ジャスミンの花束を

『若手実力派ダンサー、緊急入院!』

『撮影中の事故で複雑骨折?』

『まさかの引退か!?』

『今日の夕方、マネージャー緊急会見!』

 

 新聞やインターネット、ワイドショーで飛び交うある話題を、私は必死に追いかけた。緊急会見生中継と表示されたテレビ画面を、リビングのソファに座って必死で見つめる。会見が始まるのを待ちながら、何かを祈るように手を組んだ。

 マネージャーが会場に入ると無数のフラッシュがたかれる。彼が頭を下げるのに合わせて、なぜか私も頭を下げてしまった。

 

「現在報道されている、わたくしの担当タレントの件について、現時点で把握できている情報をお伝えいたします」

 

 彼の言葉に合わせて、私はおもむろに目の前におかれたリモコンを手に取り、音量を上げた。

 

「昨日、音楽番組のリハーサルにて他のダンサーと接触したことによって階段から落下し、足を複雑骨折しました。すぐに病院に搬送、手術を受けて現在は入院中です」

 

 その言葉の先、はあまり覚えていない。


 彼が足を折った。

 その事実をうまく飲み込むことができなかった。


 いきなり、スマートフォンが振動し始める。驚いて画面を覗き込めば、テレビに出ているはずの彼のマネージャーの名前が表示されていた。おかしいな、と思いテレビに視線を移せば、もう会見はとっくに終わっていて、全く別のニュースをやっていた。

 通話ボタンを押して恐る恐るそれを耳に当てれば、先ほどまでテレビの電波に乗っていた声が、もしもし、と呟いた。

 

「もしもし。さっきニュース、見ました。彼、大丈夫ですか?」

「んー、手術はうまくいったんだけどね」

 

 マネージャーの濁したような口調が、私の胸に妙に引っ掛かった。

 

「僕がこんなこと言える立場じゃないんだけど、アイツに会いに来てくれないかな?」

「え?」


 予想していなかった言葉に、私はただただ驚くことしかできなかった。

 

「君しか、いないんだよ」


 そう言って告げられた住所を、私は無意識に書き留めた。


 彼は私の昔の恋人だった。

 高校生の時に偶然知り合った私たちは、それからほどなくして付き合いだした。


「高校を卒業する前に自分の実力を試してみたいんだ」

 

 そう言って彼はダンスの全国大会に出場した。そこで見事に優勝してしまったのだから、大したものだ。確かに、それまでも彼のダンスをすごいとは思っていた。素人の私でも分かるぐらい、周囲を圧倒していると思っていた。けれども、まさか全国大会で優勝してしまうレベルまでとは、思っていなかった。彼の輝かしい結果に、私はただただ驚いた。

 最初の頃は、手放しに彼を応援していた。でも彼の実力が証明されればされるほど、彼の立つ舞台が大きくなればなるほど、彼が有名になればなるほど、遠い存在になるような気がした。

 単純に、恐かった。

 彼は、私の手の届かない存在になってしまうんじゃないか。そう考えたら、彼を応援することを苦痛に感じ始めた。そして、ついには彼のことを純粋には応援できなくなってしまった。

 

 私の心のうちなど知らず、彼の人気は衰えるどころか、ファンの数が増えていく一方だった。彼のルックス目当ての、若くてかわいい女の子のファンも多かった。

 私は嫉妬した。それを彼にぶつけると、彼も言い返してきて、しょっちゅう喧嘩になった。仲直りしてもすぐにまた新たな喧嘩が始まって、二人の間でずっと何かが無駄に消耗されていた。

 

 そして、ある日の喧嘩で、私たちの関係は完全に壊れてしまった。

 

 喧嘩の始まりは覚えていない。ただ終わりははっきりと覚えている。

 

「そんなに私以外の女にモテることが大事なわけ?」

 

 私はそう叫んだ。すると彼もこう叫び返したのだ。

 

「当たり前だろ!」

 

その言葉に私の勢いは完全に止まってしまった。

 

「え?」


 戸惑う私になどお構いなしに、彼は続けた。

 

