ポインセチアに託す想い

 郵便受けを開いて数日分の郵便物を取り出す。広告やダイレクトメールばかりの紙の束に、思わず盛大なため息が出る。部屋に入るなり、俺は手の中の束をリビングのテーブルに放り投げた。


 その時、一通の封筒が滑り落ちた。


 床に落ちたそれは、ダイレクトメールにしてはいやに華美で目を引いた。その薄い水色の封筒を手に取り裏返すと、見慣れた名前が飾られていた。かつて愛した女性の隣に、知らない男性の名前が寄り添っている。

 この封筒の中身を、俺は知っている。自分自身が結婚とは縁がなくても、結婚適齢期だ。友人から何通も受け取ったことがある。

 結婚式の招待状。

 そうか、彼女は共に幸せな日々を歩む人を見つけたのか。

 封筒を開きながら、自然と笑みが零れた。


 子供の頃から、音楽が好きだった。歌が好きだった。人前で歌えば、皆が笑顔で褒めてくれた。その笑顔が大好きだった。

 きっかけは、よく覚えていない。けれども、気付けば多くの人が歓声を上げる中、楽器を携えた仲間たちとスポットライトを浴びていた。


 俺はとても恵まれていたと思う。

 高校の入学式が終わってから、何の気なしに歩いていた俺の耳に飛び込んできたベースの音に心を奪われた。その音の出所が軽音部の部室だと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 歌いたい。


 突然現れた新入生の唐突な願いを、先輩は笑顔で受け入れてくれた。すぐにギターやドラムが見つかり、バンドが結成された。楽譜も読めなければ楽器の演奏もできず、ただ歌うことしかできなかった俺だったが、後輩ができる頃には、初見の楽譜もすぐさまギターで弾き語れるほどまでに成長した。


 高校を卒業する年、学園祭で演奏する俺らをスカウトが目を付けた。あれよあれよとことが進み、覚悟もないままに俺は、スポットライトの世界の住人となった。


 決して順風満帆だったわけではない。慣れない生活、自分の人生を自分で思うようにすることのできないもどかしさに苦しんだ。辛いことも、投げ出したくなることも数えきれないほどだった。


 どうして俺はここにいるんだろう。


 そんな疑問が何度も頭に浮かんだ。自分がこの世界に存在する理由が、ちっとも理解できていなかった。


 目標も何もないまま、ただ目の前に差し出された仕事をこなしていく日々。笑いたくもないのにカメラの前で笑顔を作り、好みでもない服を着て、音楽と関係ない仕事にも応じた。

 消耗していく心に灯りを点してくれたのは、仲間とファンの存在だった。俺たちの音楽を楽しんでくれる人々のためにも、踏ん張ろうと思えた。

 気付けば、バンドとファンはまさにチームになっていた。チームとして同じ目標や夢の景色を描き、そこを目指して真っすぐと歩み始めた。


 彼女と出会ったのは、それぐらいの時期だった。きっかけは、高校時代の友人の開いた飲み会。バンドマンという肩書きには似合わない、ごくごく一般的で地味な出会いだったと思う。

 なんとなく隣にいると居心地が良くて、連絡先を交換して。連絡を取りながら親交を深めていって、話す度に心が躍り、会う度に彼女を好きになっていった。出会ってから2か月ほどたった時に俺は彼女に告白をし、交際が始まった。


 スポットライトに照らされない、一人のただの男としての自分の日々が、鮮やかに色づいていくのを感じた。確かな幸福感を噛み締めていた。

 何か楽しいことや面白いことが起きた時、それを無条件に共有できる存在は、大きかった。仲間には見せたくない弱みをも、見せられる存在だった。


 仲間と立てた目標にも少しずつ手が届きそうになり、毎日が順調に思えた頃、仲間の一人が会社の偉い人たちに呼び出された。

 一体何事かと、楽屋に残った仲間たちで額を突き合わせた。不意に、仲間の一人が「そういえば」と口を開いた。


「アイツ、この間彼女とデートしてた時、写真撮られたかもしれない、って言ってた。もしかしてそれかな?」


 仲間の言葉に、その場の全員が唾をゴクリと飲み込んだ。

 俺らはアイドルではないし、厳密に恋愛が禁止されているわけでもない。しかし、当時の会社の売り出し方の方針の影響もあってか、ファン層の多くが異性を占めていた。そのためか、俺らの恋愛事情を表沙汰にする事はタブー視されていた。


