 まだ冬でいいのに、季節はどんどん澪を置いていく。


「お待たせ」

「待った。」

「そんなには遅くないでしょ」

「それでも待ったの」


 ふたりは軽口を言いながら玄関で靴を履き替える。


「春の足音ってどんな音だろうね」

「急にどうしたの?」

「透を待ってる間が暇だったから考えてたの」


 ふふっと笑って澪が言った。澪と透の家は一軒挟んだだけの距離にある。高校からも歩いて10分かからない。他の友人との用がない限りふたりは一緒に帰っていた。


「うーん、高めの張りの弱い弦楽器の音とかは?」

「それは春だけどなんか足音って感じがしないから却下」

「小太鼓を追加したら?」

「足音っぽくなってきたんじゃない?」


 会話しながら透は隣を歩く澪のことを見る。

 澪の顔色は回復したとはいえ万全であるとは言えない。そのことに胸の奥の罪の意識がざわめく。


 穏やかでとりとめのない会話をしながら最愛の人の隣を歩く。


 それだけでもきっと幸せなことなのだと頭では理解できていた。


 それでもどうして、彼女に触れたいと思ってしまうのだろう。

 その感情を歪んだ形で発散せずにはいられないのだろう。


 ふいに見上げてこちらを向く澪に優しく微笑む。上手くできていただろうか。

 吸い込んだ空気はまだ冬の気配を残していた。

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