「今ついているファンを手放すわけにはいかない」

「私より、ファンが大切ってこと?」

「……」


 無言でうつむく彼を、私は信じられないと見つめるしかなかった。

 

「何それ。まるで、アイドルみたい」


 私が鼻で笑えば、彼はようやく顔を上げた。まるで父親に叱られたみたいな表情の彼を、私はしかめっ面で見つめ返した。

 

「今が大事な時期なんだ。マネージャーにも言われたんだよ、ファンを減らさないためにも、集中できないんなら、」

 

 そこまで言って彼は口を閉じた。言うはずじゃなかった言葉を言ってしまった。彼の顔にそう書かれているのが、ありありと分かった。

 

「何て言われたの?」

 

 半ば脅すように私は尋ねた。再びうつむいてしまう彼に苛つきながら、私は再度訊ねた。


「何て言われたのよ?」


 私の剣幕に押されたのか、やがて彼はポツリ、と答えた。

 

「俺たち、別れた方が良いんじゃないかって」


 絞り出された言葉が耳に届いた瞬間、急に何もかもがどうでも良くなってしまった。なんだか、身体から力が抜けてしまった。戦う気力が、なくなってしまった。

 

「なら、そうしましょう」


 静かに、私はつぶやいた。

 

「……は?」

「もうあなたにはついていけない」

 

 そう告げて、私は彼の人生から立ち去った。

 

 それが正解だったのかどうかは、分からない。

 ただそれ以降、彼からの連絡は一切なかった。静かになったスマートフォンを見つめる度、本当に終わってしまったんだと、少しずつ実感した。

 

 しばらくは何もする気が起きなくて、空虚な日々だった。でもそれじゃダメだと思い立って、彼のいない生活に慣れようとした。他の男の人と付き合ったりもした。誰ともうまくいかなかった。私の今までの生活がどれだけ彼と共にあったのかを、ただ思い知らされるだけだった。

 

 一年ほど前、彼の出演するライブを観に行った。そして気づいた。私はまだ彼が好きなんだ、と。

 彼の踊っている姿を見て、思わず涙がこぼれてしまった。遠くのステージで汗を流す彼が、ただただまぶしかった。

 

 それからの私は、陰ながら彼を応援することにした。ファンとして。彼は、私の推しになった。

 そこに苦しさがあるか、と問われたら、私は頷かざるを得ない。だって、彼を応援すればするほど、彼は遠い、手の届かない存在になってしまったことを実感するから。

 でもそれ以上に、彼を応援したい、という気持ちが勝った。

 どうして彼と付き合っていた頃はそう思えなかったのだろう。たまにそう、自分に問いかけても答えは出ない。

 そして今日、報道で彼のけがを知ったのだ。



 もう別れてから4年も経っている。それなのに、なぜ私が呼ばれたんだろう? もう彼は前に進んでいて、私じゃない新たな特別な人がいたっておかしくないのに。そう思う反面、心の奥底では期待してしまっている自分がいる。こんな風に期待して、のこのこと教えられた病室に行く私はバカ以外の何者でもない。

 ドラムのようになり続ける胸の鼓動を抑えようと深呼吸をしてからそっと、病室の扉を叩く。

 中から返事は一切ない。

 ゆっくりと扉を引いてそっと中の様子を覗う。予想通り、個室だ。

 そっと、室内に足を踏み入れると彼もゆっくりとこちらに顔を向けた。

 瞬間が止まった。

 目が合った刹那、私たちの間に流れる時間が止まった。

 

「何で」

 

 かろうじて動いた彼の口から、そんな呟きがこぼれ落ちた。

 

「マネージャーさんから、連絡もらって」


 思ったよりも冷静に言葉が出てきた自分に、自分で驚く。

 

「具合、どう?」


 そう言って一歩、ベッドに近寄った途端、私の顔めがけて彼が枕を投げつけた。見事に私の顔面に命中した枕がそこまま床に落ちていく音が、呆然と立ち尽くす私の耳に届いた。

 状況が飲み込みきれていない私は、静かに彼の抜群の運動神経を呪った。

 

「お前、連絡もらったからって、こんなところにのこのこ来るんじゃねえよ!」

 

 彼の叫び声に、自分の顔がカーッと赤くなるのを感じた。

 恥ずかしい。

 彼の怒鳴り声に私は一気に現実に引き戻された。何が一番恥ずかしいって、彼の言葉はこの病室に入るまで私が考えていたことと同じなのに、実際にそれを言葉としてぶつけられて驚いていることだ。結局何だかんだいって、私ってば期待しかしていなかったんじゃない。

 

「昔の男のところになんか来るんじゃねえ!」

 

 私は一体、何をしにここに来たんだろう?