 俺らが見ようとしている景色にたどり着くには、ファンが必要だった。ファンのみんなと共に見たい景色だったのだから。


 裏切りたくない。諦めたくない。

 絶対に、たどり着きたい。


 心に浮かんだ、その明確な言葉に自分自身で驚いた。いかに自分にとってこの目標が、夢が、仲間が、そして皆と共に思い描いた景色が大切なものなのかに気付かされた。

 このスポットライトの世界に存在する意味を探していた頃の自分は、もういなかった。


 仲間が呼び出されてから数十分後、スタッフに呼ばれて全員で会議室に向かった。先に呼び出されていた仲間が、お偉いさん方の正面に一人で座らされていた。ズボンを握りしめた彼は、頑なに俺らとは目を合わせようとしなかった。

 残った仲間同士で様子を探り合うように目配せをする。全員が、不安だった。俺は覚悟を決めると、彼の左隣に腰かけた。仲間たちも俺に続く。

 俺はそっと、仲間の肩に手を置いて、ぎゅっと力を込めた。側についていることを伝えたかったのか、仲間がいることの責任の重みを思い知らせたかったのか、俺にはいまだにその行動の真意が定かではない。


「今朝方、出版社からこれが届きました」


 そう言って俺たちの前に差し出されたのは、右隣にすわる仲間が同じぐらいの年頃の女性と手をつないで歩いている写真だった。何の変哲もない、ただただ微笑ましい光景だ。にもかかわらず、見出しには週刊誌独特の言い回しが使われている。まるで異性との交際が罪であるかのような言葉に、胸がキリリと痛んだ。


「これ、載っちゃうんですか?」


 震える疑問の声に、役員の一人がため息をつきながら首を振った。


「今回は、記事にしないで頂くことになりました」


 俺たちは一斉に安堵のため息をつきつつも、その言葉の背景に隠された圧力を感じ取った。自分達の肩にのしかかった重圧を、まざまざと実感する。


「ごめん」


 部屋を出てすぐ、仲間の小さな謝罪の言葉が、無機質な廊下に響き渡った。

 気にするなよ、なんて誰も言わなかった。

 言えなかった。

 全員が思った、今回はアイツだったけど、いつ自分が対象になるかわからないのだ、と。自分たちが一体どんな世界にいるのかを、改めて思い知った。


 ただただ音楽が好きなだけの、何も知らなかった青年だった俺たちが、がむしゃらに大人の真似事をする時は終わったのだ。


 たった一度の異性とのデートが、命取りになる可能性がある。そんな考えが俺らの頭のなかを漂っていることに、全員が気付いていた。全員が、自分の過去と現在、そして未来を見つめ直そうとしていた。


 その日の俺らは、珍しく口数が少なかった。




 仕事が終わってから、以前から約束していた通りに、俺は彼女の家に向かった。数ヵ月前にもらった合鍵を使って玄関の扉を開ければ、キッチンから良い匂いが漂ってくる。


「お仕事、お疲れ様」


 いつもなら嬉しい彼女の言葉に、俺は曖昧な笑顔を返した。


 この光景が日常になる未来を、想像したことがないわけではない。むしろ、そんな未来が来ることを漠然と望んでいた。彼女との家庭を、なんとなく思い描いていた。当たり前のように、それでいてなんとも曖昧な未来予想図だった。


 俺の様子がいつもと違うことに、勘が鋭い彼女は気付いていただろう。少し寂しそうな彼女の笑顔に、俺はこの後の会話を想像して胸を痛めた。


 夕食を食べ終え、食器の後片付けを済ましてから、二人で並んでソファに並んで座った。ふわりと空を漂う会話が、いつもは心地よかった。けれども、今日の会話は重力に打ち勝てずに落ちていくのだろう。

