花物語
佐竹りふれ
そして僕はダリアを飾る
テレビ局の廊下を歩きながら偶然目に留まったのは、とある楽屋の扉の横に記された、見慣れた名前だった。彼女のことを一瞬たりとも忘れなかった日々があったことを思い出す。毎日のように彼女の名前を唇に乗せ、愛おしんだ日々があったことを。
今となっては遥か遠くの記憶だ。
そんな日々があったことなど、にわかに信じがたいほどに。
いったいどれだけの月日が流れたのだろうか。彼女とはもう何年も言葉を交わしていない。あの日を境に、僕らは別々に道を歩み始めた。
女優という職業柄、彼女の近況はこちらが求めずとも自然と耳に入る。彼女が今、僕なんかよりも何倍も素敵な男性と幸せな日々を送っていることは、周知の事実だ。
こんな風に昔の恋人の話を否が応でも知ることになるのは、この世界独特な現象かもしれない。それが良いことなのかどうか、僕にはまだ判別がつかない。だか、もう何十年もこの世界に身を置いている僕にとっては、これが当たり前の現実だった。
思考が過去に戻ると、同時に心も過去に戻っていく時がある。今がまさに、その瞬間だった。
気づけば僕は、自身の楽屋に戻るとマネージャーの手帳に挟まれた小さなメモ用紙をこっそり抜き出すと、その上に言葉を紡いでいた。そのまま何気ない風を装い、僕は再び彼女の楽屋扉に向かうと、その隙間からそっと、メモ用紙を差し込んだ。
それは、当時の僕たちだけの内緒のやり取りの再現だった。
屋上のちょうど死角になる場所で、一人風にあたって彼女を待つ。何か、明確な約束をしたわけではない。けれども、不思議と彼女がやってくることを僕は確信していた。
地上を見下ろしていると、すっと背後から風が吹いた。その瞬間、懐かしい香りが僕の鼻腔をくすぐった。人間の記憶とは、不思議なものだ。もう何年も嗅いでいないというのに、こんな香りひとつで当時の記憶が鮮明に思い出されるなんて。
「いきなりこんなところに呼びつけるなんて、一体何なの?」
背後から聞こえる明らかな怒りを湛えた彼女の言葉に、何故だか小さく笑顔が溢れた。
「私が来るかどうかだって、分かんないのに。バッカじゃないの?」
ストレートに僕をバカと呼ぶ彼女の変わらないところが、僕の心をくすぐった。ああ、あの頃の僕は彼女のこういうところに惹かれたのだ、と当時をまざまざと思い出す。
「何だかんだ文句言いながらも絶対に来てくれるって、分かっていたから」
ゆっくりと振り向きながら放った僕の言葉に、彼女は自嘲的な笑い声を漏らした。
「私ってさ、昔からダメな女だよね、アンタのことになると」
悔しげに唇を噛み締める姿に、罪悪感が胃の辺りを締め付ける。
「君はずっと良い女だよ。今でもね」
久しぶりに直接対面した彼女は当時の美しさを十分以上に保っていて、思わず本音が漏れた。
ダメだったのは君じゃない。僕がダメな男だったんだよ。君を大切にできずに傷つけたのは僕だったのだから。
心のなかではスラスラと出てくる言葉は、喉仏の辺りでつかえて出てこない。
「何それ。……ああ、私は都合の良い女ってこと?」
言いながら僕の隣に並んだ彼女は、優しい力で僕の肩を叩いた。
「いや、相変わらず綺麗だな、と思ってさ。人のものだから、よりそう感じるのかな?」
顔色を変えずに茶化すように言うと、今度は全力で背中をはたかれた。この歳になると痣の治りは遅いんだぞ、と思いつつも声に出すことはしなかった。僕が彼女に与えてしまった苦しみなんて、こんな痣とは比べ物にならなかったはずだ。だから、この程度のことで文句など、到底言えるはずがない。
「で、何の用事?」
呆れたような彼女の言葉に、僕は小首を傾げた。無言でしばらく見つめ合いながら、じわじわと彼女の大きくて丸い瞳に驚きと呆れの色が広がっていく。
「まさか、用事もないのに私を呼び出したの?」
盛大なため息と共に発せられた声に、僕は小さく頷いた。信じられない、と彼女は小声で漏らすも、それ以上何も言ってこなかった。
あの頃と同じだ。
文句を言いたげなのに、ただ唇を尖らせて何も言わない。彼女のそんな姿を一体何度目にしたことだろうか。何も言わずにギュッと部屋着の裾をぎゅっと握りしめて、ソファの隅に丸まる。
当時の僕は、そんな彼女にいじらしいだの、いとおしいだのといった類いの感情を抱くことなく、ただただ面倒くさいと思っていた。不満があるなら、それを言えばいいだけなのに、と。棚の上には、僕が作り上げた「彼女の抱える不満の原因」が所狭しと並べられていたにもかかわらず。
「……いま、幸せか?」
気まずい沈黙を埋めるように、僕は問いかけた。そんな僕を彼女はギロリ、と睨みつける。不思議と、この表情を怖いと思ったことは今まで一度もなかった。
「何? 嫌味?」
あからさまに敵意を剥き出しにする彼女との間に、手を伸ばして空間を作ったのは恐らく本能的な行動だ。