 怒りに震える彼を見つめながら、私は自問自答する。

 心配だったから?

 顔を見たかったから?

 よりを戻せると思ったから?

 私は一体何を思ってここに来た?

 

「ごめん」

 

 それだけ呟いて、私は足早に病室を後にした。

 

 病院の廊下を高速で歩いていると、目の端に見覚えのある顔がちらついた。彼のマネージャーさんだ。

 

「来てくれたんだね」

 

 私に気付いたマネージャーさんは、ぎこちない笑顔を作った。

 

「ごめんね、急に連絡なんかして」

 

 待合室で私の前に温かい紅茶を置きながら、マネージャーさんは言った。

 

「いえ。のこのここんなところまで来たのは、私なんで」

「アイツ、荒れてただろ」

「……枕、投げつけられました」

 

私の言葉に、マネージャーさんは再度ごめん、と謝罪する。

 

「何で、私だったんですか?」

 

 少しの沈黙の後、そう尋ねれば、マネージャーさんは微妙な顔で頭の後ろを掻き始めた。

 

「いや、うーん、これ言ったら怒られるかもしれないけどさ、アイツ、まだ君のこと吹っ切れてないんだよ」

 

 マネージャーさんの言葉に私は驚きで目を見開いた。


「だって、もう4年も」

「時間は関係ないよ」

 

「でも、別れてから一度だって連絡」

「それは僕が謝らなきゃいけない。忘れろって、アイツに散々言っていたから。連絡なんか取ったら絶対心持って行かれるぞって」

 

「じゃあなんで今回」

「もう踊れないかもしれない」

 

 マネージャーさんの真剣な表情に私は思わず息をのんだ。

 もう踊れない?

 彼が?

 彼からダンスを取り上げるってこと?


 私の心臓はドクン、と嫌な音を立てる。

 彼からダンスを取り上げるなんて、それじゃあまるで、水のない水槽で泳ぐ魚じゃない。

 

「かなりひどいケガだったんだ。手術はうまくいったから退院もすぐにできるし、日常生活を送ることだってできる。でもダンスをするには、」

「リハビリが必要」

 

 私の言葉にマネージャーさんはその通り、と答えた。

 

「リハビリをしても、前のように動けるかどうかは分からないそうだ」

 

 ため息を付いて俯くマネージャーさんを、私はただ呆然と見つめた。

 リハビリはきっと辛いものになるのだろう。身体的に苦痛なだけでなく、精神的にも苦痛なはずだ。もう踊れないかもしれないという恐怖と闘いながらのリハビリ。彼にそれが耐えきれるのかどうか、私には分からなかった。

 

「君がいてくれれば、乗り越えられるんじゃないかと思ったんだよ」

 

 なんて、マネージャーさんの言葉を信じられなかった。少なからず私と彼の関係を壊す原因の一部となった人。そんな人の言葉は、どれぐらい信用できるのだろうか? 正直、虫が良すぎやしないだろうか。

 

「考えさせてください」

 

 そう言って、私は自宅に帰った。

 

 家に帰っても、考えるのは彼のことばかりだった。もう何を見ても何をしても、彼のことしか考えられなかった。その事実に気づいた時、もう答えは出ているんじゃないかと思った。

 結局、私はこれからもずっと彼のことを考え続ける。たとえどんな形であったとしても。

 そして私は今、彼を傍で支える権利を託されたようなものなのだ。

 彼を、支える。

 私は彼を、支えられる?

 わからない。

 私は彼を支えたい?

