そうだ、アイリスを贈ろう
「台本ここにおいて置くぞー」
「ありがとうございます」
マネージャーが置いて行った台本のページをめくり、配役表を探す。久しぶりの連続ドラマの主演。今回は、恋愛もの。誰もが目標とする枠。自然と気合いが入る。そして何よりも気になるのは、パートナーが誰になるかということ。
ページを捲り、ヒロイン役として記された名前に、思わず声が洩れた。
そこあるはずのない名前が、自分の相手役として記載されている。
オレは思わず顔を上げてマネージャーを凝視した。
「気づいたか?」
「これって」
「彼女を推したの、社長だから」
それだけ言うと、マネージャーはひらひらと手を振って、楽屋を後にした。社長の判断だと彼は言ったが、絶対に誰かの口添えがなければ社長はこんな判断を下さない。心の中で感謝の言葉を何度も呟きながら、オレはもう一度配役表に視線を戻した。
自分の名前のとなりに書かれた彼女の名前を、指で優しくなぞってみる。
かつて、この名前が自分の名前に寄り添うようにして書かれていたことがあった。その日々は遠い昔のようでいて、自分の記憶に色鮮やかに残っている。
けれども、この名前が自分の隣に書かれることは、禁忌とされてきた。社長の命令は絶対だ。オレたちの名前が隣に並ばないように、策を高じなければいけなかった。自分の心が引き裂かれたように感じた。
なのに今、オレたちの名前は並んでいる。となりに、並んでいる。寄り添っている。
この日が来ることをずっと待ち望んでいた。この未来は、オレにとって秘密の誓いだった。けれども、それが実現することはないと思っていた。
社長の顔をもう一度思い浮かべて、マネージャーの顔を思い浮かべて、そして彼女の顔を思い浮かべて、心の中で再び感謝の気持ちを述べた。
オレの名前と彼女の名前が初めて並んだのは、学園ドラマの台本だった。オレも彼女も生徒役で出演していた。二人とも、まだまだ主役とは程遠く、あくまでもただの主人公のクラスメートのでしかなかった。オレたちの名前が並んだのはただの偶然で、そこにはなんの意味もなかった。
極度な人見知りのオレと違って、彼女は誰とでもすぐに仲良くなれるタイプだった。指定された座席が近かったオレに、彼女は何度も何度も声をかけてくれた。最初はそれが面倒で、惨めにも感じていたのに、気づけばオレは完全に彼女に心を許していた。
いつの間にか、彼女はオレの仲の良い友人になっていた。連絡先も交換して、仕事以外のプライベートな日にも連絡を取り合った。大事な話もしたし、くだらない話もした。気付けば、誰かに何か伝えたいと思った時、真っ先に浮かぶのは彼女の顔になっていた。
ドラマの撮影が終わっても、毎日のように連絡を取り合っていた。だから、離れている気にはならなかった。いつも、一緒にいるような感覚だった。
次にオレたちの名前が並んだのは、映画の台本だった。少女マンガを原作とした青春もので、オレの事務所の先輩がヒロインの相手役で、主演だった。オレは先輩の弟役、そして彼女はヒロインのライバル役。
台本上では名前が並んでいるのに、劇中での絡みはほとんどなく、一緒の撮影は多くなかった。それが残念で、ひどく落胆したのを覚えている。
けれども、ある日、それも悪くないと思うようになった。むしろ、一緒の撮影がないのは、良いことだと思うようになった。彼女と一緒の撮影が、辛く感じるようになったからだ。
オレたちは役者なのだから、当たり前の話なのに、先輩ばかりを追いかける彼女に対して複雑な想いを抱き始めたのだ。
今、思い返すとあれは完全なる嫉妬だった。本当に、馬鹿げていたと思う。役者と役の境目を理解しきれていなかった。さらに愚かしいのは、当時のオレはそれが浅はかな嫉妬だと自覚していなかったことだ。そして、彼女を傷つけることになった。なぜなら、その頃から無意識に、オレは彼女からの連絡すらも避けるようになっていったからだ。
結局、オレたちは別々でクランクアップを迎えた。毎日やりとりしていたはずのチャットも、その頃にはほとんど動きがなくなった。
映画のクランクアップから少し経った頃、恋愛ものの連続ドラマの主演が決まった。オレにとっては初めての主演作だった。そして台本を開けば、彼女の名前がオレの名前のとなりに寄り添っていた。
彼女がヒロインであり、オレの相手役だった。
顔合わせの日、オレたちの間には何となく気まずい空気が漂った。胃が痛くなるほどではないものの、息がしづらい程度の独特の緊張感だ。それは部屋全体に漂っていて、現場全体にもピリリとした空気が張りつめていた。
楽屋に引っ込んだオレはマネージャーから注意を受けた。しかし彼の注意は、「主演で緊張するのも分かるけど」という、的外れなものだった。仕事ではいつも一緒にいても、意外と分からないものなんだな、なんて考えたのを覚えている。
その晩、オレは久々に彼女にメールを送った。さすがに仕事に影響が出るのはマズイと思ったから、というのは言い訳だった。
彼女が恋しかった。
彼女との毎日のやりとりが、オレにとっては日々の楽しみであり、活力だったことに、気付きはじめたのだ。
「今までごめん」
オレのシンプルなメールへの彼女の返信は、驚くほどに早かった。
「どうして?」
画面に表示された、たった四文字の返信にオレは布団の上で悶えた。
どうして、って。
これは何についての疑問なんだ?