「本心だよ。ただ少し、気になったからさ」
苦笑いしながら言葉を付け足せば、盛大なため息をついて、彼女は僕から視線を逸らした。
彼女は、表情や態度に感情が出やすい種類の人間だ。何を考えているのか、大抵は見ているだけで手に取るようにして分かる。けれども、数えられるだけのほんの数回、彼女の思考を全く読み取れないことがあった。そんな数回に出くわすのは、僕のリビングルームで共に過ごした最後の晩以来だ。
「アンタにだけは訊かれたくなかった」
しばらくして彼女がぽつりと呟いた言葉は、風で舞う彼女の長く美しい髪と絡まり、空で踊った。
「幸せに、なるはずだったよ。幸せな家庭を、築くはずだった」
何かを堪えるように、雲をじっと見つめながら絞り出した彼女の言葉は、弱々しく宙を漂う。
「どうして過去形なんだよ?」
耳に入る彼女にまつわるうわさ話の中に、夫婦仲が上手くいっていないという話は入っていたためしがない。だからこそ彼女の「幸せだ」という答えを聞きたくての質問だったのに。想像していなかった彼女の答えに、僕はどう反応したら良いのか分からずただ彼女を見つめ返すことしかできなかった。
「私、子供が欲しかった。大好きな人と、自分の子供が欲しかった。自分の子供を、産みたかったの。母親になりたかったの」
それを一番分かっているのは、アンタでしょ? と言外に言われた気がした。腹部を唐突に殴られたような気分だった。
僕が叶えてあげられなかった、彼女の望み。
彼女は準備ができていたのに。
彼女は覚悟ができていたのに。
僕には準備も、覚悟も、何もできていなかった。
できる気がしなかった。彼女を何年待たせたとしても、僕の心は変わらなかっただろう。事実、僕は未だに「父親になる」なんて言葉に現実味を感じられないでいる。
「まだこれからなんじゃない?」
努めて明るい声を出す。直視したくない何かから、目を逸らすように。
「……きっと、もう無理なんだよ」
風に揺れる髪を抑えながら、彼女は言った。空を見つめる瞳は、珍しく虚ろだ。
「ギリギリセーフかな、って思っていたんだけどさ、もうタイムリミット過ぎてたのかも。アンタと一緒にいる間に、時間を使い果たしちゃったのかな」
責めるような口調ではなかった。むしろ、冗談のような軽い口調だった。けれども、彼女の言葉はぐさりと僕の心に突き刺さった。
10年は、長い。
ようやく子供時代を抜け出したばかりの頃に出会った僕らは、大人でいることを、共に学んでいったようなものだった。自分がどういう人間で、何を求めているのか、見つめる時間を共に過ごした。自分の言動の責任というものを、共に知った。
人生におけるその年頃の10年は、永遠に思われるほどに長かった。
周囲は当たり前のように、僕らは結婚すると思っていた。家族も友人も、仕事の関係者も、そう思っていた。まるで当たり前のことのように。
そして、彼女もそう思っていた。
そう思っていなかったのは、もしかしたら世界で僕だけだったのかもしれない。
僕は一度だって、彼女と結婚するとは思ったことがなかった。
無責任だと言われても、否定できない。残酷だと思われるかもしれない。けれども、僕は一度たりとも、自分が自分以外の誰かの人生の責任を背負える人間だとは、思えなかったのだ。たとえそれが、10年を共に過ごした恋人であったとしても。
何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を泣かせた。それでも彼女は僕についてきてくれていた。辛い時期には支えてくれた。行く先に迷ったときには、一緒に悩んでくれた。いつだって、隣にいてくれた。
でも、自分はどうだっただろうか。彼女がくれたあ愛情に値するだけの何かを返せていただろうか。答えは、分かりきっている。
彼女と過ごした10年は僕にとってかけがえのない、大切な時間だった。
しかし、僕と過ごした10年は彼女にとっていまだに足枷になっているのか。罪悪感が胸にぐっと沸き上がる。
「ごめん」
安っぽい言葉だったが、それが唯一思い浮かんだ言葉だった。
「ごめんって、今さら」
「ごめん」
彼女に向かって、僕は静かに頭を下げた。彼女からは何の反応も返ってこない。
ゆっくり頭を上げると、彼女は僕に背を向けていた。微かにだが、肩が震えているのが分かった。
ああ、僕はまた彼女を泣かせてしまったのか。
僕は心の奥で自分の至らなさを呪った。
「僕は、この先も結婚することはないと思う」
彼女の背中に向かって、誰にも明かしたことのない本音を、僕は呟いた。スッと吹き抜けた風に、唐突に自分がひどく公に曝けだされているような感覚を覚えて、居心地が悪い。
「何言ってんの」
強がりな彼女の返答は、心なしか鼻声だ。
「君とだって結婚したいと思えなかったのに、君以上に大切に想える女性に出会える気がしないんだよ」