 答えは、もう出ている。


 翌日、私は花屋に寄ってから病院に向かった。

 昨日と同じように、扉の前で深呼吸してから病室に入る。案の定、彼は私を見るなり目を見開いてまた枕を投げつけてきた。花をかばって私はまた顔面でそれを受け止めてしまった。

 

「何で来るんだよ!」

 

 そう怒鳴られても、私は怯まなかった。だってもう、心に決めたから。たとえ彼に拒絶されても、傍で支えるって、決めたから。

 私はベッドの正面に回ると、テーブルの上に花束を置いた。

 

「ジャスミンの花」

 

 私の言葉に、彼はただ何とも言えない表情を浮かべるだけだった。

 

「花言葉、知ってる?」

 

 彼が何も答えてくれないだろうとわかっていても、質問せざるを得なかった。そこで間を置いて一度深呼吸してから、言葉を紡いだ。

 

「あなたについていく」

 

 まっすぐ、彼の瞳を見つめながらそう言い放った。彼が小さく息を呑んだのが分かった。

 

「あなたに、ついていく」

 

 何故だか自分の頬を涙の雫が伝うのを感じた。おかしいな。悲しい場面じゃ、ないはずなんだけどな。

 

「何でくるんだよ」

 

 ため息をついてから、絞り出すように彼はつぶやいた。

 

「あなたに、ついて」

「そうじゃなくて」

 

 苛立たしげに、彼は私の言葉を遮った。

 

「今日とか、昨日だけじゃなくて。お前のこと、吹っ切ろうって頑張って、大丈夫って思った頃にライブとか、何で来るんだよ」

 

 彼の瞳にもうっすらと涙が浮かび始めた。

 

「気付いてたの?」


 自然と、私の声は震えていた。

 

「……別れてすぐはいっつもお前のことを探してた。もしかしたら来てくれるんじゃないかって。でも、お前はそこにはいなくて。もう諦めようって、思った。それでもどこかで諦めきれてなかったんだよな。さすがに、本番では分かんなかった。でもスタッフさんからDVD用の映像見せられた時、お前が居たんだ」

 

 伸也は小さな笑みをこぼしながら続けた。

 

「お前、泣いてんだもん。俺のライブで、みんな楽しそうにしてんのに、泣いてんだもん。俺、もうどうすれば良いか分かんなくなっちゃって」

 

 そこまで言って、伸也は深呼吸をしてから背筋を正した。

 

「お前のこと、忘れたことなんてなかった。そもそも、別れる気もなかった。でも、あんなことになっちゃって。お前に拒絶されたらって思ったら、恐くて何もできなかった」

 

 どうやら私の涙腺は崩壊したらしい。まるで決壊したダムのように、涙が止まらなくなった。

 だって、いいんだよね?

 そういうことだって思って、いいんだよね?

 期待して、いいんだよね?

 

「今でも、想いは変わらない。いや、きっと前より強くなってる」

 

 何故だか私は頷いてしまった。一体何に頷いたのか、自分でも理由はさっぱり分からないのに、なぜか頷いた。

 

「俺、これから大変だと思う。どうなるか、自分でも分かんない。すっげえ恐い。でも、お前が一緒だったら乗り越えられる気がする」

 

 そう言いながらそっと、彼が私の手を取った。

 

「こんな俺で良かったら、また彼氏にしてくれませんか?」

 

 彼の言葉に、私はバカみたいに頷いた。

 涙と鼻水がぐちょぐちょに混ざった汚い顔だってことは分かってた。早くどうにかしたかった。でもそれよりも早く、彼の顔が近づいてきて、唇が重なった。

 唇はすぐに離れて、彼の顔を見れば案の定私のいろんなものがついてしまっていて。それを見て思わず笑ってしまった。そんな私を見て、彼も笑う。こうやって笑いあうのは、いったいいつぶりなんだろう?

 でも、こうやって笑い合えているうちは、大丈夫なんだと思う。

 こんな風に笑いあえている間、私は彼についていこう。

 もう一度心の中でそう呟いた瞬間、ジャスミンの花がふわっと香った気がした。

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