そもそもオレは、何について謝ったんだろう?
頭のなかを様々な疑問が駆け巡って、モヤモヤして。なにも分からなくて。どうしたら良いのか、分からなくて。
考えに考えた末、オレは「忙しくて余裕がなかった」とだけ打ち込んで送信ボタンを押した。その晩、結局彼女からの返信はなかった。
嫌われたのだろうか?
彼女の返信がないからと、考えすぎて不安になって、その日の寝つきはあまり良くなかった。
彼女からの返事かないまま、初主演ドラマの撮影の初日を迎えた。早めの時間に楽屋に入って準備を始めていると、ノックの音がした。
「どうぞー」
スタッフさんかと思い、特に考えもせずにそう答えて鏡越しに誰が入ってきたのか確認する。鏡に映った彼女の姿を捉えた途端、オレは慌てて振り返った。
「なんで?」
驚きを隠せないままにそう問えば、彼女はいたずらっ子のような笑顔を見せた。
「別に私がいたって不思議じゃないでしょ? 同じ作品に出るんだから」
言いながら、それがさも自然なことかのように彼女はオレの方へと近づいてきた。
「そりゃ、まあ、そうだけど」
そう答えながら、オレはそっと、唐突に浮かび上がった手のひらの汗をジーパンに擦り付けた。そんなオレの行動など気にも留めず、彼女はいきなりオレの前に腕を突き出してきた。
「な、何?」
戸惑いながらそう尋ねると、彼女はまたいたずらっ子のように笑った。メッセージでのやりとりが多くなっていたせいか、彼女のこの表情はどこか新鮮で、どこか懐かしかった。机を並べていたあの頃が甦ったような気分だった。
「仲直りのしるし」
そう言うと彼女はオレの手に何かを握らせる。その途端、猛然と嵐のようにオレの楽屋から去っていく。声をかける隙すらなかった。
彼女の行動を不思議に思いながらも、オレはゆっくりと手を開く。そこにはいちご味の飴が二粒乗っていた。
「仲直りのしるし、か」
そう呟いてオレはそのうちの一個を口の中へと含んだ。独特の甘酸っぱさが、自分の心のなかに広がっていくのを感じた。
その日から、オレたちを取り巻いていた空気は変わった。
顔合わせの時はあれだけ気まずそうだった2人が、いざ撮影が始まると仲睦まじそうにしていること。スタッフや共演者は一様に驚いていた。仲良しの幼馴染みなように無邪気に笑い合い、クラスメートのようにお互いを茶化し合い、そして物語が進むのに合わせるようにして、オレたちはより親密になっていった。
まるで物語のキャラクターとシンクロするかのようだった。あのときの感覚は、未だに不思議で説明のしようがない、ユニークなものだった。
撮影が進むごとに、オレは自分の気持ちを理解していった。彼女に対して今まで感じてきた喜びやモヤモヤの正体を、オレは理解していった。
彼女が好きだ。
そう気付いたときには、もう後戻りできなかった。自分の思いをもう止めたくなかった。胸のうちに隠したくなかった。
初めてのキスシーンを撮影した日、オレは彼女に告白した。涙を流しながら頷いてくれた彼女に、オレはキャラクターとしてではなく一人の男として、初めて彼女に優しく口づけた。
その時のオレは、周りのことも、先のことも、なにも考えていなかった。ただ、自分の気持ちと彼女のことしか、考えていなかった。
そこからの二人の関係は順調だった。
毎日連絡を取り合い、デートを重ね、互いの仕事を理解しあい、高め合っていった。
同業者だけど、恋人。
恋人だけど、ライバル。
相乗効果で、不思議なぐらいに全てがうまく行っていた。少なくとも、オレはそう信じていた。幸せだった。……社長に呼び出されるまでは。
初めて入った社長室。そこで目の前に突き出されたのは、彼女との先日のデート写真。もしかして、という考えは過っていた。感じていた謎の視線。勘違いだと自分に思い聞かせていた。現実から目を背けようとしていた。まさか本当に撮られていたとは、思っていなかった。自分がどういう世界にいるのか、正しく理解できていなかった。驚きのあまり声が出せなかった。