長い間、一人で抱えていた漠然とした思いを、初めて言葉にして舌に乗せてみると、度数の強い酒を口に含んだ時のように、口内が一瞬痺れるような感覚に襲われた。
彼女はまるで自分の体を守ろうとしているみたいに、自身の肩に腕を回した。
「何それ。そんなこと言っといてさ、いきなり若い女の子とかと結婚しちゃって、それで子供とか生まれちゃうのよ」
彼女の言葉の隙間に、鼻をすする音が聞こえた。絶対に泣き顔は見せたくない、という彼女の強い意思が伝わってくる。
そりゃあ、そうだよな、と納得する。彼女の涙を拭うのは、もう僕の役割ではないのだから。
「男っていいよね。タイムリミット、ないんだもん。持とうと思えば、いつだって家族を持てるもんね。年齢制限のことを考えなくていいなんて、ホント、ズルいよね」
怒りを含んだ彼女の言葉に、僕は首を縦に振るしかなかった。これまでの自分を思い返してみても、家族を持つことにタイムリミットがあるだなんて、一度だって考えたことはなかった。将来的な結婚を否定した今だって、心のどこかで漠然と、ひょっとしたらいつか、なんて考えてしまっているのだから。
「……そうだな」
呟きながら、そっと空を見上げた。目の前に広がるのは、憎いぐらいに青い。
「ズルくて、自分勝手で、女の気持ちなんて全然考えていなくて。恋愛の大概は男のせいでうまくいかないんだから」
随分と主語を大きくしたものだ、と思いながらもその「男」が指すのは自分だろうとわかっている分、否定はできない。
「……うん」
素直に彼女に同調すれば、呆れたようなため息が彼女の口から洩れた。
「うん、って、認めてどうするのよ、バカねー」
怒っているような、笑っているような、泣いているような、様々な感情が入り交じった声で彼女は言った。彼女は僕に背中を向けたまま、そっと涙をぬぐったように見えた。そんなことしなくても、時間と共に風が涙を乾かしてくれるだろうに。
心のなかでひとりごちながら、絶対に口には出せないな、と思った。もう少し、ここで一緒にいて欲しいと言うようなものだから。今、彼女と過ごすこの刹那を、自分が心地よいと思っていることが、彼女にばれてしまうから。
「ホントにアンタって人は」
そこまで言った途端、彼女は大きく息を吸い込む。そのまま、クルリ、とこちらに体を向けた。
涙はすでに乾いているものの、泣いたためか顔は赤らみ、目元と鼻も赤い。女優がそんな顔でどうすんだよ、と言いたくなる。原因は自分にあるくせに。どこまでも自己本位な自分に、乾いた笑いが洩れそうになる。
「癪だから、絶対幸せになってやるわ。絶対に、自分が欲しかったものを手に入れてやる」
普段よりも大きな声の決意宣言に、僕は目を丸くした。相変わらずの彼女の突飛な言動には、驚かされる。
本当に君は……。
「何だよ、その急な宣言は」
腕を組み、冷静を装いながら僕は問いかける。
「別に良いじゃない、急な呼び出しに、急な宣言」
ね? と首をかしげられ、僕はもはや破顔するしかなかった。彼女は、自分が他人に与える影響について、どれ程わかっているのだろうか。昔の彼女ならまだしも、今の彼女は十二分に熟知しているに違いない。
変わらないようでいて、確実な変化がそこにあった。彼女は僕なんかよりもずっと先を歩いていて、大人で、強いんだと、まざまざと感じさせられた。
「……そうだな」
僕の口からこぼれた言葉は、すぐに風にさらわれてそのまま空に消えていった。
「じゃあ、私もう戻るから」
まるで何事もなかったかのようにそう言うなり、彼女はそそくさと扉の方へと足を進めた。相変わらずの切り替えの早さに驚きつつも、彼女にとってはそんなものか、と自分を納得させた。
「ありがとう」
彼女が背を向けたのをいいことに、僕は素直な気持ちをぶつけた。もっと前に言うべきだった言葉だ。何年も前に、言うべきだった言葉。自分自身、このタイミングでこの言葉が口をついて出たことに驚いた。
案の定彼女は驚いたように立ち止まったが、こちらに顔を向けることはしなかった。背を向けたまま、彼女は再び歩みを進めた。後ろ手に、ひらりと小さく手を振りながら。
今日急な呼び出しにきてくれて、ありがとう。
あの頃いつも支えてくれて、ありがとう。
わがままに付き合ってくれて、ありがとう。
それからしばらくして僕も屋上を後にした。
数週間後、彼女が妊娠したというしらせがニュースで一斉に報道された。幸せそうに喜びを報告する彼女を見ながら、ありがとう、ともう一度心の中で復唱する。
幸せになってくれて、ありがとう。
不思議と、何かから解き放たれたかのように僕の肩は軽くなった。今日は気晴らしに散歩がてら、花屋にでも行ってみようか。
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