 俺は、大きく息を吸った。


「今日さ、事務所の人に呼び出されたんだ」


 乾いた口からやっとの思いで、声を出した。


「なんかさ、仲間の一人が週刊誌に彼女と一緒のところ、撮られちゃって」


 なんてことのないように話すものの、声が上ずる。俺には俳優の仕事なんて、永遠に来ないだろうな、なんて場違いな考えが頭に浮かんだ。


「そうなんだ」


 答えながら、彼女はそっと俺の肩に自分の頭を預ける。


「記事にはならないことになったんだけどさ、気をつけろって、釘刺された」

「……そっか」


 短い沈黙が流れた。肩に乗った彼女の頭の重みを、肩ではなく心臓で感じた。


「もしかしたら、もうアイツらとは一緒にいられないのかもしれないと思ったらさ、なんかすごい嫌だなって感じて」

「……うん」

「もう、目指していた景色にはたどり着けないんじゃないかと思ったら、めちゃくちゃ嫌だなって」

「そう」

「裏切りたくないって……思った」

「そっか」


 想像していたよりも冷静な彼女の言動に、にわかに不安が募る。


「俺さ、この世界に執着する気持ちなんて、ないと思ってた。だけど、やっぱりどうしてもアイツらと一緒に、ファンのみんなに見せたい景色がある、絶対にたどり着きたい」


「……そんなこと、知ってたよ。知ってるよ。ずっと前から、知ってるよ」


 話しながら、だんだんと熱が籠る彼女の声に、俺の心も震える。彼女の頭は頑として俺の肩からは離れない。なにかを我慢するように小刻みに揺れる振動だけが伝わってきて、涙をこらえていることを察した。


「俺、覚悟決めようと思うんだ。だからさ」

「別にいいじゃない、このままでも」


 彼女は珍しく俺の言葉を遮った。


「別にいいじゃない。記者の人には見つからないようにして、外出も控えて、そうすればばれないよ」


 そう呟く彼女の声は心なしか震えていた。ああ、きっと、涙を流しているんだな。そう思っても、俺は彼女の頭を撫でることができない。安心させるように、肩を擦ることもできない。

 俺にはなにも、できなかった。


「ね? それでいいでしょ?」


 ギュ、と縋るように彼女は俺の手を握りしめる。その手を握り返したい衝動を必死に抑えて、俺はそっと彼女の手を俺のそれから引き剥がした。


「脇目も降らず、仕事だけに集中してみたい。腹括って。そうじゃないと、たどり着けないと思うんだ」


 だから、そう続けようとした瞬間、彼女の頭が乗っていた肩がふっと軽くなった。


「じゃあ、待ってる。私、待ってるから。ね?」


 彼女の提案に俺は首を振る。


「何で? 何でダメなの?」


 納得できない、と珍しく声を荒げる彼女の瞳をじっと見つめた。


「俺の自慢の彼女は、すごく素敵な女性だっていつも思ってた。俺が今まで出会った中で、一番素敵な女性。だからこそ、幸せになって欲しいんだ」

「私、幸せだよ? あなたと一緒で、幸せ。あなたがいるだけで」

「でも俺はお前を幸せにできない」


 彼女の言葉を遮ると、彼女はいやいやをするみたいに首を左右に振った。


「俺には、恋人よりもこの世界が、仕事が、仲間が大事なんだ。だから、悪いけど幸せにはできない」

「そんなの、」

「縛りたくないんだ。未来がどうなるかなんて、全く分からない。だからこそ、お前には絶対に幸せになってもらいたい。だから、」


 そこまで言って、彼女の唇によって俺の言葉は遮られた。これが最後になることを、俺たちは十分過ぎるくらい理解していた。


 最後の夜を共に過ごした次の朝、俺は彼女が寝ている間にそっと部屋を後にした。




 カリグラフィーのキレイな封筒を見つめながら、過去の日々が俺の脳内に、そして心に蘇ってきた。あの頃、仲間と見たいと思っていた景色には、まだたどり着けていない。けれども着実に、そこに向かって俺たちは歩みを続けている。


 恋人は……あれ以来作っていない。

 彼女の幸せを、心の隅でずっと願っていた。そして今、彼女は幸せを掴み取ったのだ。それこそが、俺にとっての幸せでもあった。


 結婚式には、絶対に参加しよう。参加したい。

 

 スーツ、クリーニングに出さないといけないかな、なんて思いながら、クローゼットの扉を開ける。

 式の前には、花屋に寄ろう。昔の恋人に結婚式で花を渡せるぐらいの男には成長したつもりだ。だから、彼女の幸せを祝福するための、花を買おう。

 俺の想いを込めた花を。

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