「今が一番大切な時期だって、分かってるよな?」
社長の言葉に無言のまま頷いた。
「ファンの気持ちを考えたことは? 役者としてのキャリアに与える影響は? 作品や事務所に与える影響は?」
社長に言われて初めて、自分がどんな世界にいるのかを理解しはじめた。オレは、世界には自分と彼女しか存在しないかのように振る舞っていた。けれども、それは間違いだった。
自分さえ幸せでいれば良いと思っていた。自分の行動が周囲に与える影響なんて、これっぽっちも頭にはなかった。
「どうするつもりだ?」
高圧的な言葉に、ろくに考えることもせずに気付けばオレはこう口走っていた。
「別れます。……今は」
オレの言葉に社長は意外そうな顔をした。
「今は?」
「はい、今は」
顔を上げれば、社長は不敵な笑みを浮かべた。
「何年か経ったら、一緒になれるかもって? スキャンダルで仕事が吹っ飛ぶようなこともないほどのスターになって? 公私混同をやっかまれることのないほどの実力派俳優になって? ファンに恋愛すらも祝福されるほどの人気者になって?」
そう問われ、オレは力いっぱい頷いた。現実的でないことは分かっていた。けれども、それがあの時のオレの脳裏に浮かんだ唯一の希望だった。
そのまますぐに、オレは彼女のところへ向かわされた。
「別れよう」
終始唇を噛み締めて俯く彼女に、オレはそう告げるしかなかった。オレ以上に、彼女の方がスキャンダルのダメージは強く、事務所から厳しい注意を受けたらしかった。
「そうするしかないの?」
オレを見上げた彼女の瞳には涙が溜まっていた。この状況になってもなお、関係を続けたいと彼女がおってくれている。その事実がオレに力を与えた。
「ごめん。今はそうするしかないんだ」
オレの言葉とほぼ同時に彼女の瞳から雫がこぼれ落ちた。
「そんな」
「でも、未来は分からない」
彼女の言葉に無理やり自分の言葉を被せた。
「オレは、彼女が運命の人だって信じてる。だから、いつかまたチャンスが巡ってくると思うんだ」
「チャンス?」
信じられない、と訴える彼女の瞳に、オレは力強く頷いた。彼女が、オレの言葉を信じてくれるように祈った。
「お互い信じて想い合っていれば、きっとその時が来ると思うんだ。だから、今は」
そう告げれば、彼女は涙を流しながらオレの首にしがみついた。そんな彼女を優しく抱き返しながら、つむじに小さな口づけを落とした。これが、オレが彼女に会った、最後の瞬間だった。
メッセージの受信を知らせるランプが点滅した。画面を開けば、先程まで考えていた彼女の名前が浮かんでいる。
「チャンス、巡ってきたね。その時が来たって思っていいんだよね?」
自然と彼女の声で再生されるメッセージ。
自然と彼女の表情が浮かぶメッセージ。
オレの心はじんわりと温まっていく。目頭が熱い。
「モチロン」
オレのシンプルなメッセージに、彼女の返信がすぐに届く。
「待ってたの」
その言葉は、少しぼやけてオレの瞳に映った。
彼女と次に顔を合わせるのは一週間後だ。
せっかく巡ってきたチャンスだ。一刻も早く会いたい気持ちは募るが、ここは堪えて一週間待ってみよう。ここまでもう散々待ったんだ。一週間の差などあまり関係がない。
二人で、幸せになろう。
そう、彼女に直接伝えよう。会う前に、花屋にでも寄ってみようか。柄にもなく花束なんて渡したら、彼女はいったいどんな顔をするんだろうか。想像するだけで、胸が弾む。彼女にもらったいちご飴を舐めたときのような、甘酸っぱい気持ちが甦ってくる。
それから一週間、オレが彼女のことだけを考え続けたことは言うまでもない。
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